油屋にむかしの油買ひにゆく 三橋敏雄。俳句は季語を使って詠むものであり、そうでないものは俳句ではないとする者がいるが、この俳句には季語がない。「油屋に」「買ひにゆく」ものは油であり、三橋敏雄が買いに行ったものは「むかしの油」である。たとえばガソリン車を走らせるために入れる石油は、人の手で作ることの出来た「新しい石油」というものがこの世にないとしても、何億年か何千万年前に地球にあって滅んだ生物の成れの果てであるという石油は、大昔から地中深く埋まっていた「むかしの油」である。いま寒空の下、ポリ容器を下げガソリンスタンドまで買いに行く者が買う灯油は「むかしの油」である。が、恐らく三橋敏雄のいう「むかしの油」は、このような硬直した意味ではない。たとえば同じ三橋敏雄の、ぶらんこを昔下り立ち冬の園、という俳句の「昔」は、「むかしの油」よりも柔らかな手つきで詠んだ「昔」である。目の前にいる子どもが漕いでいたぶらんこから飛び降りたのを見て、ハッと己(おの)れがそのようにして飛び降りた時の気分を、その時に見た冬の景色と着いた地面の感触までもが蘇った、あるいは実際にぶらんこを漕いでいて、酔いの勢いで飛び降りると、途端に目の前が子ども時代に過ごした冬の遊び場に変わってしまった。あるいはこの句が、「むかしの油」に直接道をつけるものかもしれない。くりかへす花火あかりや屋根は江戸。三橋敏雄にとって、夏の夜空に打ち上って開く花火が照らす時に見える屋根瓦の波は、それがいつであってもそこがどこであっても、それは江戸の家並でなければならない。油屋にむかしの油買ひにゆく。三橋敏雄は、油を量りで売っていた頃の失われた「あの日」を思い出している。あるいは粘り気の強い油を前に、量を胡麻化すかもしれない油売りとそれを見張る客との間に独特の時間が流れた江戸の人間を思っている。それは、米屋にむかしの米を買ひにゆくでも、豆腐屋にむかしの豆腐買ひにゆくでも、薬屋にむかしの薬買ひにゆくでもなく、買うのは「むかしの油」でなければならないのである。上京の下立売通智恵光院西入ルに文政年間(1818~30)創業という山中油店がある。上の表に虫籠窓を切った町家の店舗が国の文化財であるのは、三橋敏雄の「むかしの油」を買いに行く油屋に相応しいのであるが、この店の出窓に売り物の油ではなく「西陣の空襲」というおよそ相応しからぬ展示物が置いてある。中身は錆びた四五十センチの鉄の破片二つである。昭和二十年(1945)六月二十六日の朝、米軍の爆撃機B29の編隊が落としていった爆弾の一部である。その説明には、爆弾は七発で五十名の者が犠牲になったと書いてある。当時を知る者が云うその犠牲者の一部は、酒屋の家族が八名であり、牛乳販売店の妻であり、薬局の家族と使用人の四名である。空襲は東山でもあり、太秦三菱重工業の工場でもあり、御所のそばでもあった。十代の三橋敏雄はこのような句を詠んでいる。射ち来る弾道見えずとも低し。ガムを噛みながらB29を操縦する兵隊の姿は、牛乳販売店の妻に見えるはずがなかった。戦争と畳の上の団扇かな 三橋敏雄。

 「家は道路に面して、間口をひろくとつて、何屋といふか、米もあり酒もあり、もめんの反物もあり、箒わらぢなんぞの荒物いろいろ、たばこまで賣つてゐようといふ柱の太い店がまへで、横手にはペンキ塗二階建の西洋館が別棟になつてつづいてゐた。そして、奥行はさらにふかく、廊下がのびてゆくにつれて、木石をあしらつた庭がひらけ、庭はしぜん畑につながつて、一見して土地の舊家と知れた。そこの奥ざしきで、どぶろくにうどん、おもひがけぬ鰒(フクと清(ス)んで發音してください)の煮たのまで、豐後なまりのおしやべりを聞かされるといふ趣向になると、これはどうしても藤原のホトケサマとは縁がきれた。」(「越天樂」石川淳石川淳選集 第九巻』岩波書店1980年)

 「原発事故、国の責任否定 東京高裁・避難者訴訟、東電賠償は拡大」(令和3年1月22日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)