紫野大徳寺天正寺と書いた額がある。この字を書いたのは、第百六代正親町天皇(おおぎまちてんのう)である。天皇が書いたものであるから、正式には勅額である。これを正親町天皇に書かせたのは、豊臣秀吉である。が、この天正寺という寺は、この世に存在しない。豊臣秀吉天正十年(1582)十月、この六月に本能寺で自害した織田信長の葬儀を大徳寺で行った。その翌々年の天正十二年(1584)、秀吉は信長を祀る寺の造営を計画する。この寺の名が天正寺である。大徳寺の南西に隣る船岡山と辺り東西百間、南北百二十間をその予定地に、信長の菩提所となった大徳寺総見院の古渓宗陳が銭四千貫文でこの計画を任される。が、寺は建たなかった。天正十年十月の清洲会議の後、秀吉は山城国の京都に足場固めを始めるのであるが、天正十二年十月の天正寺発願の翌十一月、一戦を構えつつあった織田信長の子信雄(のぶかつ)との和解が成り、この翌年の七月に秀吉は関白になる。明智光秀によって堰き止められていた信長の流れが大きく秀吉に傾くのである。この流れを己(おの)れに引き寄せるために、信長を祀る寺の発願の口約束があったのではないかとする者がいる。そうであったから、信長の後継者となった秀吉は最早金のかかる天正寺を造る必要がなくなった。この翌年、秀吉は再び金のかかる方広寺大仏殿の造営に取り掛かるのである。そうであれば大徳寺に残る、無駄となった正親町天皇の勅額は勅額であるが故に、豊臣秀吉を語る何物かではある。船岡山の南西、西陣に櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)がある。『都名所図会』には「七の社」として載っている。「七の社は舟岡の南にあり。当社は染殿の后(第五十五代文徳天皇皇后藤原明子)の祈願により、三笠山の春日明神を勧請ましますなり。その後伊勢、石清水、稲荷、加茂、松尾、平野を併せ奉り、七の社と号す。また一説に洛の北に七野あり。内野、北野、柏野、蓮台野、上野、平野等の中に祭れる神なれば、しかいふとぞ。請願あるものは社前に砂を積みて三笠山の状をうつすなり。春日影向の椋の木もこの地にあり。」この「七の社」の前史では、この地に紫野斎院があった。斎院は加茂社に奉仕する斎王、未婚の王女皇女が住まう場所であり、『源氏物語』にその見物の場所取りで争う場面が描かれている加茂祭の斎王の行列はここから出たのである。櫟谷七野神社の由緒と称する文の後半にこのようなことが書かれている。「応仁・文明の戦乱時代、この七野あたりは細川勝元山名宗全が相対峙する戦場と化したため、社頭は殆ど灰燼に帰したのを、大内義興の台命あって永正九年(1512)二月、七野各社を高台の一所に集めて再興がはかられた。織田信長が遊宴のため社を麓に引き下ろし、その跡に高殿を建てて神域を穢したことが、後に豊臣秀吉に聞こえ、秀吉は山内一豊をして再建せしめた。その時、秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石は大名の家紋などが刻まれている。」応仁・文明の乱の後も足利、細川の跡目争いは続いていて、永正八年(1511)八月に起きた船岡山での戦いで大内義興のついた足利第十代将軍義稙(よしたね)軍が勝ち、義稙は再び京都室町におさまる。実力者大内義興の命で「七野各社を高台の一所に集めて再興がはかられた。」とするのは、一時期船岡山の高台に再建し、「織田信長が遊宴のため社を麓に引き下ろした」ところが、恐らくは元々あったいまの場所であり、「その跡に高殿を建てて神域を穢したことが、後に豊臣秀吉に聞こえ、秀吉は山内一豊をして再建せしめた。」とする由緒であるが、『寺院神社大事典・京都山城』(平凡社1997年刊)には出典は記されていないが、「織田信長が化野ヶ原(あだしがはら)に再建したが、明智光秀に討たれたため、神罰を恐れた豊臣秀吉が当地に戻したと伝える。」と記している。真贋の霞を払う術は持ち合わせていないが、信長は神罰を恐れず、秀吉は神罰を恐れたということである。が、『寺院神社大事典』も同じように記している「秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石は大名の家紋などが刻まれている。」という云いには、些かの疑問が残る。櫟谷七野神社はいまは人家に取り囲まれ狭まっているが、『都名所図会』に載る図の石垣の様はまったく同じである。二メートルほどの高さの石垣の上に、辺りの民家よりも小さな拝殿と本殿が建っている。この様を目にすれば、秀吉が神罰を恐れたとしても、「各大名に石垣の寄進を命じた」とするのは俄かには信じ難い。天正十四年(1586)、秀吉はこの櫟谷七野神社から南へ二キロ足らずの場所に、己(おの)れの住まう聚楽第を造り、後に子の秀次に住まわせ、秀次が謀反を責められ自害すると、秀吉は文禄四年(1595)に聚楽第を自ら解体してしまう。この時、聚楽第の建物や材の一部は各地に散って使われた。櫟谷七野神社の石垣は、聚楽第の資材の余りかこの解体の時のおこぼれであっても不思議ではない。竹村俊則が昭和五十九年(1984)に出した『昭和都名所圖會』に、このような記載がある。「江戸時代には庶民の崇敬を得ていたが、天明の大火に類焼し、社運は次第に衰微した。今は本殿と末社二宇があるのみで、すこぶる荒廃を極めている。」当時を知る者の話では、事の事情は詳(つまび)らかではないが暫くの間、至る所に落書きされ、ペンキが塗られ、罵詈雑言の紙が貼られていたという。であるが、この神社を知る者は忘れ難い思いに駆られるというのである。北の鞍馬口通からも、南の蘆山寺通からも、東の大宮通からも、西の智恵光院通からも奥に入り組んだ民家の並ぶ内にあって、トタン張りの社務所が建つ他の平地は綱で仕切った駐車場になり、水の出ない手水の石場は傾き、壊れた石灯籠はそのままで、神木と拙い字で書いた板をぶら下げたクロガネモチが、地面に寂しげな影を落としている。ある年代の者の子ども時代の遊び場が大人に穢され、それを洗い流したなれの果ての姿は、積み重なっていたであろう時代の垢までもついでの如くに落としてしまっているのであるが、「自ら」はこの地から流れ去ってはいない。人が去ってもこの地自身は去りようがない。この地に畏敬の念を持った豊臣秀吉には理由があるのである。

 「時間はこっちがいくら必死に走っても夢のように過ぎてゆき、耳をそばだてると、そのあいだずっと世間からはいろいろなことが聞こえてきたけれど、でも、やっぱり私たちがその話を信じたということにはならない。どんなたぐいのことかわかるでしょ。誰かさんのいとこがキング・マクレインを見たっていうの。綿と材木の元締めをしているコーマス・スタークさん、彼、ちょっと遠くまで出かけていくんだけれど、キングのうしろ姿を三、四度見たっていうの。一度はテキサスで散髪してもらってたって。森にいって、二、三発銃をぶっぱなす人があったりすると、これから先もずっと、そういったことをいつも耳にするでしょうよ。たいして意味があるかどうかはわからないけれどね。」(『黄金の林檎』ユードラ・ウェルティ 杉山直人訳 晶文社1990年)

 「宮城県の団体、処理水海洋放出に反対 「理解得られていない」」(令和3年6月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)