年末が近づくと町内会を通して、「平安神宮守護」という札が配られる。これは京都府下の住民は皆平安神宮の氏子であり、この一枚の札により諸々から皆を守護するというものである。「明治二十五年(1892)の初め、文明評論家・歴史家として著名な田口卯吉(1855~1905)が桓武天皇の平安奠都(てんと)の事情を研究するため、京都を訪れた。その際、田口卯吉は京都商業会議所副会頭の中村栄助と会い、来たる明治二十八年(1895)は平安遷都後満千百年に当たる故、京都市としても然るべき記念事業を催してはどうかと勧めた。中村はこの勧めに感動し、自ら陣頭に立って京都府知事(北垣国道)、公爵・近衛篤麿など要路の人々に説き勧め、記念事業の実現に尽力した。こうして桓武天皇奠都千百年紀念祭の施行、平安神宮の創建、第四回内国勧業博覧会の開催が計画されるに至った。」(角田文衛 復刻版『平安通志』解説 新人物往来社1977年刊)この第四回内国勧業博覧会は、明治二十八年(1895)四月一日から七月三十一日まで開催された後、会場は取り壊され、平安神宮だけがその跡地に残ったのである。平安神宮の祭神は、桓武天皇孝明天皇である。創建時の祭神は桓武天皇で、昭和十五年(1940)皇紀二千六百年と称する年に国中が紀元二千六百年を祝い、第百二十一代孝明天皇が新たに祭神としてに加えられる。翌昭和十六年(1941)に太平洋戦争がはじまる前夜の年である。日本海軍が真珠湾を奇襲したアメリカの黒船に誰よりも怯(おび)え、開港を頑(かたく)なに拒んだ者が孝明天皇である。平安奠都千百年の祭りに京都市参事会が編集発行した『平安通志』に、まだ祭神となっていない孝明天皇は明治の文体でこう記されている。「孝明天皇諱(いなみ)ハ統仁(おさひと)、仁孝帝第四子ナリ、母ハ新待賢門院藤原雅子、天保二年六月十四日生ル、煕宮(ひろのみや)ト稱ス、十一年三月十四日、立テ皇太子ト爲リ、弘化三年二月十三日践祚(せんそ)シ、四年九月二十三日紫宸殿ニ即位ス、帝性英邁剛健ニシテ神姿温柔ナリ、祖宗ヲ敬ヒ、神祇ヲ崇ミ、學問ヲ好ミ、名器ヲ重ンジ、最モ心ヲ國家ノ大事ニ盡ス、和氣淸麻呂ノ偉勲ヲ追褒シ、正一位ヲ贈リ、護王大明神ノ號ヲ賜ヒ叉耕作圖ヲ宮障ニ畫カシメ以テ民ノ艱難(かんなん)ヲ視ル、是ヨリ先幕府跋扈(ばっこ)朝廷日ニ衰ヘ、天下唯將軍アルヲ知テ、天子アルヲ知ラズ帝既ニ位ニ卽キ慨然トシテ復興ノ志アリ、會ゝ(たまたま)北亞米利加合衆國使軍艦ヲ率ヰテ浦賀ニ入リ、隣交互市ヲ要求シ、歐魯巴諸國亦互ニ來テ強請スル所アリ、人心恟々タリ、時ニ太平日久ク、天下兵ヲ知ラズ、幕府恐怖、妄ニ其請ヲ許ス、帝深ク之ヲ憂ヒ、堅ク鎖國攘夷ノ旨ヲ取リ、幕府ニ諭シテ海防ヲ嚴ニセシメ、親(みずか)ラ宣命ヲ寫シ之ヲ伊勢大廟及ビ二十二社ニ禱ル、御座ヲ東庭ニ設ケ、七日膳ヲ御セズ、躬(み)ヲ以テ國難ニ代ランコトヲ禱ル、右大臣三條實萬聖體ヲ損センコトヲ懼(おそ)レ之ヲ諫(いさ)ム、帝曰ク、神祖國ヲ肇ムル此ニ一百二十世未タ曾テ外侮ヲ受ケズ、朕ノ世ニ至リ、國體玷辱セバ何ヲ以在天ノ靈ニ謝センヤ、實萬曰ク、陛下獨リ幕府ノ耳目ヲ憚ラズヤ、帝曰ク、朕賊臣ノ手ニ罹ラバ、以テ少シク神靈ニ謝スベキノミト、實萬感泣シテ退ク、幕府擅(ほしいまま)ニ條約ヲ結ブヲ聞キ、悄然トシテ曰ク、朕將ニ位ヲ遜(ゆず)リ罪ヲ大廟ニ謝セントス、左右諫メテ止ム、時ニ天下ノ志士、幕府ノ失政ヲ憤リ、爭テ輦下(れんか)ニ集リ、諸候伯ニ説キ、朝權ヲ囘復スルヲ謀ル、天下騒然タリ、幕府窘窮(きんきゅう)シ、奏シテ皇妹和宮ヲ釐降(りこう)シ、將軍家茂ニ尚シ、以テ物情ヲ鎭シ、朝幕合體以テ攘夷ノ實ヲ擧ゲント請フ、帝已ムヲ得ズシテ之ヲ許シ、躬(みずか)ラ其由ヲ錄シ、宸翰ヲ以テ公卿ニ諭ス、謂フ皇妹ヲ降嫁ス、實ニ忍ビザル所然レドモ之ヲ以テ公武を合體シ、以テ膺懲(ようちょう)ノ典ヲ擧グルヲ得バ、國家ノ爲メ、豈許サゞルヲ得ンヤト、聞ク者感泣セザル無シ、文久二年五月、大原重徳ヲ幕府ニ使シ詔ヲ將軍家茂ニ賜ヒ、諭スニ天下ノ大計三事ヲ以テス、曰ク將軍列侯ヲ率ヰテ入朝シ、内政ヲ釐革(りかく)シ、外夷ヲ處分スルノ方法ヲ議セヨ、二ニ曰ク豐臣氏ノ例ニ依リ、五大藩ヲ以テ、五大老ト爲シ、海備ヲ嚴ニセヨ、三ニ曰ク一橋刑部卿ヲ以テ將軍ノ輔佐ト爲シ、越前中將ヲ以テ大老ト爲シ、以テ幕政ヲ總(す)ベシメヨト、幕府皆勅ヲ奉ズ、三年三月、將軍家茂入朝謁見恩ヲ謝シ、十一日車駕賀茂神社ニ行幸ス、家茂諸侯伯ヲ率ヰテ之ニ扈(こ)ス、四月十一日、車駕石清水八幡ニ行幸シ、躬(みずか)ラ攘夷ノ功ヲ奏センコトヲ禱ル、此日將軍ニ節刀ヲ賜ラントス、將軍疾ヲ以テ從ハズ、事竟(つい)ニ止ム、十二日宮ニ還ル、其儀衛(ぎえい)鹵簿(ろぼ)ノ盛ナル、近古ノ有ラザル所民ニ縱觀ヲ許ス、父老涙下ルモノ有リ、寛永三年二條城行幸ヨリ、此儀斷ルコト二百三十八年、此ニ及ビ將軍ヲ召シ以テ之ヲ行フ、朝廷ノ威權幕府ニ行ハル、復タ此ニ始マル、此時攘夷ノ議益ゝ(ますます)熾(さかん)ニシテ、幕府決スルアタハズ、勤王ノ士其姑息ヲ憤リ、密ニ奏スルニ大計ヲ以テス、八月十三日詔シテ曰ク、大和ニ行幸シ、畝傍山陵ヲ拜シ、春日山ニ於テ親征ヲ議セント、發輦(はつれん)日アリ、勢益ゝ迫ル、而ルニ事俄ニ中變シ、朝議毛利敬親ヲ罪シ、其藩兵ノ堺町門守衛ヲ罷ム、毛利元純等遂ニ兵ヲ引テ國ニ歸リ、三條實美以下七卿共ニ長州ニ走ル、時ニ此月十八日ナリ、之ヲ癸亥ノ變ト云フ、尋(つい)デ元治ノ變ト爲リ、兵闕下(けっか)ニ戰ヒ銃丸禁闕ニ及ビ、京師殆ド焦土トナル、此ヨリ征長ノ師起リ、兵結デ解ケザル數年、外國隙ヲ窺ヒ、兵ヲ擁シテ來リ迫ル、將軍家茂大阪ノ行營ニ薨(こう)シ、時局益艱(えきなん)シ、開鎖ニ黨(とう)紛然相鬩(せめ)ギ、天下収拾スベカラザルノ勢アリ、然レドモ帝堅ク叡旨ヲ執リ、確然動カズ、誓テ外侮ヲ防ギ國難ヲ排シ、以テ邦家ヲ安ンジ祖宗ニ謝セントス、十年一日ノ如シ、是ニ由テ天下ノ人心幕府ヲ去リ翕然(きゅうぜん)トシテ朝廷ニ歸シ、有志ノ士復タ大政ノ王室ヨリ出デシコトヲ望ム、而シテ幕府亦自ラ覇業ノ維持スベカラザルヲ知リ、大機將ニ熟セントス、慶應三年十二月、帝痘瘡ニ罹リ、僅ニ九日ニシテ崩ズ、實ニ十二月二十五日ナリ、年三十七朝野悲慟、考妣ヲ喪スルガ如シ、二十八日、喪ヲ發シ、明年正月廿三日後月輪山陵ニ葬ル…、」史家湯本文彦が筆を執ったこの『平安通志』の孝明天皇の時代年表はこうである。「天保二年辛卯 六月十四日 皇子統仁生ル、煕宮ト號ス、天保三年壬辰 正月 伊能忠敬全國海岸ヲ實測シ、日本全圖ヲ作ル、十月 (光格)上皇密ニ山科勸修寺ニ幸シ、琉球貢使ノ江戸ニ赴クヲ觀ル、是歳 水戸侯齊昭畝傍山陵修造ノ事ヲ幕府ニ建議ス、天保五年甲午 十二月 朝鮮大ニ飢ウ、且ツ京城火ス、幕府金壹萬兩ヲ宗氏ニ貸シ之ヲ賑ハス、天保六年乙未 六月廿一日 皇子統仁ヲ以テ儲君トシ、九月十八日 親王ト爲ス、天保七年丙申 四月七日 (光格)上皇修學院離宮ニ幸ス、九月 凶荒京都飢ウ、幕府町毎ニ米貳斗五升ヲ賑ハス、九月朔 將軍家齊老シ、世子家慶立ツ、大將軍ニ任ス、時ニ年四十五、十月 幕府再ヒ京都ノ飢ヲ賑ハス、天保八年丁酉 二月 大鹽平八郎亂ヲ大坂ニ爲ス、討シテ之ヲ平ク、市街一万八千餘戸ヲ燒ク、天保九年戌戊 十月 蘭人長崎ニ來リ我漂民ヲ護送ス、天保十年己亥 幕府渡邊華山、高野長英ヲ罪ニ處ス、十二月 (光格)上皇勅シテ修學院離宮ノ止止齋ヲ仙洞ニ移ス、是歳 宇田川榕庵舎密開宗ヲ著ハス、化學此ニ始マル、天保十一年庚子 高島秋帆洋式砲術ヲ行ハン事ヲ幕府ニ建議ス、三月十四日 統仁親王ヲ立テ、皇太子トシ、小御所ヲ修メ假東宮トス、十一月 (光格)上皇仙洞ニ崩ス、年七十、水戸侯齊昭、謚號復古ノ議ヲ上ル、天保十二年辛丑 閏正月廿七日 左近衛大將藤原輔煕等ヲ上皇ノ陵ニ遣シ、謚(おくりな)ヲ上リ光格天皇ト云フ、是月 前大將軍家齊薨(こう)ス、年六十九、文恭院ト謚ス、水野忠邦閣老ト爲リ、大ニ幕政ヲ改革ス、天保十三年壬寅 九月幕府令シテ海防ヲ嚴ニス、十二月 幕府旨ヲ奉シ學館ヲ建春門前ニ興ス、名ヲ學習院ト賜フ、藤原貞善、藤原聰長ヲ以テ頭トシ、公卿ニ命シ就テ學習セシム、弘化元年甲辰 十二月二日 改元 弘化三年丙午 正月廿六日 天皇崩ス、年四十七、仁孝ト謚ス、二十三日 皇太子統仁親王践祚ス、弘化四年丁未 九月廿三日 (孝明)天皇即位ス、嘉永元年戊申 二月廿八日 改元 十二月十六日 藤原夙子ヲ立女御ト爲ス、十二月廿一日 大嘗會ヲ行フ、嘉永二年巳酉 天皇釋莫ヲ小御所ニ行フ、十二月 西洋種痘術ヲ傳フ、嘉永三年庚辰 二月四日 釋莫ヲ學習院ニ行フ、嘉永四年辛亥 三月十五日 和氣淸麻呂ニ正二位ヲ追贈シ、護王社ノ號ヲ賜フ、嘉永五年壬子 七月 洪水、三條五條橋壊ル、八月叉洪水、舟橋ヲ以テ往來ヲ通ス、九月廿二日 皇子降誕、祐宮ト號ス、嘉永六年癸丑 四月 幕府水戸老侯齊昭ヲ隠居セシメ、藤田彪以下ヲ禁錮トス、北亞米加合衆國水師提督彼理、軍艦ヲ將(ひきい)テ浦賀來リ、國書ヲ奉シ交通貿易ヲ求ム、阿部正弘將軍ノ旨ヲ受ケ、水戸侯齊昭ヲ起シ幕議ニ參セシム、七月 將軍家慶薨(こう)ス、謚シテ慎徳院ト曰フ、家定繼ク、七月十七日 露西亞國水師提督軍艦ヲ率ヰテ長崎ニ入リ、國書ヲ奉シ交通互市ヲ求ム、是歳 大ニ海防ヲ嚴ニシ、兵船軍器ヲ備フ、安政元年甲寅 正月十四日 彼理重テ浦賀ニ來ル、三月 米國ト條約ヲ締結ス、皇宮、仙院火ス、天皇、下鴨ニ避ケ聖護院ニ徒御ス、此日午下仙洞ヨリ出火、皇居其他百百九十四町、六千九百九十三戸ヲ燒ク、七月九日 幕府軍制ヲ改メ、日本國旗ヲ日章ト定ム、十一月十八日 小濵、郡山、膳所、淀、高槻諸藩ニ命シ、京都ヲ守衛セシム、十一月廿七日 改元安政二年乙卯 二月 皇居造營ヲ創ム、九月ニ至テ、成ル、十一月廿一日 車駕新宮ニ還御ス、此ヨリ先キ聖護院ヨリ桂宮ニ遷御シ、此ニ及ヒ儀仗ヲ備ヘ新宮ニ還御アリ、民ニ縱觀ヲ許ス、此時町奉行淺野長祚事ヲ監シ、安政内裏造營記ヲ編纂セリ、是レ現在ノ皇居ナリ、安政三年丙辰 幕府露英佛ト假條約ヲ締結ス、安政四年丁巳 幕府林大學頭、津田半三郎ヲ上京セシメ、外交事狀ヲ陳奏ス、朝廷斥ケテ聽カス、安政五年戊午 正月廿二日 幕府堀田正睦ヲ上京セシメ外交事狀ヲ奏ス、公卿多ク攘夷論ヲ主張シ、兵庫開港ヲ許サス、三月廿二日 幕府ニ勅答シテ三家以下諸大名衆議ヲ盡シ上奏セシム、四月廿三日 幕府井伊直弼ヲ以テ大老職トナス、六月廿一日 高松、松江、桑名三侯ヲシテ京師ヲ守ラシム、六月廿四日 水戸、尾張、越前三侯登營シテ、假條約ノ不可ヲ諭シ、併セテ繼嗣ノ事ニ及フ、大老直弼斥ケテ容レス、七月五日 幕府水戸老侯齊昭ヲ幽閉シ、尾張侯慶勝、越前前侯慶永ニ隠居謹慎ヲ命ス、七月四日 將軍家定薨ス、家茂繼ク、將軍薨去ハ三家罪ノ前日ニ在レト、大老秘シテ發セス、八月ニ及テ發表ス、八月八日 内勅ヲ水戸老侯齊昭ニ下ス、朝議幕府ノ非政ヲ憂ヒ、齊昭ニ命シ諸藩ヲ率ヰ將軍ヲ助ケ外侮ヲ禦(ふせ)カシメントスルニ在リ、是月 佛艦三艘品川ニ入リ國書ヲ奉シ、交通貿易ヲ求ム、之ヲ許ス、是秋 虎列刺病大ニ流行シ、死スルモノ數萬人、九月 間部銓勝上京シ、内勅關係ノ者ヲ捕ヘ江戸ニ押送ス、幕府外國奉行五員置ク、十月廿五日 家茂將軍ニ任ス、安政六年己未 二月十八日 青蓮院宮ニ謹慎ヲ命ス、三月十一日 鷹司父子、近衛、三條ノ四公、水戸内勅ニ關センヲ以テ落飾退隠ヲ乞フ、幕府横濵ハ開港塲タルヲ以テ商戸ヲ移シ大ニ市街ヲ經營ス、五月廿八日 米露英佛蘭五國ニ長崎、箱館、横濵ニ於テ、自由貿易ヲ許ス、幕府水戸老侯齊昭ヲ永蟄居トシ、一橋侯慶喜ニ隠居謹慎ヲ命シ、其他死罪流竄禁錮ニ處スルモノ多シ、之ヲ戊午ノ大獄ト云フ、八月 幕府朝廷ニ金五千兩、攝家其他二萬兩、九條關白ニ家禄千石ヲ加フ、萬延元年庚申 三月三日 水戸薩摩脱藩士十七人、大老井伊直弼ヲ櫻田門外ニ斬ル、三月十八日 改元、六月 高松、松江、彦根、郡山、桑名五藩ニ命シテ京師ヲ警衛セシム、淀、高槻、膳所、篠山四藩ニ命シテ四方要口ヲ守ラシム、九月 祐宮ヲ儲君ト爲ス、是歳 水戸藩民兵ヲ起ス、常野亂ル、文久元年辛酉 二月十九日 改元、九月二十日 皇妹和宮、將軍家茂ニ降嫁シ京師ヲ發ス、文久二年壬戌 正月 浮浪ノ士、閣老安藤信正ヲ城下門外ニ傷ク、三月晦 近衛、鷹司二公ノ謹慎ヲ釋ス、四月晦 獅々王院宮ノ永蟄居ヲ釋ス、五月十一日 大原重徳ヲシテ、朝命ヲ幕府ニ下サシム、五月 幕府尾張、水戸、越前、土佐、宇和島諸侯ノ罪ヲ赦シ、閣老安藤氏ヲ免ス、六月廿三日 九條尚忠ノ關白ヲ免シ、近衛忠煕ヲ以テ之ニ代フ、是月 幕府内田垣二郎、榎木釜次郎ヲ和蘭ニ差ハシ、軍艦製造ヲ督シ海軍ノ事ヲ傳習セシム、七月一日 幕府勅令邁奉ノ請書ヲ上ル、七月六日 一橋慶喜ヲ將軍補佐トス、七月九日 越前老侯春嶽ヲ政事總裁職トス、八月廿一日 島津久光ノ從人、英人ヲ生麥村ニ斬ル、閏八月朔 幕府會津侯松平容保ヲ京師守護職トス、閏八月五日 故水戸老侯齊昭ニ從二位大納言ヲ贈ル、幕府諸藩ノ參覲ヲ三年一度滞在百日トシ、其家眷ヲ封地ニ移スヲ許ス、十月三日 三條姉小路兩卿勅旨ヲ奉シテ東下ス、勅旨ハ攘夷期限ヲ定ムルト、親兵ヲ置クノ二件ナリ、十月 正親町三條、中山、大原諸氏時事ヲ建議ス、之ヲ斥ケ、大原氏ヲ幽閉ス、十二月五日 將軍ニ勅使ヲ延見シ、勅旨ヲ奉ス、十一月廿日 幕府井伊、内藤、間部、酒井、堀田、久世、安藤、松平、脇坂、水野諸氏ヲ譴責シ、或ハ其領地ヲ削ル、十一月 故島津侯齊彬ニ從三位中納言ヲ贈ル、品川御殿山英館火アリ、或ハ云フ脱藩ノ諸士之ヲ燒クト、十二月 朝廷參政寄人ヲ置キ國事掛ト號シ、三條實美専ラ其事ヲ督ス、是レ建武ノ中興ノ時ヨリ、五百年ヲ經テ國政管掌ノ官ヲ再興アリシナリ、文久三年癸亥 正月 青蓮院宮復飾、中川宮ト號ス、一橋慶喜松平慶永、將軍ニ先チ入京ス、二月 近衛忠煕ノ關白ヲ免シ、鷹司輔煕ヲ以テ之ニ代フ、二月十九日 英國公使生麥償金ノ事ヲ諭シ、軍艦ヲ以テ幕府ニ逼(せま)ル、江戸戒嚴、三月五日 將軍家茂上洛參内ス、三月十一日 車駕賀茂神社ニ行幸ス、將軍百官諸侯ヲ率ヰテ供奉ス、寛永二條行幸ノ後、二百三十餘年ヲ經テ此ノ行幸ノ儀アリ、三月 將軍上洛京都町人ニ銀五千貫目ヲ頒與ス、三月十九日 十萬石以上諸藩ヲシテ親兵ヲ貢セシメ、三條實美ニ命シ之ヲ督セシム、建武ノ中興ノ後此ニ及ヒ五百十餘年ヲ經テ、朝廷再ヒ親兵アリ、四月十一日 車駕石清水神宮ニ行幸ス、五月九日 閣老小笠原長行英國公使ニ生麥償金卅五萬兩ヲ交附ス、廷議之ヲ非トシ罪ニ處ス、五月十日 長州下關ニ於テ、外國船ヲ砲撃ス、六月九日 將軍家茂遂ニ海路江戸ニ歸ル、七月 英國軍艦鹿児島ニ至リ、生麥償金ヲ求ム、薩人迎戰之ヲ走ラス、八月 幕府供御料十五萬俵ヲ上ル、八月十八日 勅シテ大和行幸ヲ止メ、長兵ノ宿衛ヲ免ス、三條實美等七人長州ニ走ル、勅シテ其官爵ヲ褫(うば)フ、八月十七日 松本奎堂、藤本鐡石等中山侍從ヲ奉シテ兵ヲ大和ニ擧ク、幕府諸藩ニ命シテ之ヲ伐ツ、侍從敗レテ長州ニ走リ、松本藤木等死ス、十月 平野二郎澤宣嘉ヲ奉シ兵ヲ擧ク、幕府伐チ平ク、十二月廿三日 鷹司輔煕關白ヲ辭ス、右大臣二條齊敬之ニ代ル、十二月 瑞士國ト條約ヲ締結ス、元治元年甲子 正月廿一日 將軍三十八諸侯ヲ従ヘ入朝ス、二月十五日 會圖津侯容保ヲ軍事總裁ニ、越前老侯春嶽ヲ京都守護職トス、二月二十日 改元、二月廿五日 一橋慶喜ヲ禁裏御守衛總督攝海防禦指揮トス、四月七日 越前老侯春嶽京都守護職ヲ罷ム、會津侯容保之ニ代ト爲ル、四月廿日 列藩ノ建議ニヨリ、政事一切幕府ニ委任スルノ勅アリ、幕府奏シテ釐革(りかく)スル所多シ、五月二日 將軍江戸ニ還ル、五月晦 武田耕雲齋等兵ヲ擧ケ筑波山ニ據(よ)ル、水戸内勅奉還ノ事ヨリ激セシモノナリ、七月十一日 脱藩士佐久間象山木屋町ニ殺ス、七月十九日 長藩ノ兵闕(けつ)ヲ犯ス、幕府薩會ノ兵防戰之ヲ敗ル、兵燹(へいせん)三日、京師大半焦土トナル、八月 英米佛蘭四國ノ兵、軍艦ヲ率ヰテ長州ニ逼(せま)ル、應戰連日、遂ニ和ヲ講ス、八月八日 幕府征長ノ師ヲ發ス、徳川慶勝ヲ以テ大將ト爲シ、二十三藩ニ命シテ進討セシム、十一月 長藩三宰ヲ誅シ、首ヲ送テ罪ヲ軍門ニ講ス、將軍家茂奏シテ征長ノ師ヲ班(か)ヘス、慶應元年乙丑 正月 長州高杉晋作奇兵隊ヲ募リ藩諭ヲ一定ス、正月十四日 長州ニ在ル三條以下五卿ヲ筑前ニ移ス、二月四日 武田耕雲ノ黨ヲ敦賀ニ斬ル、四月七日 改元、五月十六日 幕府重テ征長ノ師ヲ部署シ、將軍進發ス、九月 横濵在留各國公使、兵庫開港ノ事ヲ幕府ニ逼(せま)ル、十月 將軍辭表ヲ呈シ、軍職ヲ一橋慶喜ニ命セラレンコトヲ請ヒ、併セテ兵庫ノ勅許ヲ乞フ、充(みた)サレス、慶應二年丙寅 六月 白耳義國ト條約ヲ締結ス、八月廿日 將軍家茂大坂ニ薨ス、奏シテ一橋慶喜ヲ繼嗣トス、八月廿五日 勅シテ將軍ノ薨ヲ以テ征長ノ兵ヲ解カシム、此時幕府ノ軍常ニ利アラス、諸藩傍觀大勢已(すで)ニ去リ、慶喜徳川家ヲ繼クトモ未タ軍職ニ任セス、十二月五日 徳川慶喜大將軍ニ任ス、十二月廿五日 天皇痘ヲ患ヒ崩ス、年三十六、慶應三年丁卯 正月九日 天皇践祚、二條齊敬攝政、正月廿七日 孝明天皇ヲ泉山後月輪山陵ニ葬ル、五月廿四日 兵庫開港ヲ許ス、九月四日 丁抹國ト條約ヲ締結ス、九月六日 意多利亞國ト條約ヲ締結ス、十月十四日 將軍徳川慶喜大政返上ヲ請フ、勅シテ將軍慶喜ノ大政返上ヲ允(ゆる)シ、後命ヲ待タシム、十月廿九日 宣明使ヲ遣ハシ大政復古ノ事ヲ月輪山陵告ク、十一月三日 國事掛近衛忠房太政官再興ノ議ヲ上ル、十二月十日 勅シテ攝政、關白、征夷大將軍議奏、傳奏、守護職所司代等ノ職事ヲ廢シ、更ニ總裁、議定、參與ノ三職ヲ置テ、以テ大政ヲ行ハム、十二月十日 大政復古ノ事ヲ公卿ニ告ク、十二月十二日 徳川慶喜二條城ヲ去テ大阪ニ赴ク、十二月廿二日 勅シテ萬機ヲ親裁シ、博(ひろ)ク公議ヲ採ルコトヲ布告ス、大政不振、朝廷式微ヨリ殆ント七八百歳、此ニ至リ朝綱一振、大政復古、天下再ヒ天日ノ光輝ヲ仰クコトヲ得タリ、十二月廿七日 天皇建春門ニ御シ、薩長土肥四藩ノ練兵ヲ觀ル、明治元年戊辰 正月三日 幕府ノ軍京師ヲ犯ス、官軍之ヲ伏見鳥羽ニ破ル、詔シテ嘉彰親王ヲ征討大將軍トナシ、錦旗節刀ヲ賜ヒ之ヲ討ツ、連日交戰皆勝ツ、正月六日 征討大將軍淀城ニ入ル、徳川慶喜海路東走ス、正月七日 詔シテ徳川慶喜ヲ討ス、正月九日 三條實美岩倉具視ヲ副總裁トス、大坂城火ス、正月十日 詔シテ徳川慶喜以下ノ官位ヲ褫(うば)フ、此日大將軍大坂城ニ入ル、正月十五日 天皇元服ヲ加フ、東久世通禧ニ勅シ外國公使ト兵庫ニ會シ、大政復古ノ事ヲ告ケシム、三月十四日 天皇南殿ニ御シ、公卿諸侯ヲ率ヰテ、天神地祇ヲ祭リ、五事ヲ誓約ス、七月十七日 江戸ヲ以テ東京トス、」黒船が来る。隣国などから既に世界情勢を知る藩はあったが、徳川幕府は慌て、朝廷、孝明天皇は異人に拒否反応を示す。が、朝廷の了解なしに大老井伊直弼アメリカと不利な通商条約を結び、天皇を蔑(ないがし)ろにしたとして一部の公家と水戸藩らは攘夷を掲げて幕府に改革を迫り、井伊直弼は討たれる。が、難局に舵を切る力は幕府にも朝廷にもなく、苦し紛れに公武合体の策に出、京都から追い出された攘夷強硬の長州は、徳川から寝返った薩摩と倒幕に傾き、大政奉還をして生き延びようとした徳川慶喜は、戊辰戦争で息の根を止められる。攘夷を譲らなかった孝明天皇は、慕っていたという妹和宮を嫁した徳川家茂の死の四カ月後に世を去り、大政奉還、王政復古と瞬く間に世は移る。この流れの前に置かれた二人の死を、毒殺とする者がいる。孝明天皇の死は天然痘ではなく、筆を舐める癖のあった天皇のその筆の先にヒ素が塗ってあったというのである。後を継いだ明治天皇の即位は、満十四の歳である。北野天満宮は、菅原道真の無念の祟りを惧れ、その霊を祀っている。アメリカ人、異人を懼れ嫌った孝明天皇は、アメリカと戦争をする前の年に神として祀られた。その丹柱の平安神宮を中国からやって来た観光客が手を合わせ、門の前に植えた松の間では親子が凧を揚げ、隣りのグラウンドでは、ばらばらのユニフォームを着た男らがバットで打った球を受け、裏のいまは花のない二つの池のある広い庭を、韓国人の家族が幾人かの日本人に追い越されながら巡り歩く。修学旅行のコースに平安神宮が入っていた。その日は雨で、ビニール傘を手に数人で辿り着いた平安神宮の本殿は、シートに覆われ工事のさ中で、それはその年の正月に起こった左翼の放火による再建工事であるとは誰も知らず、小降りになって閉じた傘の先を後ろに引き摺りながら、無駄足の徒労を地面に刻み、いささかの反抗を示したのである。

 「私はアイスランドにはいったけれど、グリーンランドは知らない。いったことがないのである。ただし、グリーンランドの釣りのことをよく知っているスウェーデン人の釣師にそういう話を耳に吹きこまれてくらくらとなったことがあり、それがどうしたものか話をしているうちにふいに暗部で発芽して、たちまち空までとどく豆の木になってしまったのである。」(「渚にて開高健ロマネ・コンティ一・九三五年』文藝春秋1978年)

 「「海洋放出の方が確実に実施できる」 政府小委、処理水提言案」(令和2年2月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)