まさをなる空よりしだれざくらかな 富安風生。桜の花開くこの時期に、この句のような光景はそこここで見ることが出来るであろうが、このように見たとしても、誰でもがこのように言葉に出来るわけではない。見たままを詠めとする写生俳句は、詠む者を試すように、穴の開くほど見よとして、その真意は明かさず、自(おの)ずと見えて来るものが真意の答えであると、気の長い構えこそを佳しとし、知識を仕入れていち早く真意を見極めようとする者を軽蔑する。が、俳句に対してこのように身構えることを嫌う者は、例えば次のような句を作る。枝垂桜わたくしの居る方が正面 池田澄子。この句には、恐らく複数の者らで行ったであろう花見の場面が閉じ込められている。およそどうでもいい桜の正面というものを、このように詠む疎(おろそ)かに出来ぬユーモアは、偏(ひとえ)に作者の直観から生まれたものである。風生の俳句には、このようなユーモアははじめからない。青空から直(じか)に足元の地面に垂れ下がる枝垂桜は、その大きさで風生を圧倒し、この「空より」という云いは、世に住む限り逃れることの出来ない天上から下り来るものとして、見る者に畏れと歓喜を抱かせているのである。今出川通寺町通は、御所の北東で交わるのであるが、その交叉した寺町通を上った所に、広布山本満寺があり、その境内にある一本の大きな枝垂桜の散り初めの姿を、入れ替わり立ち代わり人が囲んでは、その枝ぶりを見上げていた。樹齢九十年というその桜は、狭い庭を覆うように容(かたち)佳く枝を八方に垂らし、風が来ると、遅れて揺れる枝が庭一面に花片(はなびら)を撒(ま)き散らし、小さい子どもが握って取った花片を若い母親に示して見せる。本満寺の境内の半分は墓地で、残りの二割は貸し駐車場になっている。墓地の入り口の子院一条院の門の横と、L字の駐車場にもソメイヨシノが一本ずつ、満開の白い花をつけているが、寄って見る者の姿はない。境内の隅の鐘楼の縁に座ると、その両方が見え、背を向けた方にある枝垂桜の賑やかさから遠く隔たった場所のように日が当たっていて、そのがらんとした平凡な景色は、どこかで見たことのある景色を呼び起こし、この景色がそのいくつかのかつて見た景色の組み合わせのようであるならば、それは夢の中で見る景色と同じであり、柔らかな風が吹いて来ると、ますますそのようにも見えて来るのである。平凡な場所に咲く桜ほど、人に胸を衝く思いをさせるものはない。寺町通に、古い木造の屋敷が売りに出ていた。その木戸の隙から若い桜の木が見えた。これも胸を衝かれる光景である。

 「タブーによって神聖化された慣習的行動様式が破壊される度合いに応じて、人々はどこからどこへ世の中が流れるのかを自分で見きわめ、多様な進路の前に自主的な選択を下さざるを得なくなる。外的権威にかわって、今や内的な理性が判断と選択のよるべき基準となる───というより特定の状況に絡めとられていた「道理」が閉じた社会体制から剥離されて、一般的抽象的理性に昇華する。」(丸山眞男『忠誠と反逆』筑摩書房1992年)

 「楢葉仮設住宅「無償提供」終了 全域避難7町村初、生活再建へ」(平成30年4月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)