川端茅舎(かわばたぼうしゃ)に、都府楼趾(とふろうし)菜殻焼く灰の降ることよ、の句がある。この都府楼趾は筑紫大宰府の趾のことであるが、その都府楼趾とはだだっ広い叢(くさむら)に礎石の散らばるばかりのところである。京都の南を流れる木津川沿いの加茂甕原(みかのはら)に、かつて恭仁京(くにのみや)があった。第四十五代聖武天皇は大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐に左遷した藤原広嗣に、天平十二年(740)召喚の詔勅を出す。天災・疫病の流行の原因が、右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)が重用する吉備真備・僧玄昉にあるとして朝廷からの追放を訴えた広嗣の上表を、橘諸兄が謀反と断じたからである。橘諸兄は、天平九年(737)天然痘に罹って死んだ藤原四子に代わって権力の座に就いた皇族である。四子の一人藤原宇合(うまかい)は広嗣の父である。その四子、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合、麻呂の父親藤原不比等(ふひと)は、天皇をその頂点に置いた律令国家を揺るがぬものとした豪族であり、その女(むすめ)宮子は文武天皇に嫁した聖武天皇の母親であり、宮子の異母妹光明子聖武天皇の夫人を経た皇后である。従兄弟であり、義理の兄弟でもあった広嗣は、聖武天皇の召喚に従うことなく九月三日北九州で兵を挙げる。聖武天皇は直ちに軍を差し向けるが、「朕(われ)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月(このつき)の末暫(しまら)く関東(せきのひむかし)に往かむ。その時に非ずと雖(いへど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。」と言葉を残し、奈良平城を出、反乱に背を向けるが如くに居場所を次々と移し、十一月反乱は鎮圧され広嗣は殺されるが、聖武天皇は関東を巡って恭仁に留まり、翌天平十三年(741)、ここを大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)とし、新京とするのである。「現神吾(あきつかみわご)大君の、天の下八洲(やしま)の中(うち)に、国はしも多くあれども、里はしもさはにあれども、山並みの宣(よろ)しき国と、川並みの立ち合ふ里と、山城の鹿脊山(かせやま)の間に、宮柱太敷(ふとし)き立てて、高知らず布当(ふたぎ)ノ宮は、川近み瀬の音(と)ぞ清き。山近み鳥が音(ね)とよむ。秋されば、山も轟(とど)ろに、さ雄鹿は妻呼びとよめ、春されば、岡べも茂(しじ)に、巌には花咲きををり、あなともし。布当(ふたぎ)ノ原。いと尊(たふと)。大宮処。宣(うべ)しこそ、我(わご)大君は、神のまに聞(きこ)し給(たま)ひて、刺竹(さすたけ)の大宮ここと奠(さだ)めけらしも。」(『万葉集』巻第六、久邇(くに)の新しき宮を讃(ほ)むる歌)地勢に富んだ山城の鹿脊に御所の柱を据えた、そこでは川の瀬音がし、鳥が鳴き交い、雄鹿が雌鹿を呼び、花が咲く神の御心の通りに定めた尊い内裏である、と万葉集に詠まれた新都恭仁京であるが、聖武天皇は翌天平十四年(742)には近江紫香楽(しがらき)に、二年後には摂津難波に、再び紫香楽にと居所を移し、これらの居所は都として建設を進めたにもかかわらず、天平十七年(745)平城京にまた戻ってしまう。この間の『続日本紀(しょくにほんぎ)』の記載はこうである。「天平十二年(740)八月癸未(二十九日)、大宰少弐従五位下藤原朝臣広嗣、表(へう)を上(たてまつ)りて時政(じせい)の得失を指(しめ)し、天地の災異を陳(の)ぶ。因(より)て僧正玄昉法師、右衛士督(うゑじのかみ)従五位上下道(しもつみち)朝臣真備を除くを以て言(こと)とす。九月丁亥(三日)、広嗣遂に兵(いくさ)を起して反く。十月己卯(二十六日)、大将軍大野朝臣東人らに勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(われ)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月(このつき)の末暫(しまら)く関東(せきのひむかし)に往かむ。その時に非ずと雖(いへど)も、事已(ことや)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。」とのたまふ。壬午(二十九日)、伊勢国行幸(みゆき)したまふ。是(こ)の日、山辺(やまのへ)郡竹豁(つけ)村堀越に到りて頓(とど)まり宿る。癸未(三十日)、車駕(きよが、天皇及び天皇の乗る車)、伊勢国名張郡に到りたまふ。十一月甲申の朔(一日)、伊賀郡安保頓宮(あほのかりみや)に到りて宿る。乙酉(二日)、伊勢国壱志郡河口頓宮に到る。これを関宮(せきのみや)と謂ふ。車駕(きよが)、関宮に停りて御(おは)しますこと十箇日。是の月、大将軍東人ら言(まう)さく、「進士(しんじ)无(無)位安倍朝臣黒麻呂、今月廿三丙子(二十三日)を以て逆賊広嗣を肥前国松浦(ひのみちのくちまつら)郡値嘉嶋長野(ちかのしまながの)村に捕獲へき」とまうす。詔(みことのり)して報(こた)へて曰(のたま)はく、「今、十月廿九日の奏(そう)を覧て、逆賊広嗣を捕へ得たることを知りぬ。その罪顕露(あらは)にして疑ふべきに在らじ。法に依りて処決し、然(しか)して後に奏聞すべし」とのたまふ。丁亥(四日)、和遅野(わちの)に遊猲(みかり)したまふ。丁酉(十四日)、進みて鈴鹿郡赤坂頓宮に到る。丙午(二十三日)、赤坂より発ちて朝明(あさけ)郡に到る。戊申(二十五日)、桑名郡石占(いしうら)に至りて頓まり宿る。己酉(二十六日)、美濃国当伎(たぎ)郡に到る。十二月癸丑の朔(一日)、不破郡不破頓宮に到る。甲寅(二日)、官処寺(みやこでら)と曳常泉(ひきつねのいづみ)とに幸(みゆき)したまふ。丙辰(四日)、騎兵司(きひやうし)を解きて京に還し入らしむ。戊午(六日)、不破より発ちて坂田郡横川に至りて頓まり宿る。是の日、右大臣橘宿禰諸兄、在前(さき)に発ち、山背国相楽(さがらか)郡恭仁郷を経略す。遷都を擬(はか)ることを以ての故なり。己未(七日)、横川より発ちて犬上に到りて頓まる。辛酉(九日)、犬上より発ちて蒲生(がもう)郡に到りて宿る。壬戌(十日)、蒲生より発ちて野洲(やす)に到りて頓まり宿る。癸亥(十一日)、野洲より発ちて志賀郡禾津(あはつ)に到りて頓る。乙丑(十三日)、志賀山寺に幸して仏を礼(をろが)みたまふ。丙寅(十四日)、禾津より発ちて山背国相楽郡玉井に到りて頓まり宿る。丁卯(十五日)、皇帝在前(さき)に恭仁宮に幸したまふ。始めて京都(みやこ)を作る。太上天皇・皇后、在後(あと)に至りたまふ。十三年(741)春正月癸未の朔(一日)、天皇(すめらみこと)始めて恭仁宮に御(おは)しまして朝(でう、元日朝賀の儀)を受けたまる。宮の垣就(な)らず、繞(めぐら)すに帷帳(ゐちやう)を以てす。癸巳(十一日)、使(つかひ)を伊勢大神宮と七道の諸社とに遣(つかは)して幣(みてぐら)を奉らしめて、新京(あらたしきみやこ)に遷(うつ)れる状を告す。丁酉(十五日)、故太政大臣藤原朝臣不比等)の家、食封五千戸を返し上(たてまつ)る。三月乙巳(二十四日)、詔(みことのり)して曰(いは)く、「朕(われ)、薄徳を以て忝(かたじけな)くも重き任を承(う)けたまはる。政化(せいくわ)弘まらず、寤寐(ごび、寝ても覚めても)多く慙(は)づ。古(いにしへ)の明主(めいしゆ)は、皆光業(くわうげふ)を能(よ)くしき。国泰(やす)く人楽しび、災除(わざはひのぞこ)り福(さきはい)至りき。何(いか)なる政化を脩(をさ)めてか、能(よ)くこの道に臻(いた)らむ。頃者(このころ)、年穀(ねんこく)豊かならず、疫癘(えきれい)頻(しき)りに至る。慙懼(ざんく)交(こもごも)集りて、唯労(いたつ)きて己(おのれ)を罪(つみな)へり。是を以て、広く蒼生の為に遍(あまね)く景福(けいふく)を求めむ。故に、前年(さきのとし)、に使(つかひ)を馳(は)せて、天下(あめのした)の神宮(かみのみや)を増し飾りき。去歳(こぞ)は普(あまね)く天下(あめのした)をして、釈迦牟尼仏尊像の高さ一丈六尺なる各々(おのおの)一鋪(いちほ)を造らしめ、并(あは)せて大般若経各々(おのおの)一部を写さしめたり。今春(このはる)より已来(このかた)、秋稼(あきのみのり)に至るまで、風雨順序(をりにしたが)ひ、五穀豊かに穣(みの)らむ。此れ乃(すなは)ち、誠を徴(あらは)して願を啓(ひら)くこと、霊貺(れいくゐやう)答ふるが如し。載(すなは)ち惶(おそ)れ載(すなは)ち懼(お)ぢて、自ら寧(やす)きこと無し。恭敬供養し、流通(るつう)せむときには、我ら四王(四天王)、常に来りて擁護(おうご)せむ。一切の災障も皆消殄(せうてん)せしめむ。憂愁・疾疫をも亦(また)除差せしめむ。所願心に遂げて、恒に歓喜を生ぜしめむ」といへり。天下(あめのした)の諸国をして各々(おのおの)七重塔一区を敬ひ造らしめ、并(あは)せて金光明最勝王経・妙法蓮華経一部を写さしむべし。朕(われ)また別に擬(はか)りて、金字の金光明最勝王経を写し、塔毎(たふごと)に各々(おのおの)一部を置かしめむ。冀(ねが)はくは、聖法(しやうほふ、仏法)の盛(さかり)、天地(あめつち)と与(とも)に永く流(つたは)り、擁護の恩(めぐみ)、幽明(いうみやう、来世と現世)を被(かがふ)りて恒に満たむことを。その造塔の寺は、兼ねて国華(こくくゑ)とせむ。必ず好き処を択(えら)ひて、実(まこと)に久しく長かるべし。人に近くは、薫臭の及ぶ所を欲せず。人に遠くは、衆(もろもろ)を労(わづら)はして帰集することを欲(ねが)はず。国司等(ども)、各々(おのおの)務めて厳飾を存(たも)ち、兼ねて潔清を尽くすべし。近く諸天(しよてん、仏法を擁護する神々)に感(かま)け、臨護を庶幾(ねが)ふ。遐邇(かじ、遠近)に布(ふ)れ告げて、朕(わ)が意(こころ)を知らしめよ。また毎国(くにごと)の僧寺(ほふしでら)に封五十戸、水田一十町施せ。尼寺には水田十町。僧寺(ほふしでら)は、必ず廿(二十)僧有らしめよ。その寺の名は、金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺は一十尼。その名は法華滅罪之寺とせよ。両寺(ふたつのてら)は相去りて(離れて)、教戒を受くべし。若(も)し闕(か)くること有らば、即ち補ひ満つべし。その僧尼、毎月(つきごと)の八日、に必ず最勝王経を転読すべし。月の半ばに至る毎に戒羯磨(かいかつま、菩提戒羯磨文一巻)を誦(じゅ)せよ。毎月(つきごと)の六歳日(ろくさいにち)には、公私ともに漁猟殺生すること得ざれ。国司等(ども)、恒に検校(けんけう、寺社の監督職)を加ふべし」とのたまふ。七月戊午(十日)、太上天皇(元正)、新京(あらたしきみや)に移り御(おは)します。天皇(すめらみこと)河頭(かはぎし)に迎へ奉る。八月丙午(二十八日)、平城の二市を恭仁京(くにのみやこ)に遷(うつ)す。九月己未(十二日)、賀世山(鹿脊山)の西の路より東を左京とし、西を右京とす。丁丑(三十日)、宇治と山科とに行幸(みゆき)したまふ。冬十月己卯(二日)、車駕(きよが)、宮に還(かへ)りたまふ。十一月戊辰(二十一日)、右大臣橘宿禰諸兄奏(まう)さく、「此間(ここ)の朝廷(みかど)、何(いか)なる名号(な)を以てか万代(よろづよ)に伝へむ」とまうす。天皇(すめらみこと)勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「号(なづ)けて、大養徳恭仁大宮(やまとくにのおほみや)とす」とのたまふ。十四年(742)八月癸未(十一日)、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(われ)、近江(ちかつあふみ)国甲賀(かふか)郡紫香楽(しがらき)村に行幸(みゆき)せむ」とのたまふ。即(すなは)ち、造宮卿(ざうぐきやう)正四位下智努王(ちののおほきみ)、輔外従五位下高岡連河内(かふち)ら四人を造離宮司とす。甲申(十二日)、車駕(きよが)、石原宮に幸(みゆき)したまふ。己亥(二十七日)、紫香楽宮行幸(みゆき)したまふ。九月壬寅の朔(一日)、刺松原(さすのまつばら)に幸(みゆき)したまふ。乙巳(四日)、車駕(きよが)、恭仁宮に還(かへ)りたまふ。癸丑(十二日)、大風ふき雨ふる。宮中(うち)の屋墻(やかき)と百姓の廬舎(いほや)とを壊(こぼ)つ。十二月丁亥(十六日)、地震(なゐ)ふる。庚子(二十九日)、紫香楽宮行幸(みゆき)したまふ。十五年(743)春正月辛丑の朔、右大臣橘宿禰諸兄を遣(つかは)して在前(さき)に恭仁宮に還(かへ)らしむ。壬寅(一日)、車駕(きよが)、紫香楽より至りたまふ。夏四月壬甲(三日)、紫香楽行幸(みゆき)したまふ。乙酉(十六日)、車駕(きよが)、宮に還(かへ)りたまふ。五月乙丑(二十七日)、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「如聞(きくな)らく、「墾田(こんでん)は養老七年の格(きやく)に依り、限満つる後は例(ためし)に依りて収受す。是に由(よ)りて農夫怠り倦(う)みて地を開きし後荒(すさ)みぬ」ときく。今より以後(のち)、任(ほしきまにまに)私(わたくし)の財(たから)として、三世一身を論(あげつら)ふこと無く、咸悉(ことごと)く永年に取ること莫(なか)れ。親王の一品と一位とには五百町、二品と二位とには四百町、三品・四品と三位とには三百町、四位には二百町、五位には百町、六位已下八位上には五十町、初已下庶人に至るまでには十町。但し郡司は大領・少領に三十町、主政・主帳に十町。若(も)し先より給(たま)ひし地茲(ちこ)の限に過多すること有らば、便即(すなはち)公に還(かへ)し、姧昨(けんさ)隠欺(おむこ)は罪を科(おほ)すこと法(のり)の如し。国司任に在る日は、墾田一(もは)ら前(さき)に格(きやく)に依れ」とのたまふ。七月癸亥(二十六日)、紫香楽宮行幸(みゆき)したまふ。冬十月辛巳(十五日)、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(われ)薄徳を以て恭(ゐやゐや)しく大位(たいゐ、天皇の位)を承(う)け、志兼済に存して勤めて人物を撫(な)づ。率土(そつと)の浜已(すで)に仁恕(じんしよ)に霑(うるほ)ふと雖(いへど)も、普天の下法恩洽(あまね)くあらず。誠に三宝の威霊に頼りて乾坤相ひ泰(ゆた)かにし、万代(ばんだい)の福業を脩(おさ)めて動植咸(ことごと)く栄むとす。粤(ここ)に天平十五年歳(ほし)癸未に次(やど)る十月十五日を以て菩薩の大願を発(おこ)して、盧舎那仏の金銅像一軀(たい)を造り奉る。国の銅(あかがね)を尽して象(かたち)を鎔(い)、大山を削りて堂を構へ、広く法界に及(およぼ)して朕(わ)が智識とす。遂に同じく利益(りやく)を蒙(かがふ)りて共に菩提致さしめむ。夫(そ)れ、天下(あめのした)の富を有(たも)つは朕(われ)なり。天下(あめのした)の勢を有(たも)つは朕(われ)なり。この富と勢とを以てこの尊き像を造らしむ。事成り易(やす)く、心至り難し。但(ただ)恐るらくは、徒(ただ)に人を労すことのみ有りて能(よ)く聖に感(かま)くること無く、或(ある)は誹謗(ひぼう)を生(おこ)して反(かへ)りて罪辜(ざいこ)に堕(おと)さむことを。是(こ)の故に智識に預かる者(ひと)は懇(ねもころ)に至れる誠を発(おこ)し、各(おのおの)介(おほき)なる福(さきはひ)を招きて、日毎(ひごと)に三たび盧舎那仏を拝むべし。自ら念(おもひ)を存して各(おのおの)盧舎那仏を造るべし。如(も)し更(さら)に人有りて一枝の草一把の土(ひぢ)を持ちて像を助け造らむと情(こころ)に願はば、恣(ほしきまにま)に聴(ゆる)せ。国郡の司、この事に因(よ)りて百姓を侵し擾(みだ)し、強(し)ひて収(をさ)め斂(あつ)めしむること莫(なか)れ。遐邇(かじ、遠近、国の至る所)に布(ふ)れ告(つ)げて朕(わ)が意(こころ)を知らしめよ」とのたまふ。乙酉(十九日)、皇帝紫香楽宮に御(おは)しまして、盧舎那仏の仏像を造り奉らむが為に始めて寺の地を開きたまふ。是(ここ)に行基法師、弟子等を率ゐて衆庶(もろもろ)を勧め誘(みちび)く。十一月丁酉(二日)、天皇(すめらみこと)、恭仁宮に還りたまふ。車駕(きよが)紫香楽宮に留連すること凡(おほよ)そ四月なり。十二月己丑(二十四日)、始めて平城(なら)の器仗(きぢやう、武器)を運びて、恭仁宮に収め置く。辛卯(二十六日)、初めて平城の大極殿を并(あは)せて歩廊を壊(こほ)ちて恭仁宮に遷(うつ)し造ること四年にして、茲(ここ)にその功(わざ)纔(わづ)かに畢(をは)りぬ。用度の費(つひや)さるること勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。是(ここ)に至りて更に紫香楽宮を造る。仍(より)て恭仁宮の造作を停(とど)む。十六年閏正月乙丑の朔(一日)詔(みことのり)して百官を朝堂に喚(め)し会(つど)へ、問ひて曰(のたま)はく、「恭仁・難波の二京、何(いづれ)をか定めて都とせむ。各(おのおの)その志を言(まう)せ」とのたまふ。是(ここ)に、恭仁宮の便宜を陳(のぶ)る者(ひと)、五位已(い)上廿(二十)四人、六位已下百五十七人なり。難波宮の便宜を陳ぶる者(ひと)、五位已上廿三人、六位已下一百卅(さんじゅう)人なり。戊辰(四日)、従三位巨勢朝臣奈弓麻呂(なでまろ)、従四位上藤原朝臣仲麻呂を遣(つかは)し、市(いち)に就きて京を定むる事を問はしむ。市の人皆恭仁京を都とせむことを願ふ。但し、難波を願ふ者(ひと)一人、平城(なら)を願ふ者(ひと)一人有り。乙亥(十一日)、天皇(すめらみこと)、難波宮行幸(みゆき)したまふ。是(こ)の日、安積親王(あさかのみこ、聖武天皇の皇子、母県犬養広刀自)、脚の病に縁(よ)りて桜井頓宮(さくらゐのかりみや)より還(かへ)る。丁丑(十三日)、薨(こう)しぬ。時に年十七。二月乙未(朔日、一日)、少納言従五位上茨田王(まむたのおほきみ)を恭仁宮に遣して、駅鈴(やくりやう)・内外(ないぐゑ)の印(おして)を取らしむ。また諸司と朝集使(でうじふし)らとを難波宮に遣る。丙申(二日)、中納言従三位巨勢朝臣奈弓麻呂、留守(るしゆ)の官(つかさ)に給(たま)へる鈴・印(おして)を持ちて難波宮に詣(いた)る。甲辰(十日)、和泉宮に幸(みゆき)したまふ。丁未(十三日)、車駕(きよが)、和泉宮より至りたまふ。甲寅(二十日)、恭仁宮の高御座(たかみくら)并(あは)せて大楯を難波宮に運ぶ。また使(つかひ)を遣(つかは)して水路を取りて兵庫(武器庫)の器仗(きぢやう)を運び漕がしむ。乙卯(二十一日)、恭仁京の百姓(はくせい)の難波宮に遷(うつ)らむと情(こころ)に願ふ者(ひと)は恣(ほしきまにま)に聴(ゆる)す。丙辰(二十二日)、安曇江に幸(みゆき)して、松林を遊覧したまふ。戊午(二十四日)、三嶋路を取りて紫香楽宮行幸(みゆき)したまふ。太上天皇(元正)と左大臣宿禰諸兄とは留まりて難波宮に在り。庚申(二十六日)、左大臣勅(みことのり)を宣(の)りて云(のたま)はく、「今、難波宮を以て皇都(みやこ)とす。この状を知りて京戸(きょうこ)の百姓意(こころ)の任(まま)に往来すべし」とのたまふ。三月甲戌(十一日)、石上・榎井の二氏、大き楯・槍(ほこ)を難波宮の中と外との門(みかど)に樹(た)つ。丁丑(十四日)、金光明寺大般若経を運びて紫香楽宮に致す。夏四月丙午(十三日)、紫香楽宮の西北の山に火あり。城下の男女数千餘人皆趣(おもぶ)き山を伐(う)つ。然(しか)して後に火滅(き)えぬ。天皇(すめらみこと)これを嘉(よみ)して布を賜(たま)ふこと人ごとに一端。己已(八日)、車駕(きよが)、難波宮に還りたまふ。十一月壬申(十三日)、甲賀寺に始めて盧舎那仏の像の体骨柱を建つ。天皇(すめらみこと)、親(みづか)ら臨(のぞ)みて手(てづか)らその縄を引きたまふ。十七年春正月己未の朔(一日)、朝(朝賀の儀)を廃(や)む。乍(たちま)ちに新京(あらたしきみやこ、紫香楽宮)に還り、山を伐り地を開きて、以て宮室(きうしつ)を造る。垣墻(みかき)未だ成(な)らず、繞(めぐら)すに帷帳(ゐちやう)を以てす。兵部卿従四位上大伴宿禰牛養、衛門督従四位下佐伯宿禰常人をして大きなる楯・槍を樹(た)てしむ。己卯(二十一日)、詔(みことのり)ありて、行基法師を大僧正としたまふ。夏四月戊子の朔(一日)、市の西の山に火あり。庚寅(三日)、寺(甲賀寺)の東の山に火あり。乙未(八日)、伊賀国真木山に火あり。三四日滅(き)えずして、延び焼くこと数百餘町。即ち、山背(やましろ)・伊賀・近江(ちかつあふみ)等の国に仰せてこれを撲(う)ち滅(け)たしむ。戊戌(十一日)、宮城の東の山に火あり。連日(ひつづ)きて滅(き)えず。是(ここ)に、都下(みやこ)の男女、競ひ往きて川に臨みて物を埋(う)む。天皇(すめらみこと)、駕(が)を備(まう)けて大丘野の幸(みゆき)したまはむとす。庚子(二十三日)、夜、微雨(こさめ)ふりて火乃(すなは)ち滅(き)え止む。甲寅(二十七日)、是(こ)の日、通夜(よもすがら)、地震(なゐ)ふる。五月戊午の朔(一日)、地震(なゐ)ふる。已未(二日)、地震(なゐ)ふる。是(こ)の日、太政官、諸司の官人等(くわんにんども)を召して、何(いづれ)の処(ところ)を以て京とすべきか問ふ。皆言(まう)さく、「平城(なら)に都すべし」とまうす。庚申(三日)地震(なゐ)ふる。造宮輔従四位下秦嶋麻呂を遣(つかは)して恭仁宮を掃除(はらひきよ)めしむ。辛酉(四日)、地震(なゐ)ふる。大膳大夫正四位下栗栖王を平城(なら)の薬師寺に遣(つかは)して、四大寺(大安・薬師・元興・興福)の衆僧を請(こ)ひ集(つど)へしめ、何(いづれ)の処(ところ)を以て京(みやこ)とすべきかを問はしむ。僉(みな)曰(まう)さく、「平城(なら)を以て都とすべし」とまうす。壬戌(五日)、地震(なゐ)ふる。日夜止まず。是(こ)の日、車駕(きよが)、恭仁宮に還りたまふ。癸亥(六日)、地震(なゐ)ふる。車駕(きよが)、恭仁宮の泉橋に到りたまふ。時に百姓、遥かに車駕(きよが)を望みて、道の左に拝謁(をが)み、共に万歳を称(とな)ふ。是(こ)の日、恭仁宮に到りたまふ。甲子(七日)、地震(なゐ)ふる。右大弁従四位下朝臣飯麻呂を遣(つかは)して、平城宮(ならのみや)を掃除(はらひきよ)めしむ。乙丑(八日)、地震(なゐ)ふる。四月より雨ふらず。種藝(ううるわざ)を得ず、因(より)て幣(みてぐら)を諸国の神社(かむやしろ)に奉(たてまつ)りて雨を祈(こ)ふ。丙寅(九日)、地震(なゐ)ふる。近江(ちかつあふみ)の国民(くにのたみ)一千人を発(いだ)して、甲賀宮の辺の山の火を滅(け)たしむ。丁卯(十日)、地震(なゐ)ふる。大般若経平城宮(ならのみや)に読ましむ。是(こ)の日、恭仁京の市人、平城(なら)に徒(うつ)る。暁夜(あかときよ)も争ひ行き、相接(あひつ)ぎて絶ゆること无(な、無)し。戊辰(十一日)、幣帛(みてぐら)を諸(もろもろ)の陵(みささぎ)に奉(たてまつ)る。是(こ)の時に甲賀宮(かふかのみや、紫香楽宮)空しくして人无(な)し。盗賊充ち斥(み)ちて、火も亦(また)滅(き)えず。仍(より)て諸司と衛門の衛士らとを遣(つかは)して、官物(くわんもち)を収めしむ。是(こ)の日、平城(なら)へ行幸(みゆき)したまひ、中宮院を御在所とす。旧(もと)の皇后(おほきさき)のを宮寺(みやてら)とす。癸酉(十六日)、地震(なゐ)ふる。乙亥(十八日)、地震(なゐ)ふる。是(こ)の月、地震(なゐ)ふること、常に異なり。往往(しばしば)坼(ひら)き裂けて水泉(いづみ)湧き出づ。六月庚子(十四日)、是(こ)の日、宮門(きうもん、平城宮の門)の大楯(おほきたて)を樹(た)つ。秋七月庚申(五日)、使(つかひ)を遣(つかは)して雨を祈(こ)はしむ。壬申(十七日)、地震(なゐ)ふる。癸酉(十八日)、地震(なゐ)ふる。八月己酉(二十四日)、地震(なゐ)ふる。癸丑(二十八日)、難波宮行幸(みゆき)したまふ。甲寅(二十九日)、地震(なゐ)ふる。九月丙辰(二日)、地震(なゐ)ふる。己已(十五日)、三年の内、天下(あめのした)に一切の宍(しし、生獣)を殺すことを禁断す。辛未(十七日)、勅(みことのり)したまはく、「朕(われ)、頃者(このころ)、枕席(しむせき、体調)安からず、稍(やや)く旬日に延(ひ)く。以為(おもひみ)るに、治道失有りて、民多く罪に罹(かか)るにあらむ。天下(あめのした)に大赦(たいしや)すべし。常赦の免(ゆる)さぬ所も咸(ことごと)く赦除(ゆる)せ。その年八十以上と、鰥寡惸独(くわんくわけいどく、妻夫父子の無い者)と并(あは)せて疹疾(しんしつ)の徒(ともがら)との自存(じぞん)すること能(あた)はぬ者(ひと)には、量(はか)りて賑恤(しんじゆつ、困窮者の金品支援)を加へよ」とのたまふ。癸酉(十九日)、天皇(すめらみこと)、不豫(みやまひ、病気)したまふ。平城(なら)・恭仁の留守に勅(みことのり)ありて、宮中(みやのうち)を固く守らしめたまふ。悉(ことごと)く孫王等(そんわうたち、天武ないし天智の孫王)を追(め)して難波宮に詣(いた)らしむ。使を遣(つかは)して、平城宮(ならのみや)の鈴・印(おして)を取らしむ。また、京師・畿内の諸寺と諸(もろもろ)の名山・浄処とをして薬師悔過の法を行はしむ。幣(みてぐら)を奉(たてまつ)りて賀茂・松尾(まつのを)等の神社(かむやしろ)を祈(ね)ぎ禱(の)む。諸国をして有(も)てる鷹・鵜を並(ならび)に放ち去らしむ。三千八百人を度して出家せしむ。己卯(二十五日)、車駕(きよが)、平城(なら)に還りたまふ。是(こ)の夕、宮池駅(みやいけのうまや)に宿(やど)りたまふ。庚辰(二十六日)、平城宮(ならのみや)に至りたまふ。十二月戊戌(十五日)、恭仁宮の兵器(つはもの)を平城(なら)に運ぶ。」僅(わず)か五年の内に都を三度奠(さだ)め、そのどれも形が整わぬまま打ち捨ててしまったことに理由がないわけがない、が『続日本紀』にその理由は一言も記されていない。聖武天皇が首(おびと)の名だった七歳の時、父の第四十二代文武天皇が死去する。位を継いだのは、第三十八代天智天皇の皇女であり、天智天皇の弟第四十代天武天皇とその次を継いだ第四十一代持統天皇との間に生まれた草壁皇子に嫁して文武天皇を産んだ元明天皇であり、その次を継いだのは文武天皇の姉の元正天皇であり、皇太子首(おびと)ではなかった。「因(より)てこの神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯(よはい)幼く稚(わか)くして未だ深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷髙内親王(ひたかのひめのみこ、文武天皇の姉)は、早く祥符(しやうふ、天の授けるよいしるし)に叶ひ、夙(つと)に徳音(とくいむ、よい評判)を彰(あらは)せり。天の縦(ゆる)せる寛仁、沈静婉變(ちむせいゑんれん、もの静かで美しい)にして、華夏載せ佇(とま)り、謳訟(おうしよう)帰(おもむ)く(国中が推載し徳をたたえる)ところを知る。今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉(ことごと)く祇(つつし)みて、朕(わ)が意(こころ)に称(かな)ふべし。」(『続日本紀』巻第六)この時十五歳だった首(おびと)皇太子は、まだその位に値する人物ではないと判断されたのである。首(おびと)皇太子が第四十五代聖武天皇となるのは神亀元年(724)、二十四歳の時である。神亀四年(727)九月二十九日、藤原安宿媛(あすかべひめ、光明子)との間に皇子基王が生まれるが、翌神亀五年(728)九月十三日、満一歳の日を待たずに亡くなってしまう。「天平元年(729)二月辛未(十日)、左京の人従七位下漆部(ぬりべ)造君足、無位中臣宮処連東人ら密(ひそかこと)を告げて称(まう)さく、「左大臣正二位長屋王(ながやのおほきみ)私(ひそ)かに左道を学びて国家を傾けむと欲(す)」とまうす。━━長屋王の宅(いへ)に就きてその罪を窮問せしむ。癸酉(十二日)、王をして自ら尽(し)なしむ。」(『続日本紀』巻第十)天智天皇の孫に当たる左大臣長屋王が、国家体制に反する思想を持ち、その思想を以て皇子基王を呪い殺したとされ、長屋王は自害し、聖武天皇に以後皇子が生まれなければ次の皇太子天皇の可能性のあった長屋王の子らも自害する。「天平元年(729)八月戊辰(十日)、詔(みことのり)して正三位藤原夫人を立てて皇后としたまふ。」(『続日本紀』巻第十)「天平六年(734)戊申(十七日)、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「地震(なゐ)ふる災は、恐るらくは政事(まつりごと)に闕(か)けたること有るに由(よ)らむ。凡(おほよ)そ厥(そ)の庶(もろもろ)の寮(つかさ)、勉めて職(しき)を理(をさ)め事を理(をさ)めよ。今より以後(のち)、若(も)し改め励まずば、その状迹(ありさま)に随ひて必ず貶黜(しりぞ)けむ」とのたまふ。」(『続日本紀』巻十一)「天平七年(735)、是(こ)の歳、年(今年の穀物)頗(すこぶ)る稔らず。夏より冬に至るまで、天下(あめのした)、豌豆瘡(わんとうさう、天然痘)俗に裳瘡(もがき)と曰ふ、を患(や)む。夭(わか)くして死ぬる者(ひと)多し。」(『続日本紀』巻第十二)天平九年(737)、この天然痘に罹(かか)って藤原四子が死亡し、この年の詰まった十二月丙寅(二十七日)、不可思議な奇跡が起こる。「丙寅(二十七日)、大倭(やまと)国を改めて、大養徳(やまと)国とす。是(こ)の日、皇太夫人(くわうたいぶにん)藤原氏(宮子、聖武天皇の母)、皇后宮に就きて、僧正玄昉法師を見る。天皇(すめらみこと)も亦(また)、皇后宮に幸(みゆき)したまふ。皇太夫人、幽憂に沈み久しく人事を廃(や)むるが為に、天皇(すめらみこと)を誕(あ)れましてより曾(かつ)て相見(あひまみ)えず。法師一たび看(み)て慧然(けいぜん)として開晤(かいご、精神が正常に戻る)す。是(ここ)に至りて適(たまたま)天皇(すめらみこと)と相見(あひまみ)えたり。天下(あめのした)、慶(よろこ)び賀(ことほ)がぬは莫(な)し。」(『続日本紀』巻十二)皇子首(おびと)を産んでから精神を病み、三十七年間会うことがなかった母藤原宮子が、玄昉の祈禱を受けると忽(たちま)ちに覚醒し聖武天皇との対面を果たしたというのである。が、この話には裏があるという。「文武天皇元年(697)、八月癸未(二十日)、藤原朝臣宮子娘(みやこのいらつめ)を夫人(ぶにん)とし、紀朝臣竈門娘(かまどのいらつめ)・石川朝臣刀子娘(とねのいらつめ)を妃(ひ)とす。」(『続日本紀』巻第一)この藤原朝臣宮子、藤原不比等の娘が、云われているところの賀茂比売(かものひめ)が母ではなく、紀州九海士の浦の海人(あま)の娘を不比等が養子にした上で、文武天皇に嫁したとするのが梅原猛の云いで、藤原四子の死で宮子の「禁」が解け対面が叶ったというのである。皇統でない藤原不比等の娘は法律の上で皇后になることは出来ない。が、たとえ養子であっても子を嫁がせて天皇と関係をつけなければならないというのが不比等の思いであり、県犬養三千代との間の実子安宿媛(あすかべひめ、光明子)を文武天皇の皇子聖武天皇夫人としたのは、なりふり構わぬ不比等の執着である。が、己(おの)れの母も夫人である光明子も皇統でないことに、不比等による雁字搦(がんじがら)めに聖武天皇が思うところが何もなかったとは思えない。「朕(われ)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月(このつき)の末、暫(しまら)く関東(せきのひむかし)に往(ゆ)かむ。その時に非ずと雖(いへど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。」(『続日本紀』巻第十三)藤原広嗣の反乱に決着のつく前に、聖武天皇は関の東の伊勢神宮に向かう。この道筋が天智天皇の子大友皇子天皇の座を争った壬申の乱天智天皇の弟大海人皇子聖武天皇の曽祖父、天武天皇)の通った道筋とも重なるといい、恭仁の地が、紫香楽に建てることになる盧舎那仏のための資材荷揚げの中継地の役割りがあったのであれば、熱心な仏教信者であった聖武天皇は大仏を、国の命あるいは己(おの)れの力財力ではなく、知識と呼ばれた民衆信徒の意思で建てるという志を以て、その布教活動をかつては法で弾圧していた僧行基(ぎょうき)を招き入れ、その任に当たらせ、紫香楽により近い恭仁に都を移したとことは、自らも知識という信徒の一人であるという証(あかし)を示し、後のちの紫香楽京への筋の通し方であり、このことはそのまま藤原家支配の平城京から一刻も早く抜け出したいという意思、「意(おも)ふ所」にほかならない。が、「天平十五年(743)十二月辛卯(二十六日)、初めて平城(なら)の大極殿并(あは)せて歩廊(ふろう)を壊(こぼ)ちて恭仁宮に遷(うつ)し造ること四年にして、茲(ここ)にその功(わざ)纔(わづ)かに畢(をは)りぬ。用度の費(つひや)さるること勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。是(ここ)に至りて更に紫香楽宮を造る。仍(より)て恭仁宮の造作を停(とど)む。」(『続日本紀』巻第十五)と筋が至り、「天平十六年(744)閏正月乙丑の朔(ついたち)、詔(みことのり)して百官を朝堂に喚(め)し会(つど)へ、問ひて曰(のたま)はく、「恭仁・難波の二京、何(いづれ)をか定めて都とせむ。各(おのおの)その志を言(まう)せ」とのたまふ。」(『続日本紀』巻十五)と、その先の聖武天皇が思い描いていたであろう道筋が歩みを止める。自ら止めたのではなく、恐らくはその道筋を心良く思わぬ者らが止めさせたのである。が、聖武天皇は平城へは戻らず、反対勢力に逆らうが如くに難波に京を遷(うつ)し、その翌年には新京紫香楽に遷(うつ)っていく。が、その紫香楽で火災が相次ぐ。この火災を放火と疑えば、聖武天皇の心はいよいよ尋常であるはずはなく、「天平十七年(745)五月己未(二日)、太政官、諸司の官人等(ども)を召(め)して、何(いづれ)の処を以て京(みやこ)とすべきかを問ふ。皆言(まう)さく、「平城(なら)に都すべし」とまうす。」と朝廷の役人らにその意思を示されれば、聖武天皇は思い描いた雁字搦めの平城京脱出から紫香楽での大仏建立までの筋書きを事ここに至って終えざるを得なかったのである。が、大仏は建った。東大寺盧舎那仏である。この寺の元(もと)いは、聖武天皇光明子との間に生まれ、一歳足らずで亡くなった唯一の皇子基王菩提寺若草山の麓にあった金鍾寺(こんしゅうじ)である。『続日本紀』の巻第二十二にこのような記述がある。「天平宝字四年(760)六月乙丑(七日)、天平応真仁正皇太后(てんひやうおうしんにんしやうくわうたいごう、光明皇太后)崩(かむあが)りましぬ。姓は藤原氏。近江朝(あふみのみかど、天智の朝廷)の大織冠内大臣鎌足の孫、平城朝(ならのみかど)の贈(ぞう)正一位太政大臣不比等の女(むすめ)なり。母を贈(ぞう)正一位県犬養橘(あがたいぬかひのたちばな)宿禰三千代と曰(い)ふ。皇太后、幼くして聡慧にして、早く声誉(せいよ)を播(し)けり。勝宝感神聖武皇帝儲弐(ちよじ)とありし日、納(い)れて妃(ひ)としたまふ。時に年十六。衆御(しゆうぎょ、多くの人)を接引(せふいん)して、皆、その歓(よろこび)を尽し、雅(まさ)しく礼訓に閑(なら)ひ、敦(あつ)く仏道を崇(あが)む。神亀元年聖武皇帝位に即(つ)きたまひて、正一位を授(さづ)け、大夫人(だいぶにん)としたまふ。高野天皇(たかののすめらみこと、孝謙)と皇太子を生む。その皇太子は、誕(うま)れて三月にして、立ちて皇太子と為る。神亀五年、夭(いのちみじか)くして薨(こう)しき。時に年二。天平元年、大夫人(たいぶにん)を尊びて皇后とす。湯沐(たうもく、食封)の外、更に別封一千戸と、高野天皇(たかののすめらみこと)の東宮に封一千戸とを加ふ。太后、仁慈にして、志、物を救ふに在り。東大寺と天下(あめのした)の国分寺とを創建するは、本(もと)、太后の勧めし所なり。また悲田・施薬の両院を設けて、天下(あめのした)の飢ゑ病める徒(ともがら)を療(いや)し養(ひた)す。」東大寺の大仏と国分寺の創建のそもそもの発想は光明子であったという。そうであれば聖武天皇はこの大仏建立を己(おの)れの信心からではなく、平城京出の理由に仕立て上げたのかもしれぬということである。「天平十八年(746)九月戊寅(二十九日)、恭仁宮の大極殿国分寺に施入す。」(『続日本紀』巻十六)木津川市加茂に恭仁宮跡並びに山城国分寺跡の碑が立つ場所がある。恭仁小学校裏の石垣の上の原っぱが大極殿、金堂の跡であり、その東側の広い原っぱにある幾つかの礎石が国分寺七重塔の跡である。そのぐるりは景観保存のために田圃や畑のままにしてある。三方は山である。「天平十七年(745)五月丁卯(十日)、是(こ)の日、恭仁宮の市人、平城(なら)に徒(うつ)る。暁夜(あかときよ)も争ひ行き、相接ぎて絶ゆること无(無)し。」京(みやこ)が平城に戻ることが決まると、東西の市の住人は夜が明けるのも待たずに、先を争うように恭仁宮から出て行った。翌年ここを国分寺としても、人が住み栄える場所にはならなかった。聖武天皇は四十八歳で長女の孝謙天皇に譲位し、孝謙天皇天武天皇の孫である淳仁天皇に譲位した後、天皇にふさわしくないとして位から下ろし、再び称徳天皇として位に就き、己(おの)れの病を治した僧弓削道鏡を法王とし、天皇の位を譲るまでの思いに至るのであるが、その思いは潰(つい)え、孝謙天皇の異母妹井上内親王を妻とした天智天皇の孫の光仁天皇が後を継ぎ、第五十代桓武天皇平安京に遷(うつ)した頃は、すでに恭仁京は忘れられた都であったに違いない。桓武天皇が奈良仏教と決別するために平城京を見捨て遷(うつ)った平安京は、千二百年天皇の住む都であり続けた。血が継がれゆく天皇に統治能力があるとは限らない。藤原不比等はそれを不問に己(おの)れ一族で維持する権力体制を築き上げた。聖武天皇は藤原一族の傍らで生まれ育ち、夫人光明子は幼馴染である。藤原不比等の意思が反映されているともいわれている『日本書紀』は、天皇はこの世を作った神々の裔(すえ)であるとされているが、この世で息する者として己(おの)れの立場を改めて思わざるを得なくなった時、聖武天皇は、「朕(われ)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月(このつき)の末、暫(しまら)く関東(せきのひむかし)に往かむ。その時に非(あら)ずと雖(いへど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。」と言葉を吐き、その「暫く」は五年に及んだ。疫病の流行や広嗣の反乱に惧(おそ)れをなしたのであれば、それが沈静すれば戻ればいいのであるが、伊勢神宮参拝の後も戻らず、国の悪状況を変えるため都を遷(うつ)し、あるいは紫香楽を仏都にする考えを持っていたのであれば、あらかじめ理由を明らかにしないのは不可思議である。都を遷(うつ)すには莫大な金がかかる。そのための綿密な計画がいる。聖武天皇の思い描いた筋書が遷都にあったとしても、資金に詰まり打ち切ったことを思えば 天皇の「意(おも)ふ所」の本心は、遷(うつ)った先の都にあったのではない。相楽郡恭仁の目と鼻の先の玉井に橘諸兄の別荘があった。天皇が常住の宮を出て他所に泊することが行幸であり、仮にその場所に留まり続けることとなれば常住の宮は天皇不在となり、それが長引くほど宮のある京は都としての体をなさなくなる。恭仁京は、新しい計画の元で都となったのではなく、聖武天皇が暫く住むこととしたため京としたのである。聖武天皇の描いた筋書は遷都という理由で平城京から出ることにあった。聖武天皇の新都宣言は、行幸の延長の方便であり、それが通じなくなれば、元に戻るより仕方がないのである。方便を使ってでも平城京を出たかったのが聖武天皇の已(や)むに已(や)まれぬ本心であり、その「意(おも)ふ所」とは、天皇とは何かということであり、天皇である己(おの)れについてである。「天平四年(732)七月丙午(五日)、春従(よ)り亢旱(かうかん)して、夏に至るまで雨ふらず。百川(はくせん)水を減(へ)し、五穀稍(やや)彫(しぼ)めり。実(まこと)に朕(わ)が不徳を以て致す所なり。」(『続日本紀』巻第十一)「朕が不徳を以て致す所なり」が、詔(みことのり)を発する時の形式的な言い回しであるとしても、聖武天皇にとっては本音であったに違いない。その座に就くまでに学び諭されたであろう天皇についての教えは、藤原一族の囲いがあっての教えであった。が、その囲いは藤原四子の死で綻(ほころ)び、教えへの信頼は天皇の内より損(そこ)なわれてゆく。綻(ほころ)びはきっかけとなり得る。聖武天皇は意(おも)ふ、いまこそ天皇について自ら考えるきっかけとしなければならぬ、と。

 「木下は大きな鯉を手元に引寄せる方法を知つてゐると言つた。鯉を釣りに行くときは、破れ傘で結構だが雨傘を持つて行く。先づ大きな魚が来た手応へがあると、半ば閉じた傘を向側に向けて破れ目に糸の手元を挟み、傘が鯉を呑込んで行くやうにして糸をたぐり寄せる。鯉は暴れやうがないのである。」(『荻窪風土記井伏鱒二 新潮社1982年)

 「31年末まで「燃料搬出」明記 福島第1原発廃炉工程表改定案」(令和元年12月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)