円山公園を背に、飲み食いや雑貨の店が立つ繁華なねねの道を南に下(さが)ると、左の塀が途切れて、石段が現れる。上(のぼ)った先には高台寺(こうだいじ)があり、石段は台所坂と呼ばれている。物売りに目も止めずやって来た白人の、リュックサックを背負った親子と思しき四人が、坂の前で立ち止まる。子どもは五、六歳と三、四歳の男の子どもで、セーター姿の父親が手に持っていた一枚の地図を丁寧に広げ、ジャンパーを着た母親に何か云う。母親は石段を見上げて、何も応えない。が、父親は地図を畳んで石段を上って行くと、三人も黙って後ろに従う。台所坂は平べったい石が緩く頂上まで続いていて、その両端を黒い小石を散らしたセメントで固めてある。頭上の、枝に残っている紅葉に足を止め、母親が携帯電話を向けて写真を撮る。子ども二人が親に遅れて頂上の山門を潜ると、右手にある駐車場の方へ駆け出し、掘立小屋のような茶店のアイスクリームの幟(のぼり)に目を止め、母親を振り返る。が、母親はいい顔をしない。高台寺は山門の左手にあるのであるが、子どもらが次に見つけたのは、巨大な白い観音像である。その霊山観音は胸の辺りまで駐車場から見え、父親と母親は子どもの後ろに立って、暫(しばら)く眺める。そして父親が携帯電話をいじったのは、その白い観音について何事か調べたのかもしれない。観世音菩薩は、自ら悟りを求めながら、己(おの)れの名を唱(とな)える者をその求めに応じて救済する、と父親は隣りの母親に教える。が、子どもの興味は移ろいやすい。上の子どもは、今度は観音が顔を向けている駐車場の西の端まで走って行き、生垣で見ずらい下の景色を、生えている桜の曲がった幹に攀(よ)じ登って見る。それほど高くもないその場所から見えるのは、祇園の二階三階建ての屋根瓦の並ぶ、変のない景色である。生垣で見えない下の子どもが、父親に抱き上げられ、兄の見ている景色を見る。が、父親も母親も上の子どもほどそれを長くは見ていない。父親は下の子どもを下ろして踵を返し、母親が上の子どもに、木から下りるように促す。親子四人は、車の疎(まば)らな駐車場を横切り、高台寺の庫裡の前まで一旦は行って、そのまま引き返して来る。四人は追い返されたのではなく、躊躇した上で入ることを止めたのである。料金がかかることを知らなかったとも思えないが、そのことが理由なのかもしれないし、他に理由があるのかもしれないが、外国からやって来たこの者らは、わざわざ石段を上って来て思い直し、父親と母親はそれぞれ子どもと手をつなぎながら、もと来た石段を下りて行く。石段を下りきった所に、がらんとした公園がある。先ほど桜の幹に攀(よ)じ登って目にしていたかもしれない上の子どもが、ねねの道の観光客のぞろぞろ歩きから逃れるように公園に入って行く。いまその親子四人は、公園の中にいて、父親と母親はリュックサックを背負ったままベンチに腰を下ろし、二人の子どもは赤い落葉を拾ったりしている。暫(しばら)くそうしている間に、四人の頭上にある日は西に傾き出している。ねねの道の先には一年坂があり、一年坂を辿れば二年坂に出、二年坂を辿れば産寧坂に出、その先が清水寺である。親子四人がこれから先、どこへ行くのかは分からない。子どもは退屈しない術(すべ)を知っているが、子どもの親は腰を上げるのがその時でもあるように、子どもが退屈してくれるのをじっと待っている。「太閤薨後(こうご)、北政所大坂ヨリ京都ニ移リ、落飾シテ高台院ト称シ、慶長十年(1605)ニ及ビ、更ニ一寺ヲ建立シ、太閤ノ冥福ヲ祈リ、且ツ其終焉ノ地ト為(なさ)ン事ヲ欲ス。於是(これにより)、徳川氏今ノ地ヲ卜(ぼく)シ、酒井忠世土井利勝ヲ以テ、其御用掛ト為シ、所司代板倉勝重ヲ普請奉行トシ、堀監物ヲ普請掛リトシ、大(おおい)ニ伽藍造営ス。」(『高台寺誌稿』)大坂城にあった豊臣秀吉の子秀頼と側室淀は、慶長二十年(1615)の夏の陣で徳川家康に攻め込まれて自害し、正室北政所ねねは、家康の援助で建てた高台寺寛永元年(1624)まで生きた。ねねには秀吉との間に子どもがなかった。子どもが退屈するのを待つこともなく年老いたねねは、日が暮れるのを、日が暮れれば床に就くだけの日々(にちにち)を幾日も過ごしたのに違いない。

 「インディアンの狩猟民がパイソンを生活の糧にしていたので、白人たちは彼らインディアンを殺すために、パイソンを大量に殺した。それでも南北戦争当時にはまだ六〇〇〇万頭がいると見られていた。ヘプワート・ディクスンはこう書いている。「毛深い黒い獣たちは、数頭が集まり、群れをなし、集団となり、隊列を組んで、ひっきりなしに地響きを立ててわれわれの前を通り過ぎていった。四〇時間にわたって休みなく彼らは続いた。何百万頭、何千万頭という野生動物の大群が。その間は、永遠にインディアンたちの小屋を潤すに足ると思えるほどであった。」」(『世界動物発見史』ヘルベルト・ヴェント 小原秀雄・羽田節子・大羽更明訳 平凡社1988年)

 「東電強制起訴…3月12日に最終弁論 遺族側「禁錮5年求める」」(平成30年12月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)