明月院ブルーという色がある。北鎌倉明月院に咲く紫陽花の花の色を指して、そういうのだという。その青色は咲き始めの薄水色ではなく、枯れる前のひと時の濃い水色をいうのであろう。明月院の境内一面に植えられている紫陽花は七月に入ると、まだ水色の盛りでも枯れ始めていても、花の首をすべて刎(は)ねられてしまう。来年も間違いなく咲かせるためにそうするのだと、鋏で刎た首を大袋に集めていた庭師の一人が教えてくれた。この庭師はわざわざ庭の手入れに京都から四五人で、明月院にやって来ていた。その時だけでなくある年から毎年、庭師らはこの時期に紫陽花の首を刎ねに来ているのである。昭和六十二年(1987)一月三十日、明月院の住職が船橋のホテルで自殺をしている。血縁に寺を継ぐ者がなく、花園妙心寺の僧侶がこの住職の空けた穴を埋めに入り、己(おの)れの寺事(こと)の手始めに旧知の庭師を呼び寄せたのである。自死した住職が書いた卒塔婆を見たことがある。盂蘭盆に備え裏山の墓地の草毟(むし)りの手伝い作業をしていた時、稚拙でばらばらの大きさの字が並ぶ異様な卒塔婆が目に入り寺の用務の者に訊くと、それが自死した住職が書いたものであった。その下手な字の古びた卒塔婆は、まだ何本も辺りの墓石に寄りかかり立っていた。年のいった用務の話によれば、自死した住職は前住職だった父親の跡を継いで住職になった、前住職の父親には妾がいて、母親が死んだ後に父親はその妾を寺に入れ、息子はそれを嫌って寺を出、父親が死ぬと戻って来た、駒沢出の人の良い住職だったが女遊びが好きで金遣いが荒く、宝籤に金を注ぎ込んだり、パラジウム先物取引きで一千万すり、砂糖相場にも手を出して失敗し、果ては寺の地所を担保に借金をして詐欺まがいの事件に巻き込まれてしまった、と云うのである。週刊誌沙汰にもなったという、住職が自死に追い詰められた事件の裁判判決文はこうである。「主文。被告(田村初ニ他二名)らは原告(嶋村豊他二十五名)らに対して、各自、別紙請求目録「原告名」欄記載の各原告ら該当の同目録「請求金額」欄記載の各金員及びこれに対するいずれも昭和六一年一二月一一日から各支払い済みにいたるまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする。この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。事実及び理由。━━原告らは主文第一、第二項と同旨の判決及び主文第一項につき仮執行の宣言を求め、請求原因として次のとおり述べた。1、当事者。(一)原告らはいずれも訴外和興抵当証券株式会社(以下「和興」という。)から抵当証券を購入した者である。(二)被告田村初ニ(以下「被告田村」という。)、被告鈴木一郎(以下「被告鈴木」という。)及び分離前の被告足利誠三(以下「足利」という。)は、昭和六一年六月二日に和興の取締役に就任し、被告田村は同年八月一八日まで代表取締役として、足利は右同日から代表取締役として、また、被告北田一廣(以下「被告北田」という。)は和興の幹部職員として、いずれも和興の経営に参画し、業務を遂行していた者である。2、本件不法行為の経緯。(一)いずれも分離前の被告株式会社東証ファクタリング(以下「東証」という。)の取締役である分離前の被告波平春夫(以下「波平」という。)、同奈良敦(以下「奈良」という。)、東証の幹部である分離前の被告藤原襄(以下「藤原」という。)及び被告田村は、昭和六一年二月一〇日東証から出資金を借り受けて、抵当証券の販売を目的とする資本金三〇〇〇万円(発行済株式数六〇〇株)の和興を設立し、同社の代表取締役に被告田村(昭和六一年八月一八日退任)を、取締役に被告鈴木及び足利を、監査役に藤原をそれぞれ就任させた。波平、奈良、藤原は和興の株式を各一一〇株ずつ、被告田村は一二〇株、被告鈴木は一〇〇株、被告北田は二〇株をそれぞれ所有している。(二)和興は東証から三〇〇〇万円を借り受け、その資金をもって、昭和六一年三月ころ東京都中央区日本橋本町一丁目六番地所在のビルの一室を賃借し、内装工事を行ったうえ一流金融機関のような外装を整え、従業員一六名(男女各八名)で営業活動を開始し、また、同年六月ころ札幌市中央区北一条西二丁目一番地所在の建物を賃借して札幌営業所を開設し、従業員八名(男二名、女六名)で同営業所の活動を開始した。(三)波平は昭和六一年二月初め訴外宗教法人明月院(以下「明月院」という。)の代表役員である訴外近藤杏邨(以下「近藤」という。)に対し、明月院が所有する神奈川県鎌倉市山ノ内字明月谷一九〇番ほかの山林、宅地約四万平方メートルの土地(以下「本件土地」という、)につき、和興を抵当権者とする債権額一二億円の抵当権設定登記をすれば、和興が右抵当権について登記所から抵当証券の交付をうけてこれを販売し、東証が和興からその販売により得た資金を吸い上げ、明月院に貸し付ける旨の申し出を行ったろころ、近藤はこれを承諾した。(四)東証代表取締役波平は、和興の代表取締役被告田村との間において、架空の金銭債権を作り出すため、和興が東証に対し一二億円の貸付を行った旨の昭和六一年二月一七日付金銭消費貸借契約書を作成し、同月二四日近藤をして、明月院所有の本件土地につき、横浜地方法務局鎌倉出張所受付第二八四〇号をもって、債権額を一二億円、債務者を東証、抵当権者を和興とする抵当権設定登記手続を行わせ、同年三月一五日この抵当権に基づき、右法務局出張所から一二億円が一二口に分割された一二億円の抵当証券(以下「本件抵当証券」という。)一二枚の交付を受けた。(五)被告ら及び足利、波平、奈良、藤原(以下「被告らほか四名」という。)は、和興の営業活動として、本件抵当証券を販売して資金を集めることを決定したが、抵当証券自体の裏書、交付は行わず、抵当証券の売渡証書と保護預かり証の双方の性質を有するモーゲージ証書なる書面を作成して、これを購入者に交付することにし、昭和六一年三月ころから本件抵当証券の販売のための宣伝活動を開始した。右宣伝活動は、新聞の折り込みや電車内広告によるもので、その内容は、一年ものの確定利率六・二パーセント、二年ものの確定利率六・四パーセント、三年ものの確定利率六・六パーセント、五年ものの確定利率七・〇パーセントという当時の低金利の金融状況下においては有利な投資と思わせるものであり、しかも、元利金の支払いは抵当証券により担保されたうえ、和興が保証するので二重に安全で、税金面においても節税商品であると「安全」、「確実」、「有利」を宣伝するものであった。(六)原告らは、他の多くの投資家と同様に和興の右宣伝を信じて、本件抵当証券を買い受けモーゲージ証書の引渡しを受けた。(七)和興は多額の宣伝費をかけて本件抵当証券を販売したが、その販売代金のうち宣伝経費及び事務管理費を除いた資金は、まず、東証が和興の設立のために出資した六〇〇〇万円の返済にあてられ、また、東証に貸付金の形で送金され、東証において、その事業のために使用されたほか明月院への貸付金にあてられたが、三億円以上にのぼる宣伝経費、事務管理費、購入者の途中解約による解約金等により大半が費消されてしまった。そして、新聞等の報道機関が、昭和六一年五月ころから抵当証券会社の中に悪質な詐欺まがいのものがあることを報道した結果、一般投資家の警戒心が高まり、和興は売上の減少した都内を避け、千葉県、埼玉県、神奈川県、茨城県等の関東一円に販売の手を広げ、さらに、同年六月ころ札幌営業所を開設して本件抵当証券の販売を行った。しかし、首都圏では同年六、七月ころから解約申請が相次ぎ、和興は手持資金或いは新たな購入客から得た販売代金をもってこれに対応していたが、新聞等の報道機関による報道の浸透から関東地区はもとより北海道においても売上が低迷し、解約金に支払いも思うにまかせなくなり、同年一〇月半ばころに至って解約にも応じられない状態となり、同年一二月二五日を解約金支払予定日とする解約金返金確認書を交付して、返金の猶予を求めるだけの状態となり、同年一二月一一日破産宣告を受けた。本件抵当証券の売上高、解約金、宣伝費は、次のとおりである。売上金額、解約金額、宣伝費。昭和六一年三月 三億〇三五〇万円、一七〇〇万円、四八〇〇万円。四月 二億三六五〇万円、三三〇〇万円、四八〇〇万円。五月 一億八五〇〇万円、七三〇〇万円、四八〇〇万円。六月 一億三二五〇万円、七三五〇万円、四八〇〇万円。七月 一億二七二〇万円、一億円、四八〇〇万円。八月 二九一〇万円、二七〇〇万円、四八〇〇万円。九月 二五五〇万円、二九〇〇万円、四八〇〇万円。一〇月 不明、二九八〇万円、四八〇〇万円。(八) 明月院は、原告らの代理人である山本安志が昭和六一年一〇月三〇日ころ抵当証券登記の抹消をすると和興から本件抵当証券を購入した多数の者が損害を被ることになるので右登記の抹消を中止して欲しい旨懇請したにもかかわらず、同年一一月一日、和興の占有下にある本件抵当証券の返還を受けて、本件土地に設定された右抵当権の設定登記の抹消手続きをした。3、本件不法行為。(一)被告らほか四名は、抵当証券会社が不動産に抵当権を設定して融資を行い、この抵当権を証券化し、証券を投資家に販売して融資金利と投資家への利息との利鞘を稼いでいるものの、実際の抵当証券取引は、購入者が抵当証券を買っても抵当証券自体の裏書、交付がなされず、抵当証券の売渡証書と保護預かり証の双方の性質を有するモーゲージ証書なる書面が交付されるにすぎないことに注目し、昭和六一年初めころ、当初から元金はもとより利息を支払う意思も能力もないまま、架空の貸金を被担保債権とする実体のない抵当証券を作り出してこれを販売し、一般大衆から金員を騙し取ることを計画(以下「本件計画」という。)した。(二)右計画に基づいて、波平、奈良、被告村田及び藤原は、東証代表取締役、取締役ないし幹部であることから、東証の事業活動として、抵当証券会社である和興を設立することを決め、東証の資金六〇〇〇万円をもって和興の設立準備資金及び開業資金に当て、また、東証幹部である被告田村、藤原を和興の取締役及び監査役に派遣し、さらに、和興の発行済株式数六〇〇株中、被告田村らが五七〇株を所有し、和興の事業活動全般にわたって東証の指示のもとに業務運営がなされるような形態で、昭和六一年二月一〇日和興を設立した。(三)ついで、波平は見せ掛けの抵当証券を作るため、昭和六一年二月初めころ、明月院の代表役員である近藤に対し、明月院所有の本件土地につき、一二億円の架空債権を担保するための抵当権設定登記手続きをして、本件計画に加担することを求め、近藤は、東証から明月院に対する融資を条件としてこれに応じ、後記のとおり、昭和六一年二月二四日本件土地に和興の東証に対する架空の貸金債権を被担保債権とする抵当権設定登記手続(債権額一二億円、債務者を東証、抵当権者を和興とする抵当権)を行なった。(四)さらに、被告らほか四名は本件抵当証券を作り出すため、和興が東証に一二億円を融資した事実はないにもかかわらず、昭和六一年二月一七日付で一二億円を貸渡した趣旨の金銭消費貸借契約証書を作成し、同月二四日近藤の協力を得て、本件土地につき和興の東証に対する右架空の貸金債権を被担保債権とする債権額一二億円の抵当権設定登記手続を行い、同年三月一五日登記所から一二億円の本件抵当証券一二枚の交付を受けた。(五)被告らほか四名は、本件抵当証券が以上のように架空の貸付金に基づき交付されたもので実体がないものであり、被告らほか四名には本件抵当証券の購入者に対し、元金はもとより利息を支払う意思も能力もないにもかかわらず、昭和六一年三月ころから、新聞折り込みや電車内広告等により「安全・確実・高利回りの確定利率なので確実である。法務局発行の抵当証券を和興が保証するので二重に安全である。」などと虚偽の宣伝をし、これを信用した原告らに次のとおり、本件抵当証券を売渡してその売買代金を受領し、売買代金と同額の損害を被らせた。原告名、購入年月日、購入金額。嶋村豊、昭和六一年五月七日、二五〇万円、同年八月二九日、二五〇万円。千田春夫、同年四月二五日、六〇〇万円、同年五月七日、一〇〇〇万円。番澤政吉、同年四月七日、一〇〇〇万円。伊東一郎、同月二六日、三〇〇万円、同年五月二九日、一〇〇〇万円。石川謙三、同年三月一九日、一五〇万円。中村誠、同年七月二六日、一五〇万円、同年九月一日、一〇〇万円。橋本清美、同年三月二八日、一〇〇万円。相田信子、同年四月二日、六〇〇万円。井上孝子、同年五月九日、二〇〇万円。荒川竜三、同月二一日、三〇〇万円。高橋政雄、同月二八日、一〇〇万円。丹羽菫、同年三月二〇日、一〇〇万円。須藤和子、同年四月一四日、三〇〇万円、同月一七日、一〇〇万円。長美津江、同年七月一〇日、三〇〇万円。金津光一、同月九日、三〇〇万円。藤野忠、同年三月二五日、二〇〇万円。荒木堯、同年六月二五日、三〇〇万円。佐々木弘、同年七月二三日、三〇〇万円。中村貞子、同年八月一五日、三〇〇万円。林柳子、同月八日、三〇〇万円。藤沢三郎、同年七月一一日、二〇〇万円。松田与吉、同月二五日、二〇〇万円。山下清、同年六月二一日、二〇〇万円。小林ひろ子、同月二三日、二〇〇万円。高野宮、同月一三日、三〇〇万円。内藤亨、同年七月一日、三〇〇万円。4、責任。被告らは、波平、奈良、藤原及び足利らと共謀して、本件計画を立案、遂行して原告らに損害を与えた当事者であるから、民法七〇九条、七一九条に基づき、原告らに対し、連帯してその被った損害を賠償すべき責任がある。5、損害。(一)原告らは、被告らの本件不法行為により別紙請求目録の「実損額」欄記載の各金員を騙取られ、同額損害をそれぞれ被った。(二)一、原告らは、被告らに右損害を賠償させるため本件訴訟を原告ら訴訟代理人らに委任し、その報酬として別紙請求目録の「弁護士費用」欄記載の各金額をそれぞれ支払う旨を約した。よって、原告らは被告らに対し、民法七〇九条、七一九条に基づき、各自、別紙請求目録の「請求金額」欄記載の各金員及びこれに対する不法行為後である昭和六一年一二月一一日から各支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。二、被告らは、適式の呼出を受けながら本件口頭弁論期日に出頭せず、答弁書その他の準備書面も提出しないので、請求原因事実を明らかに争わないものと認め、これを自白したものとみなす。右事実によれば、原告の本訴請求は理由があるからこれを認容することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条を、仮執行の宣言について同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。(裁判長裁判官 川上正俊、裁判官 宮岡章、西田育代司)」(横浜地方裁判所 昭和62年(ワ)1216号判決)住職の自死は、この判決の出る前である。明月院の紫陽花は、檀家の前でうろ覚えの経をあげ、下手な卒塔婆を書き、果ては詐欺の片棒を担がされたこの者の父親が、太平洋戦争の後に植え育てたものである。南禅寺の境内の人に踏まれそうなところに数本、濃い桃色の捩花(ネジバナ)が咲いていた。が、そもそもその踏みそうな人びとの姿は、この境内にも市中にもまだない。

 「僕の絵はまず画用紙の中央に、森に包みこまれた谷間を描きこんでいました。谷間の中央を流れる川と、そのこちら側の盆地の県道ぞいの集落と田畑に、川向うの、栗をはじめとする果樹の林。山襞にそって斜めに登る「在」への道。それらすべての高みをおおって輪をとじる森。僕は教室の山側の窓と、川側の廊下をへだてた窓を往復しては、果樹の林から雑木林、色濃い檜の森、杉林、そして高みに向けてひろがる原生林を、ていねいに写生したものでした。」(『М/Tと森のフシギの物語』大江健三郎 岩波書店1986年)

 「【風評の深層・処理水の行方】処理水…宙に浮く「国民議論」」(令和2年7月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)