雲ケ畑(くもがはた)という地名は、繁華な町中(まちなか)よりも遠い町外れの名に相応(ふさわ)しく、賀茂川を遡(さかのぼ)って辿り着く、川淵にオオサンショウウオの棲む洛北の山間(やまあい)の地区の名である。この地名の由来の一つに、出雲が絡んでいる。平安京の造営に出雲国からやって来た、あるいは命を受けた大工職人がこの地で木材を調達し、その区切りのついた後も故郷へは帰らず住みつき、はじめは出雲ケ畑と呼ばれていた地が雲ケ畑の名で残ったのだという。第六十八代後一条天皇太政大臣藤原為光(ふじわらのためみつ)が己(おの)れの子松雄君(後の藤原誠信ふじわらのさねのぶ)のために源為憲(みなもとのためのり)に作らせたという教科書『口遊(くちずさみ)』(天禄元年(970))の居処門(居処の項)に「雲太、和二、京三(謂大屋誦おおおくを、しょうしていはく)」という言葉がある。「今案(いまあんずるに)、雲太謂出雲国城築明神々殿(在出雲郡、杵築大社、後の出雲大社)、和二謂大和国東大寺大仏殿(在添上郡そふのかみのこほり)、京三謂大極殿。八省」この世の三大建物の第一は城築明神(出雲大社)で、二番目が東大寺大仏殿で、三番目が天皇大極殿と八つの省の建物であると覚えなさい、というのである。その世の第一の建物を建てた渡来人ともいわれている技能集団が、平安京のために汗を流したということはあり得る。であればこの集団は、愛宕郡出雲郷の出雲一族の後続の者らである。が、別の由来もある。第五十五代文徳天皇の第一皇子惟喬親王(これたかしんのう)の剃髪後の名耕雲入道の耕雲から来ているという。第一皇子でありながら紀(き)氏の血を継いでいたため、右大臣藤原良房(ふじわらのよしふさ)の娘が生んだ生後九ヶ月の第四皇子惟仁親王(これひとしんのう、後の清和天皇)を皇太子にされ、気を病んだ惟喬親王は京から大原に逃れ棲み、雲ケ畑の地で剃髪し、その死の時は、御所のある洛中を流れる賀茂川の上流のこの地で死ねば宮城を汚すという理由で、より北の山奥の大森という場所に移されて迎えたという。「雲を耕す」という言葉は、頭の中で跳躍がなければ生まれない。惟喬親王は、歌人在原業平(ありはらのなりひら)と交流があった。その言葉の跳躍に手を貸したのが在原業平だったかもしれない。もう一つの由来は、山の頂上一面に咲く薬草の花が雲が降りたようだったから、というものである。東山六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)は、正月三が日、参拝者に皇服茶(こうぶくちゃ)を振る舞う。梅干しと結び昆布を沈めた大福茶と呼ばれるものである。空也聖が市中の病人に飲ませ、評判を聞いた第六十二代村上天皇も飲んだことで皇服であるという。昨年までは茶碗であったが、今年は二重にした紙コップに茶が注がれている。緋毛氈に腰を下ろし、紙コップのフチを歯に当てながら、乗り物の便が一日一往復だけの行ったことのない雲ケ畑を改めて思えば、その名の由来は、住みついた出雲の大工でもなく耕雲入道でもなく、山一面に咲いた薬草の白い花を探し当てた、はるばる洛中からやって来た薬草仲買人の思わずの感嘆ぶりが目に浮かぶ。六波羅蜜寺の三が日の参拝者は皆、干乾(ひから)びた一茎の稲穂を頂戴する。後は金を払ってその稲穂に、縁起物の熊手やら金の俵やら七福神の絵馬やら鈴をつけて貰うのである。寺の者がつけてくれた六波羅蜜寺と白抜きされた朱色の短冊だけであっても、殺風景な玄関内には正月の彩りである。

 「西来祖道我伝東 釣月耕雲慕古風 世俗紅塵飛不到 深山雪夜草庵中 西からやって来た祖の道理を私は東に伝え 月を釣り雲を耕すような古(いにしえ)の風流を慕い 俗世間の紅く染まった塵はここまで飛んで来ない 私はいま山奥の雪降る夜の草庵にひとりでいる」(「山居」道元「永平広録、巻十」)

「双葉・伝承館に「原子力PR看板」 福島県負の遺産…記憶継承」(令和3年1月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)