『宇治拾遺物語』に「聖宝僧正(しやうぼうそうじやう)、一条大路渡る事」と題して次のような話が載っている。「昔、東大寺に、上座法師の、いみじくたのもしきありけり。つゆばかりも、人に物与ふることをせず、慳貪(けんどん)に罪深く見えければ、そのとき、聖宝僧正の、若き僧にておはしけるが、この上座の、惜しむ罪のあさましきにとて、わざとあらがひをせられけり。「御坊、何事したらんに、大衆(だいしゅ)に僧供(そうぐ)引かん」と言ひければ、上座思ふやう、ものあらがひして、もし負けたらんに、僧供引かんも、よしなし。さりながら、衆中にて、かく言ふことを何とも答へざらんも口惜しと思ひて、かれがえすまじきことを思ひめぐらして言ふやう、「賀茂祭の日、ま裸にて、たふさぎばかりをして、干鮭太刀にはきて、やせたる牝牛に乗りて、一条大路を大宮より河原まで、『われは東大寺の聖宝なり』と、高く名のりて、渡り給へ。しからば、この御寺の大衆より下部(しもべ)にいたるまで、大僧供(だいそうぐ)引かん」と言ふ。心中に、さりとも、よもせじと思ひければ、かたくあらがふ。聖宝、大衆みな催し集めて、大仏の御前にて、鐘打ちて、仏に申して去りぬ。その期(ご)近くなりて、一条富小路に桟敷うちて、聖宝が渡らん見んとて、大衆みな集まりぬ。上座もありけり。しばらくありて、大路の見物の者ども、おびたたしくののしる。何事かあらんと思ひて、頭さし出(いだ)して、西の方を見やれば、牝牛に乗りたる法師の裸なるが、干鮭を太刀にはきて、牛の尻をはたはたと打ちて、尻に百千の童部(わらはべ)つきて、「東大寺の聖宝こそ、上座とあらがひして渡れ」と、高く言ひけり。その年の祭りには、これを詮(せん、一番の見もの)にてぞありける。さて、大衆、おのおの寺に帰りて、上座に大僧供引かせたりけり。このこと、帝(みかど)きこしめして、「聖宝はわが身を捨てて、人を導く者にこそありけれ、今の世に、いかでかかる貴き人ありけん」とて、召し出(いだ)して、僧正までなしあげさせ給ひけり。上(かみ)の醍醐は、この僧正の建立なり。」聖宝のまだ若い時分、けちで欲深い東大寺の寺務頭の法師に、どうすれば衆徒にものを恵んでくれるかと挑み、上座法師は出来そうもない提案、賀茂祭でふんどしに干鮭を差して牝牛に乗り、己(おの)れを名乗って行けと聖宝に示すと、当日聖宝はそれを実行して上座法師の目論見は外れ、聖宝は、心動かされた帝から僧の最高位である僧正の位を貰う。この帝は、宇多法皇であり、宇多法皇の第一皇子が醍醐天皇である。この醍醐の名は、その埋葬場所に近い醍醐寺からつけられた諡号(しごう)であり、醍醐寺は聖宝が笠取山に開いた寺である。醍醐天皇の世を「延喜の治」として、天皇親政の理想とされ、その両輪となっていたのが左大臣藤原時平と右大臣菅原道真である。藤原時平は、関白藤原基経(もとつね)の長男であり、基経の娘の穏子(おんし)は醍醐天皇中宮である。醍醐天皇の皇太子となった第二皇子保明親王(やすあきらしんのう)と、保明親王の死後三歳で皇太孫となった時平の娘仁善子との間の保明親王の第一皇子慶頼王(やすよりおう)も、皇太孫のまま醍醐天皇から天皇を引き継ぐことなく五歳で死亡する。時平は、政治手法の合わない学者道真が、醍醐天皇を退けた後宇多法皇の第三皇子であり己(おの)れの娘婿齊世親王(ときよしんのう)を皇位につけようとしていると、醍醐天皇に讒言(ざんげん)し、道真はその嘘によって太宰府に弾き飛ばされ、怨死する。この死後の、時平の血を引く二人の皇太子孫の死が、この道真の祟りとされたのである。世継ぎは、国家の一大事である。醍醐天皇が縋(すが)ったのが、真言修験者聖宝であり、聖宝が上醍醐に祀った准胝観音(じゅんていかんのん)である。斯(か)くして保明親王の死と同じ年、中宮穏子の腹から後の朱雀天皇となる寛明親王(ゆたあきらしんのう)が生まれ、村上天皇となる成明親王(なりあきらしんのう)が生まれる。醍醐天皇は二人の子の誕生を、聖宝と聖宝を継いだ弟子の観賢の祈禱によるものあると思わぬはずはなかった。下醍醐の金堂の裏に、長尾天満宮という社(やしろ)がある。ここには菅原道真が祀られ、境内の衣装塚には道真の衣装と遺髪が納められているといい、生前道真がこの場所を己(おの)れの墓所にするよう聖宝に望んでいたからだといわれている。醍醐天皇は道真の死後、道真を右大臣の位に戻した。が、道真の怨霊は鎮まらなかった。朝廷が道真を祀る北野天満宮を建てるのは、延喜三年(903)の道真の死から四十四年後である。醍醐の花見は、慶長三年三月十五日(1598年4月20日)豊臣秀吉下醍醐に新たに七百本の桜を植えさせ、家人、諸大名の女房ら千三百人と宴を張ったものである。招待を受けた大坂城北政所は、秀吉に次のような文を書き送っている。「一筆申し上げまいらせ候、この春、醍醐の春にあひ候へとの御おとづれ、こよのう御うれしく存じまひらせ候。誠にうつしえの花にのみ、としどし山家の花をながめ、春を暮し侍りつる。あさからぬ御さたどもいとめでたく存じ候。局々もめしつれ候へのよし、積もりぬ鬱々を醍醐の山の春風に散らしすてんこと、おさおさしき恩風にてこそ候へ。」朝鮮に戦さを仕掛けて膠着した「積もりぬ鬱々」を抱えた天下人秀吉は、この年の八月にこの世を去る前に、花見ぐらいしか思いつくことはなかった。醍醐寺はこの花見を機に、秀吉秀頼の金で伽藍の再建を果たし、いまは人波が出来るほどの花見客が訪れる。空のよく晴れたこの日も、下醍醐の境内は人で溢(あふ)れ返っていた。白壁の築地の内の並木の桜は、見られることに馴れた枝の様(さま)で咲き誇り、老木はどれも黒々と見事な枝振りであるが、権力を持った手で撫で育てられ身についた傲(おご)りのようなものを、その満開の立ち姿に漂わせている。麓の下醍醐から四百五十メートル余の高さの上醍醐まで、大人の足で六十分掛かるという。醍醐の桜を見に来た者で、上醍醐まで足を伸ばす者はほとんどいない。上醍醐への登り道は、人の手が入っているが、途中のガタのきた険しい石段は、登り馴れない者には、油断ならないものである。自販機で水を買った時、入山受付の男が、「上に着いたら醍醐水がありますよ。」と声を掛けた。途中で二、三度ペットボトルの水を口にする。どこやらで鶯の啼く声がして、山を下りて来る二組の者らとすれ違う。下から登って来る者の姿はなく、辺りに桜は生えていない。登りつめた所から緩い下りと上りを過ごすと、上醍醐の域に出る。斜面を削って散らばるように建つ清瀧宮拝殿、清瀧宮本殿、准胝堂、薬師堂、五大堂、如意輪堂、開山堂が上醍醐の伽藍の全てであるが、聖宝が醍醐天皇の子授けを祈った、醍醐寺の元(もとい)である准胝堂は、平成二十年の落雷で堂も准胝観音も焼失し、草の生えた空き地があるだけだった。この空き地の下が、馬蹄の形に掘り削られた醍醐水の湧く所である。水の湧く所の上に、祈禱場所を置くことに恐らく修験者聖宝の意味があった。ここへ登らなければ、水を飲む喉の実感のように、その意味は分からない。下醍醐の、醍醐天皇を弔う国宝五重塔の建造は、朱雀天皇からその弟村上天皇に引き継がれ、天暦五年(951)落成を見たのであるが、その発案は、醍醐天皇の第三皇子代明親王(よしあきらしんのう)であるという。代明親王の母親は、醍醐天皇の更衣藤原鮮子で、両天皇の腹違いの弟である代明親王は、皇太子にならなかった。菅原道真を祀る長尾天満宮の鳥居の奥は、人姿もなくひっそりしていた。

 「しかし見送りだの、別れの挨拶だのが、いかに日常生活の中でフィクティヴな習慣だとしても、そういう虚構のなかでしか見られない真実があることもたしかではないか。私たちは外国を旅行して何かその国のことがわかったりはしない。ただ、その国の人との別れ際に起す感情の重い手ごたえ、それも国と国とが隔てられていればいるだけ重くなって感じられるその手ごたえ、これは外国を廻ってわれわれが得られる見聞のなかで唯一の確かなものではないだろうか。」(「ソビエト感情旅行」安岡章太郎安岡章太郎全集Ⅶ』講談社1971年)

 「夜の森に力強い舞い…笑顔『満開』 富岡で桜まつり、町民ら再会」(平成30年4月15日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)