水上勉に「椿寺」と題する一文がある。「椿寺は京都の北区一条通西大路東入ルの地点にある。大将軍西町というのがいまの町名になっているが、天神川からわずか西へいった南側に小さな瓦屋根の門があり、石畳の参詣道からすぐ墓地につき当る手前右手に、こぶりな庫裡と本堂がならんでいる。閑雅なまちなかの浄土宗派らしい雰囲気といえる。この寺が有名なのは、墓地の奥に加藤清正が朝鮮から持ち帰って、豊臣秀吉がこれを同寺に寄進したとつたえられる五色の八重椿があるからである。」(「椿寺」水上勉『日本の風景を歩く 京都』河出書房新社2000年刊)「椿寺」はこうはじまり、この寺をよく詣でていた上七軒の五十を過ぎたある芸妓が、自分に思いを寄せていた若い帯職人が織った五色椿の帯を締めてその年の上七軒の「北野踊り」に出たことで、この芸妓を囲っていた西陣の生地屋の旦那に縁を切られると、間もなく肝臓に癌が見つかり、その翌年春を待たずに芸妓は亡くなるのであるが、亡くなる前の一時期に帯を贈った帯職人と暮らしたことで、この芸妓の帯職人への思い振りが上七軒の噂になる。が、この芸妓には行方知れずの弟がいて、その帯職人を弟のように思っていたフシがあり、「あのひと、男はんを好きやったいうても、うちらの好きとべつの好きやったようなとこがおしたさかいな……それで、妖気のただようてたいうてますんでっしゃ」と、置屋の女将は水上勉に語る。「入院してまもなく多少の小康を得て、はつ枝(芸妓)は、マンションへ帰ってもいいと、医者にいわれたそうだが、帰らなかった。時に天気のいい日など、帰るふりをして白梅町から天神川にきて、北野の森を眺めたあと、椿寺を散歩して帰ってきた、と見舞いにいった品子(置屋の女将)にいったそうだ。」(「椿寺」)椿寺の五色の散り椿は、この芸妓が最後に見た年のあたりから枯れはじめ、いま植わっているのはその二代目である。大正十三年(1924)、十七歳の中原中也は年上の女優長谷川泰子と椿寺の南側にあった下宿屋で半年の間同棲している。中原中也は、実家のある山口の中学の三年の進級に落第し、医者の親から立命館中学に転校をさせられた身分だった。長谷川泰子は、大正十二年(1923)に等持院の境内に出来たばかりのマキノ映画製作所の大部屋女優だった。等持院の場所は、椿寺から歩いてすぐの嵐電北野白梅町駅から一つ目である。マキノ映画製作所は大正十三年(1924)、東亜キネマと合併し、東亜キネマ等持院撮影所となり、昭和八年(1933)に競売に掛けられいまは住宅地となっている。水上勉は「椿寺」を収めた『日本の風景を歩く 京都』の「あとがき」にこう書いている。「十三歳でこの瑞春院(相国寺塔頭)を出た。奥さまに良子さんが生まれ、そのおむつ洗いをさせられるのが嫌だったせいだ。ほかに原因があろうはずはない。十三歳で、天龍寺派等持院へうつった。等持院は、当時、小僧を募っていて、柳沢承碩という方が若狭の隣村の蓮生寺のご住職だった縁である。私の話をきいて、等持院へ世話したのである。等持院は東亜キネマのある寺で、足利家の菩提寺だった。尊氏公の墓もあった。十五代累代将軍の木像や尊氏公の墓地があるということで拝観寺院である。昔は観光とはいわなかった。足利尊氏国賊といわれた。当時の国史南朝にかたむいていたからである。国賊の墓を守る寺ゆえ、拝観客も少なくて、映画撮影ばかりしていた。等持院といえば一時映画の中心地だった。いわゆるチャンバラ物の中心である。河部五郎、羅門光三郎、小金井勝、嵐寛寿郎らがしょっちゅう来て撮影をやり、監督では、後藤岱山、山中貞雄石田民三衣笠貞之助らが有名だった。私は時にライト用の銀紙板をもって俳優さんの顔を明るくする仕事を手つだった。当時鈴木澄子、花井蘭子らは有名女優である。来ない日はなかった。そんな禅宗の寺の小僧があとで小説を書くような種子を植えつけられたのである。」その関係が長くは続かなかった中原中也長谷川泰子が椿寺の南の下宿にいたのは四月から十月の間で、椿寺の八重椿の花を見たかどうかは分からない。長谷川泰子等持院の撮影所に通っていたのは、水上勉が脱走した瑞春院から等持院に移る九年前である。天正十五年(1589)の北野大茶湯の催し後の寄進であったという椿寺の椿は、その四百年後水上勉の知る上七軒の芸妓が亡くなる前に目にしたのが、その花咲く最後の姿である。椿寺に、与謝蕪村を教えた夜半亭巴人(はじん)の墓がある。こしらへてあるとはしらず西の奥。これが巴人の辞世の句であるという。西の奥が西方浄土のことであれば、私のために用意してくれた、あるいは待っていてくれる浄土があるかどうかは死んでみなければ分からない、あるいは、私にこのような死ぬ時を誰かがこしらへていたのだということを今のいままで知らなかった、ということであろうか。あるいは、これまで生きて来たことのすべてがはじめから誰かの手によってこしらへられていたはずはないが、果たして己(おの)れの来し方が己(おの)れの手で本当にこしらへてきたものであったかどうか本当のところは私には分からない、どうであったか分からぬままこれから私は西の果てに行くのである。

 「批評家のひとりは、来るべきジャズはみんなこの新人の辿る道を辿ることになるだろう、と言っていた。ぼくは、ずうっと聞いていてもこのひとのやっていることを辿るのは容易じゃない、とわかっていた。かれは、楽器でとても奇妙な音をだしていて、かれのメロディーはというと、全体として憶えられるような何かあるひとつのものにピタリとあてはまらない切れぎれの断片でできているみたいに、聞こえるのだった。」(『ジャズ・カントリー』ナット・ヘントフ 木島始訳 講談社文庫1976年) 

 「福島県産「ためらう」1割未満 消費者庁の食品風評意識調査で初」(令和3年3月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)