桂川に架かる松尾橋の東詰の空に、「罧原堤四条」という道路標識が立っている。「ふしはらつつみしじょう」と読み、四条通と交わる土手道が罧原堤である。元禄三年(1690)に出た『名所都鳥』の「堤之部」に「伏原堤、嵐山の麓頼業(よりなり)の社(清原頼業を祀る車折神社(くるまざきじんじゃ))西、大井川の東也。これより松尾に行なり。」とある。この堤の項にはもう一か所「小倉堤(宇治郡)、宇治の西の方より、大和路へかゝる堤なり。此の外所々の土手、おほくは堤という所おほし。」と載っている。『京都地名語源辞典』に載る「罧原町ふしはらちょう」にはこう記されている。「嵯峨罧原町と梅津罧原町は、堤防に沿いつつ北と南に隣接している。古代に大堰川桂川)に建設された罧原堤に因む地名である。罧原堤は、下嵯峨地域の南端から松尾橋に至る南北約一キロメートルの長さがあり、大堰川の水勢が強まる東側に建設されたものである。堤は葛野大堰(かどのおおい)とも呼ばれ、当地に渡来した秦氏により建設されたが、その年代は五世紀とも七世紀とも考えられている。この大堰の建設により従来の葛野川の名称が大堰川に変わったとされている。なお、フシは柴の古語、ハラは林の意味で、罧原は、柴を編んだ垣を立てて築き上げた堤を表していると思われる。」(『京都地名語源辞典』東京堂出版2013年刊)「罧原は、柴を編んだ垣を立てて築き上げた堤を表していると思われる。」とあるが、柴、雑木を編んで作った垣根で洪水を止めることが出来るはずはなく、これを堤の芯にして土を盛ったということであろうか。漢和辞典に載る「罧」の字は<罒、あみ>と<林、柴などの束>から成るとあり、「ふしづけ」とも読み、柴を水中に積んで魚を集め捕える仕掛けのことであるという。「ここから松尾橋までつづいた松並木は時代劇の海道筋(街道筋?)に利用されたものであるが、今は松もまばらに、どちらへカメラを向けても煙突、アンテナが視野に入って処置なしである。自分が最後にここで撮影したのは終戦直後で、出演中の守田勘弥丈の昼弁当を水谷八重子さんが届けにきて、いっしょに箸をつかっていた、和やかな情景がまだ眼にある。」(「罧原堤」伊藤大輔『続古都再見』河出書房新社1961年刊)この二年前の昭和三十四年(1959)に台風で罧原堤が決壊したという当時、映画監督の伊藤大輔が「まだまばらにあった」という松並木は、いまは見る影もない。が、「罧原堤四条」の標識の下から堤に沿って、店や人家やマンションの建つ右手を見ずに桂川を上って行けば、嵐山を背後に大きくS字にくねるその先に見えてくる渡月橋の景色には「都の堤」として選ばれた面影がまだ残っている。与謝蕪村に「春風馬堤曲」と題した十八首からなる「新体」歌がある。「馬堤」は蕪村の生まれ故郷である摂津毛馬の堤を指しているが、実際に足を運んで詠んだ歌ではなく、仏光寺通烏丸西入ル釘隠町に最後の住まいを定めていた蕪村は、名所であった「罧原堤」に故郷の堤の思いを重ねることがあったかもしれぬ。「余一日問耆老於故園。渡澱水過馬堤。偶逢女帰省郷者。先後行数里。相顧語。容姿嬋娟。癡情可憐。因製歌曲十八首。代女述意。題曰春風馬堤曲。春風馬堤曲 十八首 ◯やぶ入や浪花を出て長柄川 ◯春風や堤長うして家遠し ◯堤下摘芳草 荊与蕀塞路 荊蕀何妬情 裂裙且傷股 ◯渓流石點々 踏石撮香芹 ◯多謝水上石 教儂不沾裙 ◯一軒の茶見世の柳老にけり ◯茶見世の老婆子儂を見て慇懃に 無恙を賀し且儂が春衣を美ム ◯店中有二客 能解江南語 酒銭擲三緡 迎我譲榻去 ◯古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず ◯呼雛籬外鶏 籬外草滿地 雛飛欲越籬 籬髙堕三四 ◯春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ ◯たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に 三々は白し記得す去年此路よりす ◯憐みとる蒲公莖短して乳を浥 ◯むかしむかししきりにおもふ慈母の恩 慈母の懷袍別に春あり ◯春あり成長して浪花にあり 梅は白し浪花橋邊財主の家 春情まなび得たり浪花風流 ◯郷を辭し弟に負く身三春 本をわすれ末を取接木の梅 ◯故郷春深し行々て又行々 楊柳長堤道漸くくだれり ◯矯首はじめて見る故園の家黄昏 戸に倚る白髪の人弟を抱き我を 待春又春 ◯君不見古人太祇が句 藪入の寢るやひとりの親の側 余、一日(いちじつ)耆老(きろう、古い友)を故園(故郷)に問ふ。澱水(でんすい、淀川)を渡り馬堤を過ぐ。偶(たまたま)女(じょ)の郷に帰省する者に逢ふ。先後して行くこと数里。相顧みて語る。容姿嬋娟(せんけん、なよやかで美しい)として癡情(ちじょう、色欲の情)憐れむべし。因(よ)りて歌曲十八首を製し、女に代りて意を述ぶ。題して春風馬堤曲と曰ふ。◯やぶ入や浪花を出て長柄川(ながらがわ、新淀川の前身、中津川の旧称) ◯春風や堤長うして家遠し ◯堤より下りて芳草を摘めば 荊(けい)と蕀(きょく)路を塞ぐ 荊蕀何ぞ妬情なる 裙(くん)を裂き且つ股を傷つく ◯渓流の石點々 石を踏んで香芹を撮(と)る 多謝す水上の石 儂(われ)をして裙を沾(ぬ)らさざらしむ ◯一軒の茶見世の柳老にけり ◯茶見世の老婆子(ろうばす)儂を見て慇懃に 無恙(むよう)を賀し且つ儂が春衣を美(ほ)ム ◯店中に二客有り 能く江南の語(川の南の話し言葉)を解す 酒銭三緡(さんびん、一緡(さし)は銭百文のひとつなぎ)を擲(なげう)ち 我を迎へ榻(とう、腰掛)を譲りて去る ◯古驛(こえき、古い宿場)三兩家(二三軒の家)猫兒(びょうじ)妻を呼べど妻來たらず ◯雛を呼ぶ籬(まがき)外の鶏 籬外草地に滿つ 雛飛びて籬を越えんと欲す 籬髙うして堕つること三四 ◯春艸路三叉中に捷徑(しょうけい)あり我を迎ふ ◯たんぽゝ花咲けり三々五々五々は黄に 三々は白し記得す去年此路よりす ◯憐みとる蒲公莖短くして乳を浥(あませり) ◯むかしむかししきりにおもふ慈母の恩 慈母の懷袍(かいほう)別に春あり ◯春あり成長して浪花にあり 梅は白し浪花橋邊財主の家 春情まなび得たり浪花風流(ぶり) ◯郷を辭し弟に負(そむ)く身三春 本(もと)をわすれ末を取る接木の梅 ◯故郷春深し行々て又行々 楊柳(ようりゅう)長堤漸くくだれり ◯矯首(きょうしゅ、頭をあげる)はじめて見る故園の家黄昏(たそがれ) 戸に倚る白髪の人弟を抱き我を 待春又春 ◯君見ずや古人(古い友)太祇が句 藪入の寢(ぬ)るやひとりの親の側」私が古い友人を故郷に訪ねた日のことであるが、淀川を渡って馬堤を歩いていた時にたまたま出会った、同じ故郷に帰る途中だという奇麗で色気があって可愛い娘さんに成り代わって「春風馬堤曲」と題した十八首でその娘さんの気持ちを詠いたいと思う。◯待ちに待った藪入りで暇を貰い、店(たな)のある浪花をたって長柄川までやって来ました。 ◯春風が吹く堤に立つと、先が見通せるだけ家が遠く感じられます。 ◯河原に下りていい香りの草を摘んだのですが、意地の悪い茨の棘に着物の裾が破れ、腿にまで切り傷をつくってしまいました。 ◯今度は石を渡って水の流れのところまで行って、流れに浮かぶ石のおかげで裾を濡らさず芹を摘みました。 ◯堤に昔からある茶店の前の柳が、ちょっと見ないうちにひどく年老いたように見えます。 ◯茶店のお婆さんが私を見つけて駆け寄って来て、かしこまって私の無事を喜び、着物を誉めてくれました。 ◯店には川の南の話し言葉を話す客が二人いて、酒代を百文の結び銭三つで払って、私に席を譲ってくれました。 ◯家が二三軒建つだけの昔の宿場町で恋猫が恋人を呼んでいるのに、辺りに恋人はいないようです。 ◯草ぼうぼうの垣根の外から親鶏の呼ぶ声がしますが、雛たちはどうしても垣根を飛び越えることが出来ません。 ◯春草の繁る三叉路のうちの一番狭い道が私を迎えてくれる道です。 ◯辺りに白と黄色のたんぽぽが三々五々と咲き、去年通った時のことを思い出しました。 ◯懐かしくなってたんぽぽを折ると、土に残った短い茎の先から乳色の汁が浸み出て来ます。 ◯家が近づいて来ると、子どものころから可愛がってくれた母の愛情を思い出しました。母の懐にはいつでも春があったのです。 ◯春がまたやって来て、浪花の商家に奉公して来た私は、梅が白く咲くように街のおしゃれを身につけました。 ◯ですが、弟を故郷に残して三年を過ごした私の花は、しょせんは接木の梅に過ぎないのかもしれません。 ◯故郷はどこまで行っても春らしい景色で、柳の並ぶ長い堤の道がそろそろ下って来ました。 ◯なんとなくうつむいてしまっていた私が顔を上げた時、黄昏に染まった故郷の家をはじめて見ました。その戸口で、弟を抱いた白髪になった母が私をじっと待っています。ああ、春です、春です。 ◯あなたは古い友だちの太祇君が詠んだこの句を知っていますよね。藪入りで実家に戻って母親の隣りで寝る私の気持ちを思って下さい。この「春風馬堤曲」を詠んだ六十二歳の蕪村は、その前の年に一人娘を嫁がせている。が、翌年「むすめ事、先方爺々専ラ金まうけの事ニのみニ而、しをらしき志も薄く、愚意に齟齬いたし候事共多く候ゆゑ、取返申候。もちろんむすめも先方の家風しのぎかね候や、うつうつと病気づき候故、いやいや金も命ありての事と不便に存候而、やがて取もどし申候。」と知人に書き送り、嫁ぎ先から娘を己(おの)れの元に戻している。この出来事を踏まえれば、「春風馬堤曲」の娘に、そうであったならばと思いを込めた蕪村の一人娘の姿が重なるのである。安永五年(1776)十二月、蕪村の娘くのが嫁いだ相手は、西洞院通丸太町上ルの、三井の料理人柿屋傳兵衛である。昭和五十二年(1977)四月に、車谷長吉はこの者が初代の仕出し屋「柿傳」に下働きとして入り、半年で辞めている。三十歳で東京から故郷播州飾磨に帰り、二年間調理師専門学校に通って免許を取った後のことである。その五年後の昭和五十七年(1982)、小説「萬蔵の場合」が芥川賞候補になるが落選し、車谷長吉は店を転々として勤めた下働きの仕事を止め、再び東京に戻るのである。

 「しかし、すぐそのあと、はなはだ奇妙なことが起こった。馬を馬小屋にもどし、家路についたのだが、不必要なことは一語も言わなかった。ひどく多くのものが停止して微妙な平衡状態を保っている様子だった━━まったく空っぽな夏の空に夕闇が急速に寄せ、それに伴って、この惑星自体が沈んで行くような無音のスピードがその印象を強めたにちがいない━━沈黙せざるをえない雰囲気だった。ひと言でもしゃべれば宇宙の調子が狂ってしまうという感じだ。」(『旅路の果て』ジョン・バース 志村正雄訳 白水Uブックス1984年)

 「処理水「丁寧な説明を」 対策評議会、海洋放出に浜通り首長ら」(令和3年4月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)