元日に届いたある者の賀状に、謹賀新年まだ京都ですか、とあった。含みのある言葉である。もしかするとこの宛先の主は住まいが変わっているかもしれないと、賀状をしたためながらこの者の頭を掠(かす)める。平成三十年の賀状は確かに京都の住所から届いているが、この宛先の主とは賀状の遣り取りのほかにつき合いはないのである。京都への転居の理由も知らず、その前に住んでいた東京でも幾度か転居を繰り返し、一度生まれ故郷の福島に戻ったことがあるということも思い出したかもしれない。住まいを転々する者は、仕事を転々する者である。そのような者は総じて貧乏者である。そのような者には、年に一度の賀状に、元気ですかとでも書けば無難である。が、この者は、まだ京都ですか、と書いた。そのような者の内に棲む正体の知れない虫がまた動き出したのではないか、と思いを巡らしたのである。思いを巡らすということは、遠くにいてその者をそのように想像しているということである。正月五日の京都は曇り日で、東福寺塔頭芬陀院(ふんだいん)もそのような空の下にあって、障子を半ば開け座布団を並べた縁は、じっと庭を見るには薄ら寒い。方丈の南にある庭は、雪舟等楊が作ったものであるという。軒下から敷かれた筋目の入った白砂が緩く斜めに庭の半分を区切り、残りは一面苔むしている。庭の左手にある盛り土と石で組んだ亀島と、向かい合わせに折り鶴の様(さま)に石を組んだ鶴島がこの庭の見所であるという。庭の奥は常緑樹や竹が鬱蒼と茂り、あるいは丸や四角に刈り込まれた躑躅(つつじ)が垣の如くに並び立ち、視界は庭を見ることのほかは遮られれている。右手の山茶花の陰に据えた手水鉢は、長く荒れたまま放っておかれていたこの庭を復元した昭和の作庭家重森三玲が置いたものである。鶴島と亀島は、長生きを願う庭の約束事であり、常緑樹も紅葉や裸木となって庭の姿印象を変えぬため、変じない生命の保ちを葉の緑に込めているという。庭の出来た応仁の時期を思えば、変わらないもの、不変なるものに心傾くということは、人情として分かりやすく、不変なるものは単純に見えるが故(ゆえ)に、生死をもって変わらざる得ぬ者は、自ら思いを深める必要があるのである。小一時間の間に、方丈の縁を五組の者らの行き来があった。内訳は中年の夫婦者と若いカップル、ほか三名はいずれも六十前後の連れのいない男である。三人の男は手持ちのカメラで鶴島と亀島を撮り、角を曲がって重森三玲が新たに作った東の庭を見、円窓のある四畳半の茶室を一通り眺めると、互いにすれ違っても挨拶を交わすわけでもなく、座布団に座って長居をすることもなく、仕舞いの顔で出て行った。この三人の者らは名前はもちろん、生まれた場所も生きて来た道すじもまったく違うはずであるのであろうが、新年の五日の同じ時に京都の小寺にわざわざ足を運んで来たことを思うのである。男らは淡々と現れ、何ごとも起こらず一人づつ姿を消し、縁に敷かれた座布団は一ミリもその位置がずれていない。が、その男らが去ってほどなく、覆っていた雲が取れ、俄(にわ)かに庭に日が注いで来たのである。様(さま)を変えないはずの庭は、たちどころに様子を変え、光を得た鶴島亀島は、朧(おぼろ)げに目出度い様子なのである。いま誰も座っていない座布団の上に、あの三人の男が並ぶことを想像すれば、目出度さはより明瞭になるのに違いないと思ったのである。東福寺塔頭芬陀院の芬陀は、芬陀利華(プンダリーカ、ふんだりか)の芬陀であり、芬陀利華とは白蓮華のことである。浄土三部経観無量寿経』にこうある。「もし仏(ほとけ)を念ぜば、まさに知るべし、この人、これ人中の分陀利華なり。」

 「磯辺の松に葉がくれて沖のかたへと入る月の、と云う琴唄の歌い出しの文句が頻りに口に乗った。気がついて見ると又同じ文句と節を繰り返している。その前は何をしていたかよく解らない。自分は立て膝を抱いて、居眠りをしていたかも知れないが、いつ目が覚めたとも気がつかなかった。開けひろげた座敷に、夏の真昼のすがすがしい風が吹き抜けている。風に乗った様な気持で口の中の節を追って行くと、さっきの所まで来るのに大分ひまがかかる。それから先へ節を変えて進む気もしない。何となくぼんやりしている内に、いつの間にか又初めに戻っていた。」(「柳検校の小閑」内田百閒『サラサーテの盤』福武文庫1990年)

 「海岸を一斉捜索 東日本大震災から7年10ヵ月、相馬署」(平成31年1月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)