橋早春何を提げても未婚の手 長谷川双魚(はせがわそうぎょ)。たとえば、「早春に」、あるいは「早春の」、何を提げても未婚の手、とすれば、調子は滑らかになり、早春という季節の未婚の、恐らくは女の手の瑞々しさはすっきりする。が、長谷川双魚は、頭に橋という場所を加え、その橋は短い季節のその一時期の橋であるとした。橋は川の両側にある街を繋ぎ、その下を水が流れ、橋の上の四方は遮るものが何もない。この未婚の者はこれから橋の向こうのどこかへ行く、あるいは橋の向こうから戻って来たという移動の途中で、その手元に改めて目がいったのは、冬の間していた手袋のない素手をまだ空気の冷たい日の光に晒していたからであろう。「橋早春」というやや躓(つまづ)くような調子は、橋の上で偶然見かけた者への結婚前のつき合いの高揚した気分の表われである。この長谷川双魚の俳句を私小説(わたくししょうせつ)風に拾ってみれば、雪の降る前の桜の木にもたれ。秋風の吹くところにて婚約す。猫だいて妻の夏痩はじまれり。みごもりの咥(くわ)へぬぎして夏手套(なつしゅとう、手袋)。風邪の子が空泳ぐ魚あまた描く。橋早春何を提げても未婚の手。長谷川双魚は岐阜の出で、岐阜薬科大学の教員であったというから、この橋もその生活を見渡す目の内にあったのであろう。たとえば鴨川に架かる橋に思いを巡らせば、この句の舞台に荒神橋(こうじんばし)が目に浮かぶ。たとえば三条大橋寺町通三条京阪駅の間に架かり、四条大橋河原町通祇園八坂神社の間でどちらも繁華で人の通りが多く、団栗橋(どんぐりばし)と松原橋は車の行き来も頻繁でない落ち着いた橋であるが、飯屋飲み屋の並ぶ木屋町通と花街宮川町がその両側にあり、丸太町橋、御池大橋、五条大橋は車線が広い分だけ自(おの)ずと情緒は損なわれ、七条大橋は、西は中央卸売市場、瓦屋根の商店に昭和のアーケード、東は三十三間堂京都国立博物館とちぐはぐに街を繋いでいる。荒神橋は繁華な三条大橋から北に上がり、西に御所と鴨沂(おうき)高等学校、京都府立医科大学付属病院、東に京都大学薬学部と医学部がある。昭和28年(1953)当時西にあった立命館大学に、東京大学がその設置を取りやめた青銅像「わだつみ像」が設置されることになり、その歓迎に向かった京大生のデモが荒神橋で中立売署の警官と衝突し、木の欄干が壊れ、十数人の学生が川に落ちたことがあったという。学校病院の建つ街の佇まいの中に混じる独特の張りつめた空気は、終わる冬と始まる春の間の早春の時期に、最も強く感じるものかもしれない。橋の上で、未婚の者らはその冷たさの残る空気を胸深く吸うのである。洛中をすぎゆく風も朧にて 長谷川双魚。

 「ま、綺麗やおへんかどうえ このたそがれの明るさや暗さ どうどつしやろ紫の空のいろ 空中に女の毛がからまる ま、見とみやすなよろしゆおすえな 西空がうつすらと薄紅い玻璃みたいに どうどつしやろえええなあ ほんまに綺麗えな、きらきらしてまぶしい 灯がとぼる、アーク燈も電気も提灯も ホイツスラーの薄ら明かりに あては立つて居る四条大橋 じつと北を見つめながら。虹の様に五色に霞んでるえ北山が 河原の水の仰山さ、あの仰山の水わいな 青うて冷たいやろえなあれ先斗町(ぽんとちょう)の灯が きらきらと映つとおすわ 三味線が一寸もきこえんのはどうしたのやろ 芸妓はんがちらちらと見えるのに。ま、もう夜どすか早いえな お空が紫でお星さんがきらきらと たんとの人出やな、美しい人ばかり まるで燈と顔との戦場 あ、びつくりした電車が走る あ、こはかつた。ええ風が吹く事、今夜は 綺麗やけど冷たい晩やわ あては四条大橋に立つて居る 花の様に輝く仁丹の色電気 うるしぬりの夜空に。なんで、ぽかんと立つて居るのやろ あても知りまへんに。」(「京都人の夜景色」村山槐多『村山槐多詩集』彌生書房1974年)

 「深夜に強烈な揺れ、店内散乱 福島県震度6強、原発異常なし」(令和3年2月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「福島第1原発、第2原発 燃料プールの水あふれる」(令和3年2月14日 河北新報ONLINE・NEWS)