太秦蜂岡の広隆寺に国宝弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)がある。「十一月(しもつき)の己亥(つちのとのゐ)の朔(ついたちのひ)に、皇太子(ひつぎのみこ、厩戸豐聰皇子(うまやとのとよとみみのみこ)、聖徳太子)諸(もろもろ)の大夫(まへつきみたち)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「我(われ)、尊(たふと)き佛像(ほとけのみかた)有(たも)てり。誰(たれ)か是(こ)の像(みかた)を得て恭拜(ゐやびまつ)らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝(はたのみやつこかはかつ)進みて曰(い)はく、「臣(やつかれ)、拜(をが)みまつらむ」といふ。便(すで)に佛像(ほとけのみかた)を受(う)く。因(よ)りて蜂岡寺(はちのをかでら)を造る。」(『日本書紀』巻第二十二、豐御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと) 推古天皇十一年(603)十一月)妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が聖徳太子を悼(いた)んで作らせた「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)に聖徳太子の言葉が残されている。「世間虚仮、唯仏是真(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)」仏は仏法であり、仏法は海の向こうより渡って来た教えであり、欽明天皇は国としてこれを受け入れ、聖徳太子推古天皇の元でこれを国の元(もとい)の一つとした。聖徳太子の手許に一体の仏像があった。それは日本で作られたものではなく、海の向こうから送られて来たものともいわれている。その仏像を聖徳太子は、海の向こうからやって来て、灌漑土木養蚕の技術で後に平安京となる地を開拓した秦一族の秦河勝に譲った。秦河勝聖徳太子の側近であったが、仏像を太子から譲り受けた者は他にはいない。その仏像が、当時は金色に塗られていた弥勒菩薩半跏思惟像であるという。聖徳太子秦河勝もこの世にどっぷり浸かっていた者である。聖徳太子と共に推古天皇の元で政(まつりごと)を仕切っていた蘇我馬子(そがのうまこ)は、世の病いを仏の祟りとして惧れ尊ぶ崇仏者として、病いを仏そのものの所為(せい)だとする排仏者の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、用明天皇の異母弟の穴穂部皇子(あなほべのみこ)を殺害し、崇峻天皇を殺害させた。この馬子の傍らにいた聖徳太子はこう云うのである。「この世は虚しく、仏法だけが正しい」呪法に熱心な仏教信者が、それを排除しようとする者を殺しても、その教えそのものは真理として揺るがない。七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)という教えがある。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう)」どのような悪もなさず、あらゆる善を行い、自分自身の心を浄めることが諸仏の教えである。教えを守って祈れば良いことがある。あるいは念仏を唱えるだけで浄土に行くことが出来る。あるいはその教えるところの境地、悟りのためには修行が不可欠であり、その修行の後色即是空空即是色の意味するところを教え伝える者となるのである。あるいは修行の果てに悟りが待っているのではなく、修行することが、修行の継続の状態が悟っているということである、とするのである。あるいは三時(さんじ)という考えがる。三時とは、正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)、末法(まっぽう)であり、正法は釈迦入滅後の五百年あるいは千年の間「教え」があり、それを実践し悟りを開く者がいる期間であり、像法はその後の、「教え」と修行者はいても悟る者の現れない千年の期間であり、末法は像法の後の、「教え」だけがあって、修行そのものが衰え、悟ることが不可能となる時である。聖徳太子のいう仏の「教え」だけが真理であるが、この世の行きつく先にはその「教え」は省みる者の誰もいない「教え」としてしか残らないのである。その「教え」るところに、弥勒菩薩が出て来る。弥勒菩薩は釈迦入滅の五十六億七千万年の後この世に現れ、救済されずにいる仏を乞(こ)う者のすべてを救う未来仏であるという。三時の教えを採(と)れば、五十六億七千万年先、仏法は衰えている。そして弥勒菩薩はやって来る。が、真理であるところの仏法を身につけた者はこの世にいない。七月十八日、京都伏見の京都アニメーションのスタジオが、一人の男によって撒かれたガソリンに火を点けられて全焼し、働いていた三十五人が死亡し、三十四人が負傷した。容疑者の四十一才の男は下着泥棒、コンビニエンスストア強盗の前科があり、強盗で懲役三年六カ月の判決を受け、三年服役している。就いた仕事は、埼玉県庁文書課の仕分け、新聞配達、コンビニ店員、郵便配達などである。この男はアニメーションにする話を書いていたという。そして男はアニメーションの会社に火を放った。この男の住んでいたアパートのドアの内には、「電気、クーラー消す」と書いた紙が貼ってあった。広隆寺弥勒菩薩聖徳太子の元にあったものであれば、聖徳太子は日日(にちにち)この仏像を拝み、弥勒菩薩はその薄く開いた両目で聖徳太子を見たのであろう。弥勒菩薩は、「教え」によって作られた仏であろうか。そうであるならば弥勒菩薩が教え救うということは、人がこの世でそう思いそう為すということである。弥勒菩薩が「教え」によって作られた仏でないのであれば、人は真理であるところの「教え」を金輪際手放さず、ひたすら弥勒菩薩を待たねばならない。

 「私は三時間ほど釣りをして、二度川のなかに落ち、とうとう、小魚を一匹釣りあげた。お前は釣りを知らないね、と、インディアンは言った。どこがまちがってるの、と、私は言った。どこもここもまちがってる、と、彼は言った。釣りをしたことがあるのかい。ないよ、と、私は言った。俺もそう思った、と、彼は言った。どこがまちがってるの、と、私は言った。そうだな、と、彼は言った。とくにまちがっているというところはない。ただ、お前は自動車を運転するスピードで釣りをしているんだ。」(『わが名はアラム』ウィリアム・サロイヤン 清水俊二訳 晶文社1980年)

 「第1原発「処理水」見えぬ着地点 タンク960基115万トン保管」(令和元年8月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)