「七人の遊仲間(あそびなかま)のそのひとり 水におぼれてながれけむ。 お芥子(けし)の頭(かみ)が水の面(も)に うきつしづみつみえかくれ。 「よくも死人をまねたり」と 白痴(ばか)の忠太は手をたたく。 水にもぐりて菱の実を とりにゆけるとおもひしが。 人は家より畑より ただごとならぬけはひにて はしりて河にあつまりぬ。 人のひとりは小舟より 死骸を岸にだきあげぬ。 「死んだ死んだ」と踊りつつ 忠太は村をふれあるく。 白い衣きた葬輦(そうれん)が 暑い日中をしくしくと 鳥辺の山へいりしかど そは何事かしらざりき。ひとりは墓へゆきければ 七つの指を六つおりて 一つのこしてみたれども 死んでなくなることかいな いつか墓よりかへりきて 七つの桃をわけようもの。」(「七つの桃」竹久夢二『どんたく』実業之日本社1913年刊)人がひとり死ぬことは、ひとりがこの世から消えてなくなることではなく、七人で分けていた七つの桃が一つ残ることだ、と竹久夢二は云っている。「(自転車ごと川に落ちて死んだ)遼一の葬殮(そうれん)から一年が過ぎた旧の盂蘭盆に、暁夫は母に連れられて遼一の家へお参りに行った。誰も子供のいなくなった里見の家はひっそりしていた。━━その翌日、今度は遼一の母が、婆さまの初盆に、と言って、白桃を六つ抱えてお参りに来た。遼一の母が帰ると、暁夫の母は一個ずつ薄い紙に包まれたその白桃を検(しら)べるように手を取って、「うち家(ねえ)が持って行ったやつより上等や」と呟いた。暁夫が手を出そうとすると、母はその手を払い退けた。しかし母が試みに一つ、桃を包んた柔らかい紙を剥がして見ると、尻のところが腐っていた。慌てて次々に検べて見ると、全部同じような傷(いた)み方をしていた。」(「白桃」車谷長吉『鹽壺の匙』新潮社1992年刊)死んだ子どもの母親が盆の供えに持って来た六つの桃は、全部見えないところが腐っていた、というのが車谷長吉の小説のもの云いである。竹久夢二の「七つの桃」と繋(つな)げて読めば、この母親は七つあった桃の内の一つを己(おの)れの死んだ子に供え、残りの腐った六つを他所(よそ)の家の供えにしたのかもしれぬ。七つの桃の内、死んだ一つの桃だけがまともで、残りの六つは腐った桃であるのかもしれないのである。竹久夢二は大正五年(1916)、清水寺下の二年坂の二階屋に二カ月の間住んでいた。住み始めて一ヵ月後、すでに離婚をしていた元妻の岸たまきが東京で夢二との間に出来た三男を出産し、その三男は間もなく養子に出され、夢二は二年坂で二カ月過ごしただけで、坂を下ってすぐの高台寺の辺りに新たな住まいを見つけ笠井彦乃と生活を始める。が、大正七年(1918)、夢二は彦乃と別れ、東京に戻っている。彦乃が結核に罹ったからである。大正九年(1920)に彦乃は亡くなる。竹久夢二にとって二年坂の住まいは、たまきから逃れるための場所であり、彦乃を待つ場所でもあった。一月二月の寒さの中竹久夢二は、来ると限らない女を石段坂の二階屋で待っていたのである。いまも土産物屋として残るこの二階屋の建つ二年坂から産寧坂を上がって清水坂に出るのが清水寺へ行く道の一つであるが、松原通東大路通を過ぎて道が上りになれば清水坂であり、車であれば五条通から五条坂、あるいは五条坂から枝分かれの茶碗坂を上がって行く。あるいは南の淸閑寺から歌ノ中山の山道を辿る行き方もある。もう一つは、西大谷の墓地を通る道である。大谷本廟の門を潜ると、斜面一面に一万三千の墓石が建っている。竹久夢二の「七つの桃」に出て来る「白い衣きた葬輦(そうれん)が 暑い日中をしくしくと 鳥辺の山へいりしかど そは何事かしらざりき。」の鳥辺山が、この西大谷の墓地である。清水寺の寺下の南の外れに立って西大谷の墓地を見下ろしていると、墓地の外れの道を年の入った女と着物姿の女が上って来るのが見え、その二人の歩みは遅く、間近になって二人の姿は宮川町辺りの置屋の女将と舞妓のようにも目に映り、墓地から清水寺への上りの段を女将は舞妓の手を借りながら上って来て、「ほんまは遠回りなんやけど。」と、恐らくはずっと見ていたように映ったであろうこちらに聞こえるような声で舞妓に云い、舞妓は「ほんま咲いてはる。」と声を出した。上り段を上った先で、桜の木が一本咲いているのをそう云ったのである。女将は毎年どこよりも早く咲く桜の木のあることを知っていて、この日舞妓を連れてやって来たのであろう。ただしこの桜は、二年坂でもなく、松原通からでもなく、車で五条坂を上るのではなく、遠回りである西大谷の墓地を歩いて通って来た目で見なければならないのである。

 「暫くの間というもの、それまで一心に見守り、耳を傾けていたわれわれは、興奮の高みから急に放心したような状態にあった。ちょうど夢を見ていて、次に何が起きるか予め判っているような、それでいて、すぐに目が醒めるから、そんなことは問題ではないと思っているような状態だった。言わば、われわれは外部から物事の進行を眺めていて、時の範疇(はんちゅう)の外にあったのだ。」(「紫煙」ウイリアム・フォークナー 山本晶訳『フォークナー全集18 駒さばき』冨山房1978年)

 「東京電力社長、3.11取材拒否 福島来県せず、訓示はオンライン」(令和3年3月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)