清少納言の『枕草子』には、世の中の気に入っているもの、気に入らないものが筆のおもむくままに記されている。例えば、「第百九十段 島は八十島。浮島。たはれ島。絵島。松が浦島。豊浦の島。籬(まがき)の島。第百九十一段 浜は、有度浜(うどはま)。長浜。吹上の浜。打出の浜。諸寄の浜。千里の浜、広う思ひやらる。第百九十二段 浦は、大(おほ)の浦。塩釜の浦。こりずまの浦。名高の浦。第百九十三段 森は、殖槻(うゑづき)の森。石田(いはた)の森。木枯の森。転寝(うたたね)の森。磐瀬の森。大荒木の森。たれその森。くるべきの森。立ち聞きの森。ようたての森といふが耳とまるこそ、あやしけれ。森などいふべくもあらず、ただ一木あるを、なにごとにつけけむ。第百九十四段 寺は、壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるが、あはれなるなり。石山。粉河。志賀。第百九十五段 経は、法華経、さらなり。普賢十願。千手経。随求経。金剛般若。薬師経。仁王経の下巻。第百九十六段 仏は、如意輪、千手、すべて六観音。薬師仏。釈迦仏、弥勒、地蔵。文殊不動尊、普賢。第百九十七段 書(ふみ)は、文集(もんじふ)。文選(もんぜん)、新賦。史記、五帝本紀。願文。表。博士の申文。第百九十八段 物語は、住吉。宇津保、殿移り。国譲りは憎し。埋れ木。月待つ女。梅壺の大将。道心すすむる。松が枝。狛野の物語は、古蝙蝠(ふるかはほり)探し出でて、持ていきしが、をかしきなり。物羨みの中将。宰相に子生ませて、形見の衣など乞ひたるぞ憎き。交野(かたの)の少将。第百九十九段 陀羅尼は、暁。経は、夕暮。」あるいは、「第百二十四段 九月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の、今朝はやみて、朝日いとけざやかに射し出でたるに、前栽の露は滾(こぼ)るばかり濡れかかりたるも、いとをかし。透垣の羅文・軒の上などは、掻いたる蜘蛛の巣の毀れ残りたるに雨のかかりたるが、白き玉をつらぬきたるやうなるこそ、いみじうあはれに、をかしけれ。すこし日闌(た)けぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに枝うち動きて、人も手触れぬに、ふと上ざまへあがりたるも、「いみじうをかし」といひたる言どもの、「ひとの心には、露をかしからじ」と思ふこそ、またをかしけれ。」止めどない独り言のようでもあり、無邪気な思い込みのようでもあるが、この詠むような書き振りには、宮中に住まう平安人の読んだり見聞きをして知識を得た時の喜びや、蜘蛛の巣に掛かる露の美しさを発見した嬉しさがそのまま現れている。「寺は、壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるが、あはれなるなり。」寺であれば、奈良高取の壺坂南法華寺、京都南の端笠置の笠置寺、嵐山の法輪寺、釈迦如来を祀る東山霊山の正法寺(あるいは釈迦仏が住んで教えを説いた霊鷲山(りょうじゅせん))は立派で有り難いところである。順番を付ければ、第三番目に心惹かれる寺であるという嵐山法輪寺は、江戸の案内書『都名所図会』にはこう書かれている。「智福山法輪寺渡月橋の南にあり。真言宗にして、本尊は虚空蔵菩薩の坐像なり(道昌法師の作)。脇士は明星天・雨宝童子なり。それ当寺は天平年中の建立にして葛井寺(かどゐでら)といへり。(天慶の頃、空也上人こゝに住みて旧寺を修造し、念仏常行堂とす)中興の開基は道昌僧都、姓は秦氏にして讃州香川郡の人なり。弘法大師真言密教をうけ、虚空蔵求聞持の法を修せんとて、この寺に一百日参籠し給ふ。五月の頃、皎月西山に隠れ、明星東天に出づる時、閼伽水(あかのみづ)を汲むに光炎頓(にはか)に輝きて、明星天衣の袖の上に来影し、忽ち虚空蔵菩薩と現はれ給ふ。縫(ぬひもの)の如く染むるが如く、数日を経るといへどもその体滅せず。これ生身の尊影なりとて、道昌則ち虚空蔵菩薩の像を刻み、袖の像を腹内に収めらる。この時弘法大師を請じて開眼供養し給ふ。これ当寺の本尊なり。貞観十六年(874)に阿弥陀堂を改めて法輪寺と号す。」嵐山の山裾にある法輪寺の本尊は虚空蔵菩薩である。空海の『三教指帰(さんごうしいき)』に「余に虚空蔵求聞持を呈す。その説に説く、もし人、法によつてこの真言百万遍を誦すれば、すなはち一切の教法の文義、暗記することを得る。」とある。虚空蔵を本尊としてその呪文、真言言葉を一日一万遍を百日続ければ、見聞覚知したことのすべてを忘れずにいることが出来るというのである。虚空蔵は、一切の礙(さまた)げのないところで、利益安楽の元となるものが自在に変化し動き続ける有り様であるという。菩薩は、自ら釈迦の次をゆく者として悟りを求めつつ衆生仏道に導く者である。虚空蔵菩薩空海を実行者として、祈願の果てに知恵と記憶を授ける者であるとこの世にお墨付きを与えられたのである。石段の途中や境内のあちこちで紅葉のはじまった法輪寺の本堂脇に、白地に「十三まいり」と書かれた看板が立っている。十三詣りは、虚空蔵菩薩との結縁の日としている旧暦三月十三日に、数え年十三の男女が着飾って参拝し、知恵と福徳を授けてもらう行事である。漢字一字を書いて納め、参拝した後は、渡月橋を渡り終えるまで後ろを振り返ってはならないとされている。十三詣りをした子どもは、本当に知恵と福徳が授かったかどうかの実感はない。が、振り返るなと云われれば、それを何ごとかとして実感するのである。子どもは日頃この歌で、後ろという言葉を身近に敏感に感じている。「かごめかごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめがすべった うしろのしょうめんだあれ」籠の中の鳥はいつになったら籠からお出になるのか。夜が白みはじめると、閉じ込められている鷭(ばん)のところに鶴と亀が集まって来た。鷭よ、お前の顔は鶴のようでもあり、躰は亀のようでもあるが、お前が連なっているのは鶴の後ろなのか、それとも亀の後ろなのか。朝になって明るくなればきっとわかることだろう。十三詣りの振り返るなという呪いは、後ろに正解があるが、前を向いて探せということではないか。子どもの希望は、それを身をもって知ることである。渡月橋の元の橋の名は法輪寺橋で、大堰川を渡りきるまでが法輪寺の境内だった。橋を渡り終えれば、嵯峨野である。「野は、嵯峨野、さらなり。」清少納言は云う、野の第一は云うまでもなく嵯峨野である。遠い嵯峨野を戻れば、洛中である。

 「今昔(イマハムカシ)、天竺(テンジク)ニ世間旱颰(カンバツ)シテ天下ニ水絶テ、青キ草葉モ无(ナ)キ時有ケリ。其ノ時ニ一ノ池有リ。其ノ池ニ一ノ龜住ム。池ノ水、旱(カハキ)失テ、其ノ龜可死(シスベ)シ。其ノ時ニ、一ノ鶴ノ、此ノ池ニ耒(キタリ)テ喰フ。龜出耒テ、鶴ニ値(アヒ)テ相語(アヒカタラヒ)テ云(イハ)ク。「汝ト我レト前世ノ契有テ鶴龜ト一雙ニ名ヲ得タリト、佛説(トキ)給ヘリ。経教ニモ万ノ物ノ譬(タトヒ)ニハ龜鶴ヲ以テ譬(タト)ヘタリ。而(シカ)ルニ天下旱颰(カンバツ)シテ、此ノ池ノ水失セテ、我ガ命チ可絶(タユベ)シ。汝ヂ助ケヨト。」鶴、荅(コタヘ)テ云(イハ)ク、「汝ガ云フ所二(フタ)ツ无(ナ)シ、我レ理(コトワリ)ヲ存ゼリ。實(マコト)ニ汝ガ命、明日ニ不可過(スグベカラ)ズ、極(キハメ)テ哀レニ思フ。我レハ天下ヲ高クモ下(ヒキ)クモ飛ビ翔(カケ)ル事、心ニ任セタリ。春ハ天下ノ草木ノ花葉(クヱエフ)、色ゝニシテ、目出タキヲ見ル。夏ハ農業ノ種種(クサグサ)ニ生(オ)ヒ榮エテ、様ゝナルヲ見ル。秋ハ山ゝノ荒野ノ紅葉ノ妙ナルヲ見ル。冬ハ霜雪ノ寒水、山川・江河ニ水凍テ鏡ノ如クナルヲ見ル。如此(カ)ク四季ニ随(シタガヒ)テ何物カ妙ニ目出カラザル物ハ有ル。乃至(ナイシ)極樂界ノ七寶ノ池ノ自然㽵嚴(シヤウゴン)ヲモ我レ皆見ル。汝ハ只此ノ小キ池一ガ内ダニ難知(シリガタ)シ。汝ヲ見ニ實(マコト)ニ糸惜(イトホシ)。然(サ)レバ汝ガ不云(イハ)ザル前ニ水ノ邊(ホトリ)将(ヰテ)行ムト思フ。但(タダシ)、我レ汝ヲ背(オフ)ニモ不能(アタハ)ズ、抱(イダ)カムニモ、力无(ナ)シ、口ニ咥(クハ)へムニモ便(タヨ)リ无(ナ)シ。只可為(スベ)キ様(ヤウ)ハ一ノ木ヲ汝ニ令咥(クハヘシ)メテ我等二(フタリ)シテ木ノ本末(モトスヱ)ヲ咥ヘテ将(ヰテ)行カムト思フニ、汝ハ本(モト)ヨリ極(キハメ)テ物痛ク云フ物也(※よくおしゃべりをする者である)。汝ヂ我ニ問フ事有リ、亦(マタ)、我レモ誤(アヤマリ)テ云フ事有ラバ、互ニ口開キナバ、落テ汝ガ身命ハ被損(ソコナハ)レナム、何(イカニ)」ト云へバ、龜荅(コタヘ)テ云(イハ)ク、「将(ヰテ)行カムト宣(ノタマ)ハゞ我レ口ヲ縫テ更ニ云フ事不有(アラ)ジ。世ニ有ル者(モ)ノ、身不思(オモハ)ズヤハ有ル」。鶴ノ、「付(ツキ)ヌル痾(ヤマヒ)ハ不失(ケセ)ヌ物也。汝ヂ猶信ゼジト。」龜ノ云(イハ)ク、「猶、更ニ不云(イハ)ジ。猶将(ヰテ)行(ユ)ケ」ト云へバ、鶴二(フタリ)シテ龜ニ木ヲ令咥(クハへシ)メテ鶴二(フタリ)シテ木ノ本末(モトスヱ)ヲ咥へテ高ク飛ビ行ク時ニ、龜、池ノ一ガ内ニ習(ナラヒ)テ(※住み慣れて)、未ダ見モ不習(ナラ)ハヌ所ノ山川・豁峯(タニミネ)ノ色ゝニ目出キヲ見テ、極(キハメ)テ感ニ不堪(タヘ)ズシテ、爰(ココ)ハ何(イド)コゾト」云フ。鶴モ亦(マタ)、忘テ、「此(ココ)ヤト」云フ程ニ、口開(ヒラキ)二ケレバ龜落テ身命ヲ失ヒテケリ。此ニ依テ、物痛ク云ヒ習ヌル物ハ身命ヲモ不顧(カヘリミ)ザル也。佛ノ「守口攝意身莫犯(シユクセツイシンマクボン ※身口意のはたらきを謹んで十悪を犯さないようにせよ)」等ノ文ハ此レヲ説給(トキタマフ)ナルベシ。亦、世ノ人「不信ノ龜ハ甲破ル」ト云(イフ)ハ、此ノ事ヲ云フトゾ語リ傳へタルトヤ。」(「龜、鶴ノ教へヲ信ゼズシテ地ニ落チ甲ヲ破ル語(コト)」『今昔物語集』日本古典文學大系 岩波書店1959年)

 「地下水から「トリチウム」検出 第1原発敷地外、基準値下回る」(令和2年11月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)