浄土宗の開祖法然法然源空の幼名は勢至丸(せいしまる)という。勢至は勢至菩薩の勢至であり、勢至菩薩智慧をもってすべての生きものを救い導く、阿弥陀如来の脇侍であり、阿弥陀如来のもう一方の脇侍は慈悲をもって救う観音菩薩である。法然は建永二年(1207)、七十五歳で後鳥羽上皇から流罪を申し渡される。「後鳥羽院御宇(ぎよう)法然聖人他力本願念仏宗ヲ興行す 于時(ときに)興福寺僧侶敵奏之上御弟子中狼藉子細あるよし 無実風聞によりて罪科に処せらるゝ人数事 一、法然聖人幷(ならびに)御弟子七人流罪 又御弟子四人死罪にをこなはるゝなり 聖人は土佐国番田といふ所へ流罪 罪名藤井元彦男云々生年七十六歳なり 親鸞越後国 罪名藤井善信云々生年三十五歳なり。」(『歎異抄』)旧仏教に成り下がった興福寺法然の教えを目の敵にし、弟子の振る舞いに罪をでっち上げ、法然は藤井元彦と改名させられ島流しにされたと親鸞は云い残した。極楽往生に修行も金もいらない、口に出して念仏を唱えるだけでよい。この法然の教えを止めるのに旧仏教は己(おの)れの教えではなく、上皇の命令を必要とした。それほどに法然の言葉には説得力があり、人が死後にしか希望が抱けない生き世だったのである。法然は五年後京に戻ることを許され、東山大谷に居所(いどころ)を与えられるが、その二か月後に世を去る。その居所だったところが、知恩院の奥まった山裾にある勢至堂である。この堂の上の崖に建つ御廟に登る石段脇に勢至丸の銅像が建っていた。数年前にその写真を撮った記憶があり、そのデジタルデータを探したが、ない。その像を見に行く前に目にしたはずの、その顔を撮ったモノクロ写真が載っていた本も、探せども見つからない。写真を撮ったのが肌寒い曇りの日で、勢至堂に登る石段の白塀の内に柚子のような実がなっていたことも、質の粗い写真のページの紙の手触りも覚えているのに、である。頭の中の記憶は薄れ、あるいは入れ替わるということはある。インターネットで調べれば、知恩院の勢至丸の銅像は二枚出て来る。が、どちらもその背景が違っている。一枚は背後の傍らが坂道になっており、もう一枚はガラス張りの建物で、御廟に登る石段ではない。然(しか)らばと先日、記憶の真偽を確かめるべく勢至堂に至る石段を登った。途中、記憶の通り柚子のような実を幾つもつけた木の枝が白塀から撓んでいる。が、登りきった門の内の勢至堂に、勢至丸の銅像は見当たらなかった。御廟に登る石段の左手に、法然が死の床で書いたという「一枚起請文」が掲げてあるのは記憶の通りである。が、その右手にあったはずの銅像はない。石段を戻り、巡回をしていた警備の者に銅像のありかを訊くと、私は分からない売店ででも訊いてくれ、と応える。そうであれば知恩院の直接の者に訊けば、直ちに「正解」を知ることは出来るのであろう、がこの際は警備の者がそう云うのであればその云いに従い、御影堂の前の売店に入り年配の女店員に訊けば、勢至丸様は和順会館の前に建っていると云う。それはインターネットで見た一枚がその建物の写真であり、境内にはないかといま一度訊いても、ない、幼稚園の中にも勢至丸様はいはりますが、と応える。境内にあったことは一度もないかともう一度訊くと、ありまへん、ときっぱり云うのである。和順会館は山門を出た向かいに建つ、知恩院が経営する宿泊施設である。<せいし丸さま>と台座の正面に刻まれた勢至丸の銅像は、その入り口の横にあった。記憶では、長い髪の先を後ろで束ねた勢至丸はもう少し凛々(りり)しい顔立ちをしていたのであるが、この像はやや思いつめた、思いに沈んでいるような顔をしている。が、この銅像はインターネットで見たもう一枚の写真の銅像と瓜二つであり、台座の<せいし丸さま>の文字も同じである。同じものが境内に二つないとすれば、女店員は記憶違いをしているか、女店員が売店に勤める前に、この銅像は境内の坂の傍らにあったかもしれないということである。その「動かし」がその通りであれば、その「動かし」た理由はともかく、その前に勢至堂からも「動かし」があった可能性がないとは云えないのであるが。法然は九歳の時、父親を殺されているという。法然の母親は、法然が生まれる前に剃刀を呑む夢を見たともいわれている。「抑々(そもそも)上人は、美作国久米の南條稲岡庄の人なり。父は久米の押領使、漆の時国、母は秦氏なり。子なきを嘆て夫婦心をひとつにして佛神に祈申すに、秦氏夢に剃刀を呑むと見てすなはち懐妊す。時国が曰く、「汝がはらめるところ、さだめてこれ男子にして一朝の戒師たるべし」と。秦氏そのこころ柔和にして身に苦痛なし、かたく酒肉五辛をたちて、三宝に帰する心深かりけり。つゐに宗徳院の御宇、長承二年四月七日午の正中に、秦氏なやむ事なくして男子をうむ。」(『法然上人行状絵図』)この『法然上人行状絵図』よりも前に書かれた『源空上人私日記』は、父親の殺害の前後までのことを簡潔に記している。「夫(そ)れ以(おもんみ)れば、俗姓は美作国庁の官の漆間時国の息なり。同国の久米南條稲岡庄は誕生の地なり。長承二年癸丑聖人始めて胎内を出づる時、両幡天より降る。奇異の瑞相なり。権化の再誕なり。見る者は掌を合はせ、聞く者は耳を驚かす云々。保延七年辛酉春比(ころ)、慈父は夜打のために殺害せられ畢(おわ)んぬ。聖人は生年九歳なり。彼は矮の小箭を以て凶敵の目前を射る。件(くだん)の疵を以てその敵を知る。即ちその庄の預所の明石源内武者なり。ここに因(よ)りて迯(に)げ隠れ畢(おわ)んぬ。その時聖人は同国の菩提寺院の観覚得業の弟子となり給ふ。天養二年乙丑に初めて登山の時、得業観覚の状に云ふ。「大聖文殊像一躰を進上す、観覚、西塔北谷持法房禅下」と。得業の消息を見給ひ奇(あやし)み給ふに小児来たる。聖人は十三歳なり。然(しか)る後十七歳、天台六十巻これを読み始む。久安六年庚午十八歳にして始めて師匠に暇を乞請して遁世す。」法然の死の百年の後に書かれた『法然上人行状絵図』の「秦氏なやむ事なくして男子をうむ。」の続きはこうである。「時にあたりて紫雲天にそびへ、館のうち家の西に、もとふたまたにして、すゑしげく、たかき椋の木あり。白幡二流とびきたりて、その木ずゑにかゝれり。鈴鐸天にひゞき、文彩日にかゞやく。七日を経て天にのぼりてさりぬ。見聞の輩奇異のおもひをなさずといふことなし。これより彼木を、両幡の椋となづく。星霜かさなりて、かたぶきたふれにたれど、異香つねに薫じ、奇瑞たゆることなし。人これをあがめて、佛閣をたてゝ誕生寺と号す。影堂をつくりて念佛を修せしむ。昔応神天皇御誕生の時、八の幡くだる。正見正語の人正道に往したまふしるしなりといへり。いま上人出胎の瑞、ことの儀あひおなじ。さだめてふかきこゝろあるべし。所生の小児、字を勢至丸と号す。竹馬に鞭をあぐるよはひより、その性かしこくして成人のごとし。やゝもすれば、にしの壁にむかひゐるくせあり。天台大師童稚の行状にたがはずなん侍りけり。かの時国は先祖をたづぬるに、仁明天皇の御後西三条右大臣(光公)の後胤、式部大郎源年(みなもとのみのる)、陽明門にして蔵人兼髙を殺す。其科によりて美作国に配流せらる。こゝに当国久米の押領使神戸の太夫漆の元国がむすめに嫁して男子をむましむ。元国男子なかりければ、かの外孫をもちて子として、その跡をつかしむるとき、源の姓をあらためて漆の盛行と号す。盛行が子重俊、重俊が子国弘、国弘が子時国なり。これによりて、かの時国聊本性に慢ずる心ありて、当庄(稲岡)の預所明石の源内武者定明(伯耆守源長明が嫡男堀河院御在位の時の滝口なり)をあなづりて、執務にしたがはず、面謁せざりければ、定明ふかく遺恨し、保延七年の春時国を夜討にす。この子ときに九歳也。にげかくれてもののひまより見給ふに、定明庭にありて、箭をはぎてたてたりければ、小矢をもちてこれをいる。定明が目のあひだにたちてけり。この疵かくれなくて、事あらはれぬべかりければ、時国が親類のあたを報ぜん事をおそれて定明逐電して、ながく当庄にいらず。それよりこれを小児矢となづく。見聞の諸人感歎せずといふことなし。時国ふかき疵をかうぶりて死門にのぞむとき、九歳の小児にむかいていはく。汝さらに会稽の耻を思ひ、敵人をうらむ事なかれ。これ偏に先世の宿業也。もし遺恨をむすばゞ、そのあだ世々につきがたかるべし。しかじはやく俗をのがれ家を出て我菩提をとぶらひみづからの解脱を求めんにはといひて端座して西にむかひ、合掌して佛を念じ眠がごとくして息絶えにけり。」法然の父時国は、息を引き取る前に、自分がこうなったのは前世の報いで、お前がこの復讐をすれば復讐が復讐を呼ぶことになる。お前は仏門に入り、私の菩提を弔い、煩悩を逃れ解脱せよと告げたといい、法然はこの事件を機に九歳で菩提寺に預けられ、十五歳で比叡山に登ったというのである。が、最も早い時期に書かれた法然の高弟勢観房源智の筆になると思われている『法然上人伝記』は、法然の父時国の死は法然が十五歳の時であるとしている。「別伝記に云はく、法然上人は美作州の人なり。姓は漆間氏なり。本国の本師は智鏡房(本は山僧なり) 上人十五歳に師云はく、直人(ただのひと)にあらずと。山に登らんと欲するに、上人の慈父云はく、我に敵あり、登山の後に敵に打たると聞かば後世を訪ふべし云々。即ち十五歳にして登山す。黒谷の慈眼房を師と為して出家受戒す。然(しか)る間に、慈父は敵に打たれ畢(おわ)んぬと云ふ。上人はこの由を聞きて、師に暇(いとま)を乞ひて遁世せむとするに、云はく、遁世の人も無智なるは悪く候なりと。これに依りて談義を三所に始む。謂く、玄義一所、文句一所、止観一所なり。毎日に三所に遇(あ)ふ。これに依りて三ヶ年に六十巻に亘り畢(おわ)んぬ。その後、黒谷の経藏に籠居して一切経を披見す。」法然の父時国は、十五歳で比叡山に登る法然に、自分には敵があって、もし殺されたら弔ってくれと云い、その言葉通りになり、法然は衝撃を受けて比叡山から下りようとするが、師から無智のままの遁世は止めよと断じられ、仏学に励んだというのである。伝記の法然は二人いる。父親を殺されて出家した法然と、当時仏教最上の比叡山に登って間もなく父親を殺され、仏門を捨てて遁世しようとした法然である。和順会館の勢至丸は九歳で父親を殺され、思いつめたような陰りのある顔つきをしている。記憶にある勢至堂にあったはずの勢至丸は、膝を折り合掌をする同じ姿であるが、凛々(りり)しかったのである。が、その前後で撮った写真は残っているにもかかわらず、勢至丸の銅像だけはないのである。記憶と別のところに「正解」はある。が、記憶の中のあの勢至丸の銅像を再び目にすることは、恐らくない。女店員の云った幼稚園は、知恩院が運営する華頂短期大学附属幼稚園で、勢至丸の銅像には記憶にない光背があり、園児はその前を通る行き帰りに、必ず挨拶をしてゆくのだという。

 「一枚起請文。源空述。もろこし我がてうに、もろもろの智者達のさたし申さるゝ、観念の念ニモ非ズ。又学文をして念の心を悟リテ申念仏ニモ非ズ。たゞ往生極楽のためニハ、南無阿弥陀仏と申て、疑なく往生スルゾト思とりテ、申外ニハ別ノ子さい候ハず。但三心四修と申事ノ候ハ、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生スルゾト思フ内ニ籠リ候也。此外ニをくふかき事を存ぜバ、二尊ノあハれみニハヅレ、本願ニもれ候べし。念仏ヲ信ゼン人ハ、たとひ一代ノ法ヲ能々(よくよく)学ストモ、一文不知ノ愚とんの身ニナシテ、尼入道ノ無ちノともがらニ同(おなじう)しテ、ちしやノふるまいヲせずして、只一かうに念仏すべし。為記以両手印。浄土宗ノ安心起行、此一紙ニ至極せリ。源空が所存、此外ニ全別義を存ゼズ。滅後ノ邪義ヲふせがんが為メニ、所存を記し畢(おわんぬ)。建暦二年正月二十三日 源空。」

 「福島第2原発廃炉に「44年」 東京電力、燃料取り出し22年目」(令和2年1月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)