氷店の一卓のみな喪服なる 岡本眸。天麩羅屋でもなく鮨屋でもなく、喪服を着た者らはかき氷を匙で掬って口に入れている。喪服を着ていても腹はへり、腹がへれば飯屋へも入る、がこの者らは喪服姿でかき氷を啜っている。夏のある日葬式か法事の帰り道で軒先に氷の旗が揺れているのを見、暑さに耐えかねていたその内のひとりかふたりが店で休もうと云った。日頃からおしゃべりのひとりが口を開き、いつまでもしゃべっていると横から、とけるから早く喰えと声が掛かる。これが家族であれば、ひとり足りないのは故人である。円山公園坂本龍馬中岡慎太郎銅像がある。坂本龍馬は立ち、刀を握って前に出した中岡慎太郎は傍らで片膝を立ててしゃがんでいる。このふたりが背を向けているその奥に東大谷の墓地があり、その方角からやって来たであろう七八人の喪服を着た四十から六十代の男女が坂道の途中から公園の中に下りて来て、ふたりの像の前で満開の花を咲かせている枝垂れ桜を取り囲み、それまで花を見上げていた者らは何となくこの者らにその場を譲るように、あるいはこの者らを避けるように片側に寄ったり、遠巻きに離れ、喪服の者らはそのことをことさら気にする様子でもなく、自分の携帯電話で桜を撮りはじめる。その中の誰かが声に出して云う、キレイ。花を後ろに黒い女を黒い男が写真を撮る。二三人が桜の前で並び、その表情はことさら明るいわけでもないが、屈託をぶらさげているような顔つきでもない。喪服の一団はそれから、公園の真ん中に植わっている祇園の夜桜の名で有名な枝垂れ桜の前に移動し、全員で並んで見ず知らずの者に携帯電話を渡し、写真を撮って貰う。消費という言葉の意味は、使ってなくすである。桜を消費する、という云いまわしをする者がいる。鼻につく云い方であるが、その者によれば、桜をめでる楽しむ、ではないのである。桜の花が枝から毟り取られ、誰かの口に喰われてなくなるのではない。誰も指一本花に触れたりはしない。が、桜は消費する者によって消費されるというのが、消費という言葉を振りかざす者の云い分であり、桜に限らず世にあるものは消費されるというのがその者の薄ら寒い云い分である。喪服の者らがかき氷を喰い終わる。ひとりが全員の分を支払い、その者の金はあと腐れなくかき氷に消費される。最後に席を立った者が、ガラスの器に差した匙と底に残っている緑色の水を見る。なぜ目がいったのか、その時は分からない。誰かが、見ろ、と云ったのかもしれない。誰かが、この時のことを覚えておけ、と云ったのかもしれない。

 「経験はあてにならない。すべてを経験できるなら、経験もあてになるかもしれない。だが、すべてを経験することはできない。経験とはそういうものだ。しかし、そんな経験のあてにならないところが好きだ、という人もあるだろう。また、あてにならなくても、経験以外になにがあるのか、という人も。」(「カント節」田中小実昌『カント節』福武書店1985年)

 「復興拠点、住民の7割「住まない」 浪江・津島地区アンケート」(令和3年4月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)