緑蔭をよろこびの影すぎしのみ 飯田龍太。緑蔭は単なる木蔭ではなく、空間としての広がりを持ち、太陽が位置を変えても、その空間の大方は保たれ、緑蔭を乞うのは夏であるから、緑蔭を通して見る外の世界は燦たる日光に個々の輪郭を失い、緑蔭が深ければ、内側にある輪郭もまた明瞭ではなくなる。緑蔭にいると、よろこぶ様子の人影が傍らを通り過ぎて行った。人影がひとりとは限らない。よろこびの様子は、その表情だけとは限らない。暑さを逃れ来た者が、その涼しさへの安堵にあってよろこび事を口にする。が、その者らは緑蔭に留まっていたのではない。あるいは留まっていたのかもしれないが、やがて出て行ってしまう。そのことを、すぎしのみ、と飯田龍太はいう。ただよろこぶ人影だけが過ぎて行ったという、そう断じただけの龍太の心の様(さま)は、このように言葉をなぞっただけではいつまでも立ち現われて来ない。木立ちの中にテニスコートがあった。それがどこであったのか、いまは思い出すことが出来ない。そのようなテニスコートなど、どこにでもありそうな気がする。コートの片側には、海岸が迫っていたかもしれない。その片側の木立ちが濃い緑蔭をなしていて、小径が一筋蛇のように曲がりくねっている。その小径は、はじめからそのように通したのではなく、海岸への近道というのでもなく、ある者が気まぐれに通ったところが、後のちそのまま通り道になってしまったような草いきれのする小径だった。その小径を辿ったところにテニスコートが現れたことを思い出したのは、テニスボールを打つ音が雑木林の向こうからしているからである。この日の気温が三十九度を超えるさ中、人影のない妙心寺の境内の白築地を辿って、塔頭桂春院の門を潜ったのであるが、通された書院は思いの外蒸し暑く、苔の生えた狭い庭の向こう側で何人かの者らがテニスボールを打ち返す音が響いている。雑木林は、書院の庭と地続きにあるのではなく、すぐ下にあるもう一つの庭の境に繁り、下までの傾斜は植込みで仕切られ、濡れ縁から下の庭の様子は見ることが出来ず、目の前の雑木は途中の高さにある枝葉であり、そのようにいまいるところの高さを意識させる庭から見れば、やや低い位置に見えないテニスコートはあることになる。テニスコートからは、ボールの音のほかに、若い人声もしている。耳に入って来るのはそれだけではなく、クマゼミがそちこちで頻(しき)りに鳴いている。木の葉を揺らすような風はいくら待っても来ず、隅の畳の上に置いてある蚊取り線香の煙が、軒先まで上って消えてゆくのが見える。隣りの棟の方丈に移っても、纏(まと)わりつくような蒸し暑さは変わらないが、テニスボールを打つ音からは遠ざかる。桂春院は、京都に己(おの)れの寺を持ちはじめた武将に混じって、旗本だった石川貞政が持った寺であり、寺は京都の滞在先でもあり、庭はその時の慰めである。その頃にはまだ、緑蔭という言葉は使われていない。方丈の濡れ縁から見える下の庭の樹木の並びは、緑蔭ではなく、木下闇(こしたやみ)であり、闇は涼しいとは限らない。たとえば、よろこびの影すぎしのみといった飯田龍太がいた緑蔭を過ぎたのは、生臭い人間ではなく、一匹の蝶々である。龍太はその蝶の様(さま)に、いままで味わったことのない心の動きを感じる。蝶も、緑蔭で憩うということがあるかもしれない。その翅を使う様が、悦びのように龍太の目に映る。そのように目に映り、心が動いた様がよろこびの影すぎしのみ、という境地なのではないか。可憐ではかなげな蝶と緑蔭の涼しさを悦びとして共に持ったことに疑いがないこととして、恐らく龍太はすぎしのみ、と心に留め置こうとしたのである。あの時緑蔭の小径を辿って行きついたテニスコートに、ひとりの人の姿もなかった。木々の間からはボールを打つ音が小気味よく聞こえていたのであるが。

 「曇天。窓は閉まっている。食堂の、彼のいる側からは、庭は見えない。彼女のほうからは見渡せて、彼女は庭を眺めている。彼女のテーブルは、窓の縁にくっついている。光線がまぶしいため、彼女は、目に皺をよせている。彼女の視線は往ったり来たりする。ほかの客たちも、彼には見えないテニスのゲームを眺めている。彼は、テーブルを変えてほしいと申し出はしなかった。彼女は、見られていることを知らない。今朝五時頃、雨が降った。今日は、ボールを叩く音が蒸暑く、鬱陶(うっとう)しい天候を縫って響く。彼女は夏服を着ている。」(マルグリット・デュラス 田中倫郎訳 『破壊しに、と彼女は言う』河出書房新社1978年)

 「溶融燃料取り出し…1~3号機ごと「工程表」 第1原発廃炉へ」(平成30年8月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)