雨やどりやがて立ちゆく遍路かな 清原枴童(きよはらかいどう)。この俳句の季語は遍路で、季節は春である。車谷長吉に『四国八十八ヶ所感情巡礼』と題する紀行文がある。「私はいま六十二歳である。六十歳の時、うちの嫁はん(高橋順子)の発案で船で世界一周旅行に行った。こんどもまた嫁はんが言い出しっぺで四国八十八ヶ所巡礼に来た。」(「お四国巡礼の記」車谷長吉四国八十八ヶ所感情巡礼』文藝春秋2008年刊)このような事の次第で、平成二十年(2008)二月十五日に阿波の第一番札所霊山寺から車谷夫妻の巡礼がはじまる。紀行文もこの日からはじまるのである、が、肝心の文章にかつてのような根気がない。「平成二十年二月十五日(金)快晴。空気が冷たい。━━四国巡礼ということを思い立つというのは、この女もまた死後、極楽へ行きたいという考えがあるのだろう。私は東京の家に独りぼっち放っておかれるのが厭だから、付いて来たのだった。孤独に堪えられない男なのである。さらに私は二十五歳の時から私小説(わたくししょうせつ)を書いて来て、身の周りの多くの人をさんざん傷つけて来たので、いまさら極楽へ行きたいという風なことは考えないのだが、生きている間に少しは謝罪したいという虫のいい気持があって、付いて来たのだった。私の小説のモデルになった人は、みんな怒っているのである。」「二月十八日(月)晴。冷たい日だった。きのう藤井寺から二つも三つも標高八百メートルほどの山を越えた。山の登り口に、焼山寺まで健脚の人、五時間、普通の人、六時間、足弱の人、八時間と書いてあった。朝六時に宿を出て、第十二番札所・焼山寺に着いたのは午後三時過ぎだった。山道はきのう降った雪が積もっていて、山のてっぺんでは十センチぐらい積もっていた。山道は凍結していた。ニ度も三度も雪道で転んだ。ために左足の膝を痛め、順子さんに膏薬を貼ってもらったが、下り坂になると、ずきずき痛んで何度も何度も立ち止ってしまった。順子さんはどんどん先へ行ってしまう。心細かった。今日も山道で一遍野糞をした。焼山寺の手前の「遍路転がし」と呼ばれる山道はきつかった。今夜の宿のおばさんの話では、午後三時過ぎになって予約を取り消す電話を寄こす客がいるとか。晩飯の用意はもう出来ているのに。こういう人は四国遍路に来ても、地獄へ行くに決まっている。」メモ書きの体裁を整えただけのような文である。「三月朔(土)━━今夜の宿の相客三人は、三人とも俗物だった。宿代が高いとか、途中の老麺(ラーメン)屋がどうだったとか、団体で来た時の方が楽しかったとか、言うことに品がなかった。何のためにお遍路に来ているのか。死ぬためではないのか。宿の女将さんの話。「健康、観光、信仰。」と嘯(うそぶ)いていた男が、途中の道で百姓のおじさんに呼び止められ、おじさんは鎌を持っていたので、身構えていたら、おじさんは懷から百五十円出して呉れたので、以後、泪が止まらなかったとか。」「三月四日(火)晴。午後雨。━━大阪で職を失ない、嫁に逃げられ、家も失ない、遍路に来た男。この男は乞食遍路で泊る宿もなく、人家で洗面器を借りて、道に立ち、お遍路さんにご喜捨を乞うのだそうだ。そうすると、一日一萬円ぐらい集まるとか。そしてまた大阪に戻り、また嫁を貰い、その嫁に逃げられ、また乞食遍路。さらに再び大阪に戻り、またまた嫁を貰い、また嫁に逃げられ、再度、乞食遍路。そういうことを一生くり返して、四国のどこかで野垂れ死にしたとか。このお遍路道では野垂れ死にする人が何人もいるのだそうだ。」「三月二十四日(月)快晴。━━今日は大岐(おおき)海岸という美しい浜辺を通った。ここの砂浜で、けさ宿の女将から頂いた焼きおにぎりを食べる。昨夜の宿は禁煙だったので往生したが、女将さんは親切な人だった。大岐海岸は波打ち際に、白砂と銀砂とが見事な幾何学模様を作っていた。印象が深い。」「三月二十七日(木)朝、晴。午後、曇り。夜、激しい雨。三原村から山道を越えて宿毛(すくも)の宿「米屋旅館」に入る。宿に着くまでは、家を一軒も見なかった。山道で一度、宿毛の田んぼ道で一度、合計二回うんこをする。宿毛の町はシャッターを閉めた店が多く、街路でバドミントンをしている人たちもいたが、活気がない。第三十九番札所・延光寺にお参りする。」「四月六日(日)午前中、曇天。午後、晴。ゆうべは隣室の男の鼾(いびき)がうるさくて、よく眠れなかった。古い宿なので、隣りとは襖一枚。━━午前中、鴇田(ひわだ)峠を越える。この峠道はいったん急峻を登り、また降りて、さらに急峻を登り降りするようになっていた。一番高いところで八百メートル。いったん急峻を降りたところの田んぼで、うんこ。午後、第四十四番札所・大宝寺にお参りする。お遍路の札所はこれで半分終わった。」「四月十五日(火)快晴。雲一つない。昼過ぎに横峰寺の山から西条に降りて来る。途中、石鎚(いしづち)山がくっきりと見えた。山の上に雪。山道でうんこ。山の色が季語に言うところの、山笑う。西条の郊外は蓮華畑、麦の穂が美しい。麦畑を過ぎて町に入ったところで、二ヶ月前、徳島県で足を引き擦りながら歩いていた順子さんに、足に巻くテープを下さった男の人にまた逢った。すると、こんどは手製の絵はがきを下さった。歩き遍路の人は。八割が足を痛めているとか。西条の小川の水は四国で一番の美しさだ。第六十四番札所・前神寺にお参りする。本堂は、お寺なのに神社のような建物だった。宿から片道二キロぐらい歩いて、床屋に行く。今日は播州で言うところの「天気が大きい。」ので、明日は雨だろう。」「四月十七日(木)曇天。━━今夜の宿に泊まっている夫婦者の妻が、こんなことを言うていた。「夫は待っている振りをして休んでいるんです。私がやっと辿り着くと、腰を上げて先へ行ってしまうんです。私は休んでいないから、そこで喧嘩になるんです。でも、夫は先へ行ってしまうんです。そういう人なんです。」「四月二十二日(火)晴。初夏というより夏日。歩くのは桜の頃が一番よい。━━第七十八番札所・郷照寺、第七十九番札所・高照院、第八十番札所・国分寺にお参りする。高照院の近くの「八十場(やそば)の水」という小さな池は、昔、京の都から流されて来ていた崇徳(すとく)上皇薨去(こうきょ)した時、京へ使いを出し、指示を待っている間、上皇の屍を浸けていた池だ。三十数年前、後藤明生さんといっしょに来たことがある。後藤明生さんも亡くなった。私はいつ死ぬのだろう。国分寺の境内の松が美しかった。」「四月二十八日(月)晴。朝食に大きな生卵が出る。割ると黄身が二つ。おばさんが「お大師さまと二人連れですよ。」と言うた。今日は第八十八番札所・大窪寺まであと三キロの宿「竹屋敷」まで歩く。━━夕食にお赤飯が出た。結願(けちがん)の前祝いなのだそうだ。」この巡礼の四年前の平成十六年(2004)、車谷長吉は二つの名誉毀損で裁判を起こされ、翌年、「凡庸な私小説作家廃業宣言」という一文を発表している。この後生前に世に出た小説は短篇集が一冊だけで、これが小説家車谷長吉の一つの区切りであり、このことで車谷長吉は自ら力の衰えの引鉄を引いてしまったのである。御室仁和寺の裏山成就山に、八十八ヶ所霊場がある。標高二百三十六メートル約三キロの山道に建つ、四国八十八ヶ所の札所の名をつけたお堂を一巡りすれば、本場四国の遍路と見なしてもらえるというのである。杉木立や雑木や竹藪の中の曲がりくねったセメントを張りつけた小道や崩れかかった石段の上り下りを行けば、先々に畳一枚二枚の大きさのお堂が現れて来る。シダが生い茂り、崖の岩に触れ、眺望がきくところでは足を止め、クロアゲハが舞い、頭上では鳥が鳴き交わしているが、山道の景色は行けども行けども代わり映えがなく単調であり、時にジョギング中の者に道を譲らねばならない。が、車谷長吉が二ヶ月半をかけた結願は、この裏山では三時間で済むのである。五月十七日が車谷長吉の命日である。

 「私が望んでいるのは、どんなものでもなにかが不意に起こるのを見られることです。どんなものでもというのは、すべてのものであって、これとかあれとかの特別なものではありません。問題は、なにかが突如現れるということなんです。けれどこのなにかを支配しているはずの法則は、まだそこにはないのです。」(『小鳥たちのために』ジョン・ケージ 青山マミ訳 青土社1982年)

 「コロナ禍生活…8割「原発事故後と重なる」中通りの9市町村調査」(令和3年5月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)