神宮道は、平安神宮の應天門の前からはじめれば、冷泉通二条通を越え、左右に府立図書館、国立近代美術館、京セラ美術館を見、大鳥居を潜り、琵琶湖疏水に架かる慶流橋を渡り、仁王門通を越え、三条通を超え、青蓮院(しょうれんいん)を過ぎ、知恩院の山門の前を過ぎ、円山公園の北口に到る。このまま円山公園を南に突っ切り、ねねの道に入って抜ければ、ニ年坂に出る。逆に辿れば、名の通りの平安神宮への参拝道である。神宮道で最も古い歴史を持つのは青蓮院である。年表によれば、平安末延暦寺の東塔青蓮坊(しょうれんぼう)に居を持った天台座主藤原師実(ふじわらのもろざね、摂政関白)の子行玄(ぎょうげん)が、鳥羽天皇の第七皇子覚快(かくかい)法親王を弟子に迎え入れた粟田口の里坊(別坊)が青蓮院門跡の元(もとい)であり、その第三代が四度(よたび)天台座主となった、藤原忠通(ふじわらのただみち、摂政関白)の子慈円である。慈円のもとで青蓮院で得度したのが九歳の親鸞である。親鸞のもう一人の師法然比叡山を下り庵を結んだ場所でもある知恩院の元の地が、青蓮院の土地である。慈円法然親鸞いづれ劣らぬ日本仏教の大物である。青蓮院にまつわるこの顔ぶれの重さを青蓮院にあって背負うのが、神宮道沿いに廻らした築地の盛り土に立つ大楠である。胴回り六メートル、丈二十六メートルの身体を持つ築地の内外の五本の楠は、どれも天を突く様ではないが、地を這う千本の根と中空に広がる千本の枝が、それが仮に自由自在に動くならば、人間が束でかかっても逃げ回ってもひとたまりもない様相を漂わせている。一説には、樹齢が八百年であるという。鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和を丸ごと飲み込む時間である。この世で八百年突っ立って生きることは樹木にしか出来ない。青蓮院の江戸の格調漂う門を潜って通される書院から見える庭は、銀閣寺と同じ河原者相阿弥(そうあみ)の手によるものであるという。が、何度かの境内の全焼火災で形を変じる手が加わっているという。ニ方に手足を伸ばしたアメーバのような池があり、その腹に小岩が一つ浮かび、尾の付け根に反った石の橋が架かり、庭の姿を作る石が飛び飛びに池の淵回りに置かれ、刈り込まれた躑躅(つつじ)が生(は)え、石を組んだ見立ての滝の後ろは樹の繁る粟田山の山裾で、続きの奥の庭の大楓を巡り、その山裾を庭に沿って緩く上ってゆくと、木の枝の遮らない庭建物の屋根を見下ろすことの出来る所に出る。このように庭を巡る流れで見るこの景色の様子に見覚えがあった。思い出したのは相阿弥の銀閣寺である。銀閣の観音殿を見下ろす大文字山の山裾を取り込んだ庭径(こみち)の高さが、相阿弥の作った高さであるのであれば、元の形を留めていない青蓮院の庭であっても山裾に残る瓜二つのこの径の高さも、相阿弥という者が恐らくは何度もこの辺りに立ち留まって為した高さであるのかもしれぬということである。蓮に青い花を咲かせる蓮はなく、青蓮院の青蓮は青紫の花をつける睡蓮の青花のことで、青花は仏陀の目を指しているという。が、諸仏を供養し随えば必ず仏になることが出来ると説く道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』新草第五の「供養諸仏」にはこのような青蓮が出て来る。「おほよそ三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう、菩薩が仏になるまでの長大な時間)の供養諸仏、はじめ身命より、国城妻子・七宝男女等、さらにをしむところなし、凡慮のおよぶところにあらず。あるいは黄金の粟(ぞく)を白銀の埦にもりみて、あるいは七宝の粟を金銀の埦にもりみてて供養したてまつる。あるいは小豆、あるいは水陸の華、あるいは栴檀(せんだん)・沈水香等を供養したてまつり、あるいは五茎の青蓮華を、五百の金銀をもて買取て、燃燈仏を供養したてまつりまします。あるいは鹿皮衣、これを供養したてまつる。おほよそ供仏は、諸仏の要枢にましますべきを供養したてまつるにあらず、いそぎわがいのちの存せる光陰を、むなしくすごさず供養したてまつるなり。ひとたび金銀なりとも、ほとけの御ため、なにの益かあらん。たとひ香華なりとも、またほとけの御ため、なにの益かあらん、しかあれども、納受せさせたまふは、衆生をして功徳を増長せしめんがための大慈大悲なり。」仏になるための永遠とも思える間諸仏を供養する時には、自分の命も国も妻子も宝も惜しまないのであるが、凡人の思いはここまでには至らない。が、金銀のような粟や小豆や青蓮を供養するのは、短い自分の命の時間を無駄にしてしまわないためで、それは仏の利益のためではなく、供養そのものが衆生の功徳を願う仏の慈悲なのである。この五百の金銀で買い取ったという「五茎の青蓮華」は、釈迦の次の話から来ている。「至於昔者(そのかみ)、定光仏(燃燈仏)興世したまひき。聖王有り。名を制勝治と曰(い)へり。鉢摩大国に在り、民、寿楽多くして天下太平なりき。時に我れ(釈尊)菩薩為(た)り。名を儒童(じゅどう)と曰(い)へり。幼懐聡叡、志大包弘なり。山沢に隠居し、守玄(道理)行禅しき。世に仏有りと聞きて、心、独り喜歓し、鹿皮衣を披(ひ)して行いて国に入らんとせり。道すがら丘聚(きゅうしゅう、小高い村)を経るに、聚中の道士五百人有り。菩薩之(ここ)を過ぐるに、終日意夜(ひねもすよもすがら)論道説義し、師徒皆な悦せり。別るべき時に臨みて、五百人、各(おのおの)銀銭一枚を送りき。菩薩之(こ)れを受け、域に入りて民を見るに、欣然怱々(きんぜんそうそう)として、道路を平治し、灑掃(さいそう)焼香す。即ち行く者に問はく、「何等を用(もつ)ての故ぞ。」行く人答へて曰(いは)く、「今日仏、当(まさ)に来りて域に入りたまふべし」菩薩大きに喜び、自ら念ずること甚だ快なり。今、仏を見ることを得て、当(まさ)に我が願を求むべし。語る頃ほひ、王家の女、過ぎたり。厥(そ)の名は瞿夷(くい)なり。水瓶を挟(こわき)にし、七枚の青蓮華を持せり。菩薩追ひて呼びて曰(いは)く、「大姉、且(しばら)く止(とど)まるべし。請ふ、百銀銭を以て手中の華を雇(か)はん」女の曰(いは)く、「仏、将(まさ)に域に入りたまはんとす。王、斎戒沐浴し、華もて之(これ)に上(たてまつ)らんとす。不可得也」又請ひて曰(いは)く、「姉更に取り求むべし」。二百、三百をもて雇(か)ふに不肯なり。即ち嚢中五百の銀銭を探りて、尽(ことごと)く用て之(これ)に与ふ。瞿夷(くい)、華を念ずるに極めたる直(あたひ)も数銭なり。乃(ここ)に五百にて雇(か)へり。其の銀宝を貪(むさぼ)り五茎の華を与へ、自ら二枚を留めり。廻(はる)かに別れてのち意に疑ふ、此れ何(いか)なる道士ぞ。鹿皮衣を披して、裁(わづか)に形体を蔽(おほ)ひ、銀銭宝を惜しまず、五茎の華を得て憘怡(きい)たること恒に非ず。追って男子を呼び、誠を以て告げしむ、「我が此の華、得べし。不(いな)ならば卿(おんみ)を奪はん」と。菩薩顧みて曰(いは)く、「華を買ふこと百銭より五百に至り、以て自ら交決せり。何ぞ宜しく相奪ふべき。女の曰(いは)く、「我れは王家の人なり。力能く卿(おんみ)を奪はん」。菩薩匿(かく)れて然(しか)も曰(は)く、「以て仏に上(たてまつ)りて、所願を求めんとするのみなり」。瞿夷(くい)曰(いは)く、「善し。願はくば我れ後生に、常に君が妻と為らん。好にも醜にも相離れず、必ず心中に置き、仏をして之(これ)を知らしめたまへ。我れ今女にして弱く、前(すす)むこと得ること能(あた)はず。請ふらくは二華を寄せて、以て仏に献(たてまつ)らんことを」。菩薩許せり焉。須臾(しゅゆ)にして仏到りたまひ、国王臣民、皆、迎へて拝謁し、各名華を散ぜしに、華、悉(ことごと)く地に堕(だ)しぬ。菩薩、仏を見たてまつることを得て、五茎の華を散ぜしに、皆な空中に止まり、仏の上に当りて根の生ぜるが如く、堕地する者無し。後に二華を散ずるに、又仏の両肩の上に挟住せり。仏、至意を知ろしめて菩薩を讃(ほ)めて言(のたま)はく、「汝、無数劫に学ぶ所清浄にして、心を降し命を棄て、欲を捨てて空を守り、起せず滅せず。無猗(むい)の慈もて徳行の願を積みて、今、之(これ)を得たり矣」。因(ちな)みに之(これ)に記して曰(のたまは)く、「汝、是(これ)より後九十一劫、劫を号(なづ)けて賢と為すとき、汝、当(まさ)に作仏して、釈迦文と名づくべし」(「太子瑞応本起経・上」)釈迦が儒童と呼ばれていた時の世に、民が平和に暮らしていた鉢摩大国に定光仏(燃燈仏)と呼ばれていた仏がいて、儒童はこの仏に会いたさに鹿皮の衣を身につけ、鉢摩大国に入り、議論を交わした学徒ら五百人と出会って銀銭五百枚の餞別を貰い、その村から別のある地区に足を踏み入れると、住人たちが浮き浮きと総出で道路の掃除をしていて、聞けば会いたいと念じていた定光仏がこの日この地区にやって来るのだという。その時七本の青蓮を差した水瓶を持った王家の瞿夷(くい)という女が通り掛かり、儒童が後を追ってその花を譲ってほしいと云うと、瞿夷は、王が定光仏を迎えるのに供えるものだからだめであると一旦はことわるが、問答の末、五百銀で五本の青蓮を儒童に譲る。が、瞿夷は別れてから、年の若い鹿皮のようなみすぼらしい恰好の学徒が、五本の花のために五百銀もの金を使うのはおかしいと思い直し、儒童に追いつき、青蓮を返してほしい、だめなら無理をしてでも奪い返しますよと云うと、儒童は、お金を払って買ったものをなぜ奪い返すなどと云うのかと問い返すと、瞿夷は、自分は王家の娘だからしようと思えば出来るのだと応える。困った儒童は人目を避け、この花を供え定光仏に願い事をするのだと告げる。すると瞿夷は、残りの二本もあなたに託すので、私の代わりに後の世で自分を妻にすると定光仏に願い誓って下さいと云う。それから暫くして定光仏がやって来ると、民らは拝謁し仏に向かって供えの花を投げると、それらはすべて地に落ち、儒童が投げた五本の青蓮だけが定光仏の頭上で根を生やしたように空中に留まり、瞿夷から預かった二本は仏の両肩の上でピタリと留まった。これを見た定光仏は、儒童を、その身につけた修学の態度を誉め、これより後仏となったならば釈迦と呼ばれるであろうと告げる。「五茎の青蓮華」は、釈迦が釈迦となる前の世ですれ違った女から買った花であり、その王家の女は釈迦の妻になることを願い、釈迦となる菩薩儒童は、この五本の青蓮を定光仏(燃燈仏)に供養し、定光仏から釈迦と呼ばれる仏になるとの予言を受けた、というのである。青蓮院の庭の池に青睡蓮はない。キャンバスに青い睡蓮を描いた画家モネは、己(おの)れの庭の池に浮かぶ青い睡蓮を夢見たというが、咲かせることが出来なかった。青蓮坊青蓮院と寺を名づけた当時の日本でも咲かない花だった青睡蓮は、慈円法然親鸞もまだ見ぬ花であった。

 「それから、地元のテレビ局で報道されたとたん、お年寄りが(経営する)本屋に次々いらっしゃった。手に手に持っているのは畑で抜いた大根やブロッコリー、ニンジン、白菜なんです。それを新聞紙に包んで「うれしどなぁ。いがったなぁ」と。「震災がら悲しくて辛ぇごどばっかりだったげんちょ、昨日はうれしぐで泣いじまったわ」と、お年寄りがマスク越しに涙ぐんで震えているんです。畑を持っていない方の中には、とにかく駆けつけたいので冷蔵庫から納豆を取り出して持って来て下さる方もいました。」(柳美里『JR上野駅公園口』全米図書賞翻訳文学部門受賞インタビュー、朝日新聞DIGITAL2020年12月12日)

 「「中間貯蔵施設での保管反対」双葉町長が見解 第1原発処理水」(令和2年12月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)