一休さん一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は第百代後小松天皇落胤(らくいん)として洛南京田辺酬恩庵、一休寺にある墓は宮内庁によって管理されている。一休宗純の弟子没倫紹等墨斎が書いたという『東海一休和尚年譜』には、酬恩庵で迎えたその最後が「孟冬(初冬、旧十月)の朝、瘧(おこり、熱病)発(おこ)る。三日、駆瘧の薬を服して、瘧散ず。然(しか)れども、衰憊(すいはい)喘々(ぜんぜん)としてこれを殆(あやう)くす。十又九日、江の勅史来り謁(えつ)す。対話すること常の如し。十一月七日、疾病篤く、水漿も口に入らず。二十一日、卯時(午前六時)、泊然(はくぜん、穏やか)として寐るが如くにして坐逝したまう。」と記されている。一休宗純を知ろうとする者はまずはこの『東海一休和尚年譜』を元(もとい)に思いを巡らし、小説家水上勉もまたこれを手許に、ともう一冊、元禄二年(1689)に出た某種本の読み下しとして大正二年(1913)に出た磯上清太夫という者の『一休和尚行実譜』に目を凝らして伝記『一休』を書き、皆が得体の知れぬ者との思いを抱く、その正体を知るためにいまはこの水上勉の『一休』を読み進めれば、後小松天皇に仕えていた楠一族の出というひとりの女が皇妃によって宮廷から追われ、応永元年(1394)嵯峨野の民家で後に一休宗純となる男子を生み、千菊丸と名づけられた。この後後小松天皇に男子は二人生まれ、その第一皇子が後の第百一代称光天皇である。千菊丸は六歳で四条街北大宮西にあった安国寺に預けられ周建として出家し、十二歳で嵯峨宝幢寺の清叟仁(せいそうじん)に「維摩経」を学び、十三歳で建仁寺の慕喆竜攀(ぼてつりゅうはん)に漢詩を学び、『東海一休和尚年譜』は周建十七歳として「中秋無月の詩を賦(ふ)し佳句神(しん)に入る。清叟仁につきて外書経録を学ぶ。謙翁関山派の宗風を唱(とな)うるを聞きて往(むか)いて室に造(いた)る。」と記す。水上勉は己(おの)れの修行時代を思い返し、この間に周建が禅寺の戒律と同時に男色を覚えたのではないかと推測する。禅修行の序列は、童行(ずんなん)、喝食(かつじき)、沙彌(さみ)と上に連なり、師が稚児を傍に置き、喝食沙彌が童行を弄(もてあそ)ぶ当時の「禅林の稚児狂い」の中に周建も身を置いていたに違いないとするのである。「近侍の美妾に寄す 淫乱天然、少年を愛す、風流の清宴、花前に対す。肥えたるは玉環(楊貴妃)に似、痩せたるは飛燕(漢の孝成帝に仕えた)、交りを絶つ、臨済正伝の禅。」一休宗純の詩集『狂雲集』にある世に知られた一篇である。気の赴くまま傍づきのお気に入りと遊んでいる時は臨済の教えなど断ち切っても構わない、と一休宗純は詠っている。文学の戯言(ざれごと)ではなく、このことを隠し事としない一休宗純という男の偽らざる歌い言であると水上勉は云うのである。十七歳の周建は、その評判を聞き知った謙翁宗為(けんおうそうい)を禅の真人と思い定め弟子となり、名を宗純と改める。「(謙翁の)西金寺は貧寺なれば、宗純一日とてたくはつにいでざるはなかりけり、にし山よりとほく都にむかひ、高倉、四条、三条へあるき、まちや、しやうかにこひて米粟をめぐまれての帰庵なり。謙翁臥す日あり、水薬師の水をしよまうしたまふに、宗純たくはつの帰路、御旅所にゆきたまひて清泉の水をいただきての帰参あり。げにこころやさしきことなり。」(『一休和尚行実譜』)「げにこころやさしき」宗純であったが、宗純にはもう一つの顔があった。父親が後小松天皇で、母親が南朝側にあった楠一族という顔である。ある日居合わせた宝幢寺に四代将軍足利義持がやって来て、一段高い所から迎えて幀子(とうす、仏具)を渡そうとした宗純が、同行の赤松越州(満祐)に叱られ、あかんべえをしてみせた。この時宗純は、男色だった義持と連れの満祐の関係を知ってからかったのだという。「いつのころよりかしらねども京に盆踊りはやれり。まい年七月十五日より八月一日までを、みやこはづれの大滝にて、八十間四面のたけやらいゆひつけ、将軍義持公おなりとのさわぎなり。みやこの人さまざまなるくふうこらして将軍のおん目にとまらんとせり。━━(包みの)なかより白もめんとどくろ野ざらし姿ゑがきし衣裳のいでたり。一休(宗純)すばやく衣のうへにかけもめんの三尺にてしめ、白はちまきのうへ、よういの拍子木かちかちとうちならし、てうしとりつつ踊りのなかへ入りたまふ。きらびやかなる男女のなかなれば、どくろ絵の衣裳はめだちたり。一休(宗純)わざわざ将軍義持公のごぜんにすすみいでられ、竹を切るならこころせよ、たまりし水をにごすなよ、手あらくすればにごるぞよ、切らずにおけば出ず入らず、世の彌之助のそでのつゆ、片によらず片よらず、二合の酒ににぎりめし、親身貧苦も常のこと、少しのんだら薬のものよ、それもかじればどくとなる、水とをばなとちぎるなら、あすをちぎりてすゑまでとげよ、秋のもみぢはうすいがちるか、色のこいのがさきにちる、人のまねする鸚鵡でさへも、いやぢやとみえてまねもせず、笛や太鼓の盆踊り、おまへのお気に入るやうに、ねこもしやくしも出て踊れ、なむあみだぶつやつこらさ。将軍目にとめられ、あれは何者ぞ、ととはれけるに側臣、かの一休(宗純)なりとこたへければ、義持公顔いろかへてきさんなり。この翌年とりやめになりたるとぞ。」(『一休和尚行実譜』)この語りは作りごとであるが、弟子墨斎の『東海一休和尚年譜』を元にした話である。宗純は己(おの)れが後小松天皇の子として打ち首になる恐れもなく、将軍義持に絡んでいるのである。中学時代の体育祭で、一学年上のその町の町長の息子が、皆が必死で走っている校庭一周走の途中で突然足を緩め、首に巻いていた手拭を解いて、それを観客に向かって振りながら走ったことがあった。誰ひとり笑わず、拍手をする者もいなかった。その町長の息子が宗純坊主で、校長の義持の前でお道化てみせたのである。「応永二十一年(1414)、甲午、師(一休宗純)二十一歳。臘月(春)、為謙翁寂す。祭を致すに資無し。徒(た)だ心喪する耳(のみ)。辞して清水寺に詣(いた)る。寺の旧法、除日自(よ)り上元に至るまで、人を禁じて断穀焚誦(だんこくふんしょう)す。帰りて母氏に啓し、再び清水寺に詣り、歌の中山を経て、路を大津の駅に出づ。駅亭人、一休の青ざめたる顔を見て餅を施与す、一休之(これ)を喫し終り、即ち石山観音像の前に七日の黙禱をなす。山中に僧あり。師を庵に招き、厚くもてなし、家話一百則を出して之を写さしむ。師すみやかに書き終る。僧喜びて旅費を与う。師、像の前を出で、瀬田橋をすぎ、ひそかに自らに悟って吾れ水中に投身し、若(も)し命を得れば観音の加護疑いなし。若し然らざれば魚腹に葬らるるといえど、他日必ず所志を遂げん。観音あに我を捨てんやと。将に投身せんとするや、母氏の使者来りて、これをとどめていう、身を毀(こぼ)たば孝を失す、道を悟れば他日為す日もあらん。師やむを得ず帰京し、母にまみゆ。」(『東海一休和尚年譜』)師の謙翁を失った二十一歳の宗純は、嵯峨野にいた母親のところに顔を出した後琵琶湖で入水をしかけ、母親の使いの者に止められたというのである。一休宗純が弟子墨斎にそう語ったのであれば、母の使者の真偽を脇に置いても自殺未遂は事実である。この出来事のすぐ後、宗純は琵琶湖畔の堅田にいた禅興庵の華叟宗曇(かそうそうどん)の門を敲(たた)いて拒絶され、数日舟中道端に寝る「庭詰」を経て入門を許される。「華叟和尚はくわんじになりはてたる本寺をきらひたまふ。」官寺となって足利に管理される大徳寺に嫌気がさし、新興町の堅田に道場を構えていた華叟の弟子に、自殺を企てた宗純はなるのである。水上勉はこう云書いている。「古沼のようにくさりはじめていた封建制下の洛中で、詩歌を論じ、公案禅を売り物にする茶坊主、また売僧(商売に精を出す坊主)の汚俗をのがれ、新しい自治体制下で舟を漕いで生きる庶民の町に腰をすえたのだ。」(『一休』)が、新たな修行の場は貧しく、宗純は京へ出て、香包(においつつみ)づくりと雛人形の彩衣づくりなどをして衣食の資とした、という。この内職を宗純は十年続けるのである。「応永二十五年(1418)、師二十五歳。一日、͡瞽者(こしゃ)の祇王寵(ちょう)を失して落飾するの事を演するを聞き、忽(たちま)ち雲門の洞山に三頓(さんとん)の棒を放(ゆる)す因縁に投機す。華叟一日、一休の二大字を書きて師に与え号と為す。」(『東海一休和尚年譜』)ある日、琵琶法師の語る平清盛に捨てられ尼になる祇王の条(くだり)を聴いて、宗純は「洞山三頓棒」を悟ったという。公案「雲門、洞山に三頓の棒を放(ゆる)す」はこうである。「雲門、因(ちな)みに洞山の參ずる次(つい)で、問うて曰(いは)く、「近離(きんり)甚(いず)れの処ぞ」(どこからやって来られたのか)。山云く、「査渡(さと)」。門曰く、「夏(け)、甚(いず)れの処にか在る」(この夏安吾(げあんご)はどこで過ごされたか)。山云く、「湖南の報慈(ほうず、報慈寺)」。門曰く、「幾時か彼(かしこ)を離る」(いつそこを出てこられた)。山云く、「八月二十五」。門曰く、「汝(なんじ)に三頓(さんとん、六十)の棒を放(ゆる)す(食らわせてやりたい)」。山、明日(みょうにち)に至って却(かえ)って上って問訊す。「昨日、和尚三頓の棒を放(ゆる)すことを蒙(こおむ)る。知らず、過(とが、間違い)甚麼(いずれ)の処にか在る」。門曰く、「飯袋子(はんたいす)、江西湖南便(すなわ)ち恁麼(いんも)にし去るか」(この大飯食らいめ、江西だの湖南だのと、お前はどこをうろついていたのだ)。山、此(ここ)に於(お)いて大悟す。」人はどこから来たのでもなく、どこへ去るのでもなく、ただの飯を詰める袋にすぎないのである。祇王の悲話を聴いて、宗純はこの公案を解いたというのである。「有漏地(うろじ、煩悩の俗世界)より無漏地(むろじ、煩悩が消滅した境地)へ帰る一休み雨ふらば降れ風ふかば吹け」後の己(おの)れをこう詠んだという、一休のはじまりである。「師二十七歳。夏の夜、鴉を聞いて省有り。即ち所見を挙(こ)す。先師曰く、「此は是れ羅漢の境界なるのみ、作家(さっけ)の衲子(のうす、僧)に非ず」師曰く、「某は只だ羅漢を喜んで作家を嫌う耳(のみ)」「你(じ)は是れ真の作家なり」(『東海一休和尚年譜』)一休は夜の暗闇で鴉の声を聞いて大悟し、翌朝、華叟にその考えの道筋を云うと、華叟は「それはまだ羅漢の境地で、本当の仏僧の境界には至っていない」と応え、それを聞いた一休は「いまの私が羅漢であるとおっしゃるのであればそれでいいです、偉い坊さんになどなりたくありません」と云った。華叟はそれを聞き「お前こそは本物の仏者である」と一休に告げた。禅でいう大悟とは、迷いが去って真理が身につくことであるといい、大悟は、忽然(こつぜん)と大悟するのだという。鎌倉の尼、安達千代能は水を汲んだ手桶の底が抜けて大悟した。鴉の鳴く声で大悟したと説明をしてしまった一休は、私が羅漢であると云うなら羅漢でも構わない、と、そう心が動いたことが大悟である、と華叟は云ったのである。水上勉は、この大悟したという一休を揺さぶって来る。「室町時代に入ると、下克上の気風が胎動しはじめ、それでなくても洛中は追剥ぎ、強盗とさわがしく、家や係累を失って巷(ちまた)に出た妓娼は、湯屋、妓楼などの公許制を無視、辻々に氾濫した。━━当人(一休)はそれでは、この白昼婚姻に誘惑されなかったのだろうか。」(『一休』)その一休は、口からこう吐き出して紙に書く。「風狂の狂客、狂風を起す、來往す婬坊酒̪肆(いんぼうしゅし)の中。具眼の衲僧(のうそう)、誰か一拶せん、南を画し北を画し西東を画するのみ。」(『狂雲集』)風狂に染まった気狂いが、馴染みの遊女屋呑み屋で荒れ狂っている。どこかにこの気狂いのおれの心根を見通せる禅坊主はいるか、そんな者はどこにもいない。一休の得体の知れなさは、この心根の振り幅である。が、一休の弟子の書く年譜にはこの振り幅のもう一方は出て来ない。「師二十八歳。先師腰疾(や)みて起たず。一榻(とう、こしかけ)に塊坐す。二利共に承器を設けて、左右輪次に穢(え)を除く。衆、皆な籌子(ちゅうし、竹の棒)を用いて刷(のぞ)くも、師独り手指を下して以て之を袪(はら)い雪(きよ)めて曰く、「師翁の穢、何の之を厭(いと)うことが有らん」と。衆、慚(は)ずる有り。」(『東海一休和尚年譜』)持ち回りでする師の便の始末を、皆が竹でするのを、一休ひとりは素手でやっていたという。が、一休の心根は揺れる、あるいは自ら揺らしている。「昔、一婆子(ばす)有り、一庵主を供養す。二十年を経て、常に一りの二八の女子をして飯(はん)を送らしめて給侍す。一日、女子をして抱定せしめて云(いは)く、正恁麼(しょういんも)の時、如何(いかん)、庵主の云く、枯木、寒岩に倚(よ)る、三冬に暖気無し。女子帰って拳似(こじ)す。婆子云く、我れ二十年、只だ͡个(こ)の俗漢を供養し得たり、追い出して、庵を焼却す。老婆心 賊の為めに梯(かけはし)を過す、清浄の沙門に、女妻を与う。今夜、美人、若(も)し我に約せば、枯柳、春老いて、更に稊(てい、カワヤナギの芽)を生ぜん。」(『狂雲集』)「婆子焼庵」という公案がある。ある婆さんが、二十年世話をした坊さんに抱きつくよう、ひとりの娘に仕向け、抱きつかれた坊さんは「枯木が冷たい岩を抱いたみたいで真冬の温もりがない」と云った。これを聞いた婆さんは、とんだ俗物を養っていたものだと云って坊さんを追い出し、庵を燃やしてしまった。一休は詠う、真面目な坊さんに妻を添わせるのは盗人に梯子を貸すようなもの、おれにその妻をよこしてくれたら枯れた柳に春が来て芽吹くだろうに。「応永三十四年(1427)、師三十四歳。後小松帝、神器を称光帝に付して以降、聖念特に師に在り、鍾愛(しょうあい、可愛がる)愈(いよいよ)篤し。故に時々召対し、席を前にして亹々(びび、溌溂として)として道を問い禅を譚(かた)り、大いに宸衷(しんちゅう、帝の心)に称(かな)うた。」(『東海一休和尚年譜』)のであるが、称光帝が危篤に陥ると、密かに相談を受けた一休は後小松帝に、「天の暦数を咨(はか)るに正に彦仁皇の躬(み、自身)に在り、時失すべからず、左右の袒(たん、衣を脱いで肩を出す礼儀)を待つなかれ」と。」応えている。琵琶湖入水の前に母親に会って以来、墨斎の『東海一休和尚年譜』には、一休が母親に会ったという記述はないが、父親の後小松帝には位を称光帝に譲ってから会っていたといい、一休の進言で次の後花園天皇が誕生したというのである。これが一休のもう一つの顔である。その翌年、「後花園皇帝正長元年、戌申、師、三十五歳。六月二十七日、華叟師寂す。訃を聞き倉皇として成子を拉(ともな)いて堅田に赴き、以て祭を致す。十七日、諸徒各々散す。師亦(ま)た京へ還る。」(『東海一休和尚年譜』)永享五年(1433)、後小松帝崩御。この前年の『東海一休和尚年譜』に、一休はこう書かれている。「永享四年(1432)、師三十九歳。冬、沅子(南江宗沅)を携(したが)へて泉(堺)に遊ぶ。時に女子有り、彭(ほう)と名づく。自から其の夫を殺して師に秉炬(ひんこ、引導)を請う。其の語に曰く、「手裡の吹毛、能(よ)く死(ころ)し能く活す。小姑彭郎、一刀に両断す」と。火炬を背後に擲(なげう)つに、荼毘(だび)の会に赴く者、火星、衣に点ず。師一日、檀家に入る。欄に老牛有り。戯れに一偈(げ)を書いて其の角端に掛けて云く、「異類行中、是れ我れ曾(かつ)てす。能は境に依り境は能に依る。出生しては忘却す来時の路、識らず前身に誰か氏の僧なりしを」と。其の夜、牛斃(たお)る。翌日牛主、師に戯れて曰く、「師は吾が牛を頌殺(しょうさつ、讃えてて殺した)せり」師、一咲(いっしょう、笑う)するのみ。」「永享七年(1435)、師四十二歳。曾(か)つて泉南に在り。出でて街市に遊ぶ毎に、一木剣を持って鋏を弾ず。市人争って師に問う、「剣は殺を以て功と為す。師が此の剣を持つは、是れ甚麼(なん)の用ぞ」答えて曰く、「汝等、未だ知らずや。今諸方の贋(にせ)知識、此の木剣に似たり。室に収在するときは殆(ほとん)ど真剣に似れども、室より抜き出すときは、只だ木片なる耳(のみ)。殺すことすら猶お能(よ)くせず、況(いわん)や人を活かすことをや」人皆之を咲(わら)う。」(『東海一休和尚年譜』)一休は堺に移り住んでいた。洪水、一揆、疫病、餓死、殺人が覆う京から逃れるためである。ある日、一休が導師となって夫を殺した女に引導を渡した後、一休は持っていたかがり火を自分の後ろに投げ、集まっていた者の着物にその火の粉が移って燃えたことがあった。あるいは、ある檀家が飼っている牛の角に一休が遊びで、一筆書いた紙をぶら下げ、「私の前世は獣だったかもしれず、そのまた前世が坊主であったかどうかはわからない」云い、次の日その牛が死に、主(あるじ)に責められるが、一休は笑って何も応えなかった。あるいは、一休が木剣を差して町中(まちなか)をぶらつき、それを問われると、「そこらでうろうろしている学者の贋者たちはこの木剣と同じで、部屋の中で抜かずにおけば真剣に思わせることが出来るが、中身を抜いて外に出れば、役立たずの木片なのだ。人を活かすことも殺すことも出来ない。」と云ったという。水上勉はこれらの一休の奇行を、「一休への格別な崇敬心があったかもしれぬ町民に、一休は、さように特別視されるのをきらって、つとめて町民に接近しようとしたことを示すものであろうか。一休にもっとも皇胤らしい行状を嗅ぐのは、四十代前後のこの堺における奇行なのである。」と書く。堺に南宗寺という寺があった。「南坊に示す 偵 勇巴(男色)興尽きて、妻に対して淫す、狭路の慈明逆行の心。容易に禅を説く能(よ)く口を忌む、任他(さもあらば)あれ雲雨楚台の吟(※雲雨、楚の懐王が高唐に遊び、夢の中で巫山(ふざん)の神女とちぎったが、神女が去るに臨み、「妾(しょう)は巫山の陽(みなみ)。高丘の岨(そ)に在り、旦(あした)には朝雲となり、暮れには行雨となる」と云って立ち去ったという故事から、男女の交情)。」(『狂雲集』)この偵は、後に僧侶となる紹偵という一休の子であるという。この詩の水上勉の訳はこうである。「ながいあいだ稚児を賞でて男色にふけってきたが、これも興がつきたので、この頃は女性の方が楽しく、妻と淫にふけっている。まあいってみれば慈明さんの逆行というところだが、たやすく禅々などと口にだしていう修行面(づら)をしておるよりも、女体の肌のきめこまかな汗ばみの中で、こんな馬鹿げた詩を口ずさんでいるのだ。」(『一休』)永享十年(1438)、四十五歳の一休は京に戻り、銅駝坊北の小庵に住み、もっと良い住まい、大徳寺の如意庵に招かれるも十日で出、安衆坊南の草庵に移り、嘉吉二年(1442)、丹波山城の境譲羽山(ゆずりはさん)で山暮らしを始める。京で、第五代将軍義教(よしのり)が、一休がかつてあかんべえをした赤松満祐に諮(はか)られ殺される事件が起こったからである。「山居二首(の一首) 婬坊の十載、興窮まり難し、強いて住む空山幽谷の中。好境雲は遮る、三万里、長松耳に逆らう、屋頭の風。狂雲は真にこれ大燈の孫、鬼窟山里、何ぞ尊と称せん。憶う昔、簫歌雲雨の夕に、風流の年少、金樽を倒せしことを。」(『狂雲集』)山奥に住まなければならなくなったが、十年通った女郎屋に未練が沸く。ここは都から遠く離れたいい所だが、風が耳に鬱陶しい時もある。私は大徳寺開祖大燈国師を継ぐ真の弟子であるが、そんなことはこんな鬼が住むような所では何の意味もない。ああ女や美少年と遊んだ昔が懐かしい。一休は一年で山を下り、大炊御門室町の陶山公源宰相の妾宅の空き家に移り住む。「文安四年(1447)、師五十四歳。龍山(大徳寺)多故にして、数僧獄に繋がれ、一門心酸す。秋九月、師、心疾革(きわ)まり、潜(ひそ)かに譲羽山に入りて将に餓死せんとす。事、宸聴に達す。即ち勅批を降して曰く、「和尚決して此の挙有らば、仏法と王法と俱に滅せん。師豈(あ)に朕を舎(す)つるか、師豈に国を忘るるか」師、勅に答えて曰く、「貧道も亦(ま)た率土の一民なる耳(のみ)。命敢えて辞す可(べ)けんや」と。重陽の日、九偈を述べて以て衆に示し、月尾(月末)に京に帰る。」(『東海一休和尚年譜』)大徳寺で僧がひとり自殺し、下獄者が出て、一休は譲羽山に身を晦(くら)まし、身の浄めの断食しようとするが、天皇の耳に入り、使者の説得に思いとどまり、山を下りて京に戻ったという。大徳寺では、一休の師華叟の師兄(すひん、兄弟子)だった養叟(ようそう)が住持二十六世になっていた。養叟は幕府管理の五山から大徳寺を格落ちさせ、林下の禅寺となって、商いの如くに悟りの印可を得法として武士商人町人に与える「禅の世間法」で名利金儲けに走り、かつてない隆盛をみせていたのであるが、その中で下獄騒ぎが起き、一休は己(おの)れの師である大燈国師宗峰妙超、華叟の法脈から遠く隔たった養叟に対して反発の態度をあらわにしてゆく。「今ヨリ後ハ養叟ヲバ大胆厚面禅師ト云ベシ、養叟ガ門ニ入ル者ハ道俗男女ヤガテ推参ニナル、五日十日之内ニヤガテ得法ヅラヲ仕候、面皮厚シテ牛ノ皮七八枚ハリツケタルガ如シ、紫野(大徳寺)ノ仏法ハジマツテヨリコノカタ養叟ホドノ異高(いたか)ノヌスビトハイマダキカズ、比丘尼ニ法門ヲオシユル事モ、比丘尼ノ得法タチモ、養叟ヨリサキハソウジテナシ。」(『自戒集』一休宗純)禅の階段を昇りつめ面の皮が厚くなった養叟に対し、一休は相変わらず地を這うような生活をしている。「享徳(1452~1455)のころ和尚売扇をなりはひにしてかつろ庵(瞎驢庵)に住まはれけるが、洛中さわがしきことおびただし、非人さいみん飢ゑ死ぬはいふにおよばず、洪水のあととて橋落ちたるかもがはらには物乞ふ病みびとの列をなし、女子供の食ひものあさりて泣くを、さらに女ごらより盗みとる男のあさましきありさま、末世地獄なり。」(『一休和尚年譜』)「迷悟 無始無終我が一心、不成仏の性(しょう)、本来の心。本来成仏、仏の妄語、衆生(しゅじょう、すべての人間)本来迷道の心。地獄 十万世界尽乾坤(けんこん、天地)、水火寒温人の命根。看(み)よ看よ米穀の閑田地、是れ衆生の地獄門。三界(この世) 餓鬼畜生に菩薩無し、劫空(ごうくう、無限の時間)の法習吾が臍(ほぞ)に徹す。無色の衆生、涙雨の如し、月は沈む望帝(ぼうてい、ホトトギス)一声の西。」(『狂雲集』)一休が目にしているのは、米の穫れない田圃が地獄である庶民である。この世は無限の地獄であり、そうであるからこそ無限の仏修行の道を進まなければならない。生気を無くした人々は雨のように涙を流し、月は西に沈むのを繰り返し、時は流れ、応仁元年(1467)、京に細川、山名の動乱が起こり、戦火が起こり、百余町三万余宇が焼け、死者が溢れ、七十四歳の一休の目の前は、いまも地獄である。「寛正(1460~66)の年無数の死人、輪廻す万劫の旧精神。涅槃堂裏懺悔(ざんげ)無し、猶お祝う長生不死の春を。極苦飢寒一身に迫る、目前飢鬼は目前の人。三界の火宅(かたく、煩悩まみれの俗界)五尺の躰、是れ百億須彌(しゅみ、果てのない高さ)の苦辛。黄泉の境界幾多か労す、剣は是れ樹頭、山は是れ刀。朝打三千暮八百、目前は獄卒(ごくそつ、獄死)目前は牢。」(『狂雲集』)一休の口から出た世の呻きである。が、この世は別の口を開けている。「洛下に昔紅欄古洞の両処有り。地獄と曰い、加世(別世界)と曰う。又安衆坊の口(ほとり)、西の洞院に諺に所謂小路なる有り。歌酒の客、此の処を過ぐる者、皆風流の清事を為すなり。今街坊の間、十家に四五は娼楼なり。淫風の盛んなる、亡国に幾(ちか)し。吁(ああ)、関雎(かんしょ)の詩、想う可(べ)き哉(や)。嗟嘆するに足らず。故に二偈一詩を述べ、以て之を詠歌して曰う。に曰う 同居す牛馬犬と鶏と、白昼の婚姻十字街。人は道(い)う悉く是れ畜生道と、月は落つ長安半夜の西。仏露柱に交って一つに途を同じゅうす、邪法此の時扶(たす)くること得難し。栄樹の徒作家(さっけ、禅の高僧)の漢に似たり、仏法胸襟に一点も無し。詩に曰く 婬風家国喪亡の愁、君看(み)よ雎鳩(しょきゅう、ミサゴとハト)彼の洲に在り。例に随って宮娥(美人)主恩の夕、玉盃夜々幾春秋。」(『狂雲集』)かつての色街の焼け跡にいち早く建った小屋の十軒に四五軒は安淫売屋である。これこそ畜生道である。国が終わるのも間もなくだ。仏教も邪教になり果て、学を鼻にかける禅坊主の汚れた襟元には、仏法の誇りのかけらもないのである。ぼさぼさの短い髪の毛に鬚をはやした一休がこちらを見ている。一休が、一休の生きた世の中からこちらを見ている。弟子墨斎が描いた、恐らくは見たままの肖像画の一休である。一休はそのように云いつけているはずである。が、墨斎の書いた『東海一休和尚年譜』の一休の最後の十年に、盲女森は出て来ない。一休七十七歳、「文明二年(1470)仲冬(旧十一月)十四日、薬師堂に遊んで盲女の艶歌を聴く。因(よ)って偈(げ)を作って之を記す。優遊且喜ぶ薬師堂、毒気便々是れ我が腸。愧慚(きざん)す雪霜の鬂(びん)に管(かえりみ)せざるを、吟じ尽くす厳寒愁点の長きを。」(『狂雲集』)思いがけない盲女の歌を聴き、こびりついていた毒気が抜かれ、年をとったことを悔やんだが白髪の己(おの)れを忘れてしまった。「今、薪(たきぎ)園の小舎に寓すること年有り。森侍者、余が風彩を聞きて、已(やむ、やむにやまれぬ)に嚮慕(きょうぼ)の志有り。余も亦(ま)たこれを知る。然(しか)れども因循として今に至る。(文明三年)辛卯(しんぼう)の春、墨吉(住吉)に邂逅して、問うに素志を以てすれば、則ち諾(だく)して応ず。因(ちなみ)て小詩を作ってこれを述ぶ 憶う昔、薪園去住の時、王孫の美誉聴いて相思う。多年旧約即ち忘じて後、更に愛す、玉堦(ぎょくかい)新月の姿。」(『狂雲集』)薬師堂で会った森女は一休を慕って薪園の小舎(酬恩庵)にやって来たが、その時は別れ、住吉で再会し、「更に愛す」ということになった。「王孫の美誉」は、自分は天皇の血をひいているということである。それを聞いても森女は臆することがなかった。これより一休と森女は一つ屋根の二人となる。「盲森夜々の吟身に伴う、被底の鴛鴦(えんおう、おしどり)私語新たなり。新たに約す慈尊三会の暁、本居古仏万般の春。木は凋(しぼ)み葉落ちて更に春を回(かえ)す、緑を長じ花を生じて旧約新たなり。森也(陰部)が深恩若し忘却せば、無量億却畜生の身。恋法師一休自賛 生涯の雲雨、愁にたえず、乱散の紅糸、脚頭に纏(まつ)わる。自ら愧(は)ず狂雲佳月を妬むことを、十年の白髪、一身の秋。美人の陰に水仙花の香あり 楚台まさに望むべし更にまさに攀(よ)ずべし、半夜玉床愁夢の顔。花は綻(ほころ)ぶ一茎梅樹の下、凌波の仙子(女仙人)腰間を遶(めぐ)る。辞世の詩 十年、花の下、芳盟(美しい約束)を理(おさ)む、一段の風流、無限の情。惜別す枕頭児女の膝、夜深うして雲雨、三生を約す。」(『狂雲集』)どれも赤裸々な一休と森女の交情の様である。文明六年(1474)、「師八十一歳。広徳寺柔中隆和尚、勅黄を捧げ来りて、大徳寺住持の請を致す。辞す可(べ)からざるなり。」(『東海一休和尚年譜』)一休は、大徳寺第四十八世となった、が、寺には入らず、森女と弟子らとでその最後まで酬恩庵にあった。『一休和尚行実譜』の作者は、その一コマをこのように書いている。「日なたにてぬひものすとて、和尚のしたぎふんどし、たびなどのやぶれたるもちいだし、めくらの身で針つかふもいとほしげにみえたり。」文明十三年(1481)、「師八十八歳。十一月二十日、卯時、泊然として寐るが如くにして坐逝したまう。」森女は、一休の十三回忌と三十三回忌の大徳寺であった法事に出たと、一休の塔頭真珠庵の文書に残っている。「海に入って沙を筭(かぞ)うる底、甚(じん、何に)に因(よ)ってか、針鋒(しんぼう)頭上に足を翹(つまだ)つ 土を撒(さつ)し沙を筭(かぞ)えて、深く功を立つ、針鋒に脚を翹(つまだ)てて、神通を現ず。山僧が者裡(しゃり、この私)、無能の漢、東海の児孫、天沢(てんたく)の風。」(『狂雲集』)どうして海に入って砂粒を数えるような、針の先の上でつま先だつようなことをやっているのか、気の遠くなるような努力をすればいつか神通力が宿るからだ、山坊主のような私にはまだその能力がないが、日本の皇統を継ぐ者として、光る風を受けている。「(室町幕府禅宗制度の)五山の隆盛は、他面、しだいに文化の末端を走って禅の本命を忘れたり、形式化するようになって批判を浴びるようになる。そのなかで勢力を伸ばすのが大広派の南浦紹明(なんぽじょうみん)・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)・関山慧玄(かんざんえげん)の系統で、妙心寺に拠った関山の系統が近世の臨済禅の主流となる。また、宗峰の大徳寺の系統からは一休宗純(一三九四~一四八一)のような特異な僧が出ている。」(『日本仏教史』末木文美士 新潮文庫1992年刊)落胤、出家、漢詩、男色、奇行、内職、自殺未遂、女犯、大悟、風狂、盲女森が、一休宗純のこの「特異」さであろうか。水上勉水上勉らしく伝記『一休』の末近くに、「人間の自然を否定して何処に人生があるのか。煩悩を罪悪視して何処に人間があるか。」と書く。が、その「人間の自然」を戒(いまし)めることが、そもそもの仏教の教えである。禅は修行による自らの悟りを重んじ、念仏教は他力本願念仏次第と説いた。一休宗純は早くから禅門の塀から出て庶民と交わり、念仏教の思想に傾いたのではないかという者がいる。一休宗純は、親鸞の二百回忌の法事に出て、蓮如に会い、親鸞の肖像を求めて得たという。「一日、普化、僧堂前に在って生采(さんさい、生野菜)を喫す。師見て云く、大いに(まるで)一頭の驢(驢馬)に似たり。普化便(たちま)ち驢鳴を作(な)す。師云く、這(こ)の賊(悪党)。普化、賊賊と云って、便(たちま)ち出で去る。」『臨済録』の有名な一節である。これをどう受け、どう考えるのか。禅の公案は難しく、これをどうにかして説くため、巷で公案の実際をやってみせたのが一休の奇行ではなかったか。一休は咲(わら)われる。が、念仏で人は咲(わら)わない。教えでは、煩悩は禅に反する。が、その禅に反する「人間の自然」をすることで、禅という教えが本物の教えであるかどうか、一休宗純は己(おの)れの全身で見定めようとしたのではないか。森女の、一休宗純の十三回忌の時の布施は五百文で、三十三回忌の布施は百文である。その銭の温もりは、森女の懐(ふところ)の温もりだったのであろう。

 「葬列は道を辿りつづけた。墓穴のふちに達すると、司教はもういちど祈りを繰り返した、聖歌隊の少年たちがそれに和し、墓掘り人夫たちは小さな棺を穴におろした、墓穴はただちに埋められた。霊柩車は司祭を乗せて走り去った。聖歌隊の少年たちも、大理石の墓窟の後ろへ引っ込み、草むらの中でムハの弁当を食いだした。あとには二人の墓掘り人夫と若い女中だけが残された、そして女中は、しばらく、墓と向かいあってとどまっていた、それは巣の中で囀(さえず)る雛たちを見守りながら、せわしない羽ばたきで支えられ、その技の高さのところに彼女を静止させる、その不思議な飛び方のなかで静止している鶯と同じ姿勢だった。」(『葬儀』ジャン・ジュネ 生田耕作訳 河出書房新社1980年)

 「タンク満杯「22年秋以降に」 東電試算、第1原発敷地の処理水」(令和3年1月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)