節分の厠(かわや)灯してめでたさよ 篠原温亭。この厠は外厠であろう。一家の主(あるじ)が一年に一度の、家族総出の「騒動」を了(お)えて厠に立った。思わずも高揚した気分は、出す小便とともにしみじみと静まってゆく。めでたさは連綿と続いてきた行事のめでたさであり、家族のあるめでたさであり、小便が滞りなく出る己(おの)れの身体のめでたさである。隣りの家から「鬼は外」の声が聞こえて来れば、それもまためでたいのである。「節分は都の町のならはしに、五條の天神にまふでて、をけらもちをかいもてきつつ、家内のかみなかしも是をいはふ。夜にいればむくりこくりのくるといひて、せど門窓などかたくさして、外面にはいはしのかしらとひらぎのえだを鬼の目つきとてさし出し、うちにはゑびす棚大こく柱のくまくまに灯をひまなくたて、沈香などかほらす。大内(だいり)の儺(おに)やらふは、晦日あなれど、地下(じげ、下級官吏、庶民)は今宵豆を煎りて、福は内鬼は外へと打ちはやし、また、わが齢をもかの豆をもて数へつつ、いくつといふに一つあまして、身を撫づることをしはべる。」(『山之井』北村季吟 正保五年(1645)刊)京の町の習わしでは、節分の日には五條天神から朮と餅を貰って来て家中の者で祝う、と北村季吟は書き記し、秋里籬島は『都名所図会』(安永九年(1780)刊)の五條天神社の項に、「節分には白朮・小餅(せふのもち)・宝船を禁裏に上(たてまつ)る。」と宝船を加え記している。『義経記』の中で、横笛を吹き鳴らす牛若丸と千本目の刀を狙っていた弁慶の出会いの場となる五條天神のこの習わしは、いまも続き、節分の二月三日の一日に限り、参拝者は神朮と勝餅と宝船を貰うことが出来る。朮は焚いて疫病を払い、餅は神に供える豊作祈願であり、宝船は縁起担ぎに正月二日枕の下に敷いて寝るものであるが、五條天神の宝船は縦四十センチ横五十センチ余と枕の下に敷くには些(いささ)か大きく、その船には七福神も宝物も乗っていない。描かれているのは、数本の拙(つたな)い線でするすると引いた一艘の舟と、その上に乗せられた四本ばかりの葉のついた稲穂である。舟底に揺れる波の一筋が走り、これが日本で最も古い宝船の図であるという。この宝船は室町の皇族等が枕ではなく床の下に敷き、年の節目に溜まった邪気を夢の中でその舟に乗せて流したというのである。僅(わず)かな稲穂の束を乗せた無人の舟が穏やかな水の上に浮かび、それは動いているのか、留まっているのか分からない。どこから流れ着いたのか、これからどこかへ流れてゆくのかも分からない。人がひとりも乗っていないのは、はじめから乗っていた者はなく、ここは人のいない場所なのかもしれぬ。もしそうであり、そうであるにも関わらず舟が浮かび、刈り取った稲穂が乗せてあるのであれば、それは神が舟を作り、稲を刈ったということなのであろう。以前という言葉があり、そう口に出して云うことがある。この宝船は、誰も知る者のいない以前の世に浮かび、以前は、と口にする者にその生まれる遙か以前を知らしめる。節分や灰をならしてしづごころ 久保田万太郎。これは火鉢で手を温めていたやや以前の世のことである。

 「夕闇がせまってきた。午後の雨で空気も冷え冷えとし、まるで冬のようにわびしく暗い夕方になった。空には星ひとつ見えず、つめたい氷雨がしとしと降りだした。表から見える家々のランプが、悲しげにちらちらと揺れていた。風が、町の沼地側からではなく、北よりの寒い真暗な松林の方角から吹きはじめた。」(「悲しき酒場の唄」カーソン・マッカラーズ 西田実訳『悲しき酒場の唄』白水社1990年)

 「「すべて検査」希望40% 県産米の全量全袋検査、消費者アンケート」(令和2年2月5日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)