嵯峨小倉山の山裾に細長い姿の小倉池がある。東側の縁(ふち)を辿って南へ上がれば大河内山荘で、北に歩を進めれば常寂光寺の門前に出る。朝日が昇れば西の縁の小倉山を目指して光が射し込み、その日が中天を過ぎれば忽ちに陰って静まり返り、辺りの竹林が風に戦(そよ)いだりすれば不気味さを漂わせる池である。池の水の上一面をゆらゆら揺れる葉で覆った蓮が、いま白や桃色の花を咲かせている。蜻蛉をしづかにどけて蓮ひらく 金尾梅の門。朝日に照らされた蕾が開こうと微かに動いた瞬間、止まっていた蜻蛉がサッと飛んで行った。「どけて」という云いからは、蓮の花の大きさと高貴さのようなものが伝わって来る。が、極楽浄土の阿弥陀仏が池の縁から腕を伸ばし、開き始めた花弁(はなびら)に止まっていた蜻蛉を払ったのかもしれない。黄金の蓮(はちす)へ帰る野球かな 攝津幸彦攝津幸彦の句はどれも縄一筋で捉えることは出来ない。「黄金の蓮」は仏像の前に供えられた造花の蓮であろうか。その造花の蓮が活けてあるところへ「野球」が帰るとはどういうことか。確かに野球は、打者が球を打って本塁に還って来ることを目標にしている。が、本塁への生還は黄金の蓮が咲く極楽浄土にでも着いたような気分であるなどと生真面目に解釈をする必要はない。攝津幸彦の詠む句は、言葉のおかし気で馬鹿々々しい気分そのものの面白さであるのであるからである。小倉池の山裾の畔に御髪神社(みかみじんじゃ)という小さな社が建っている。昭和三十六年(1961)に理髪学校の教員だった児玉林三郎という者が建てたものであるという。ソ連ガガーリンボストーク1号に乗り込んで初めて地球を一周した年である。御髪神社が祀っているのは藤原采女亮政之(ふじわらのうねめのすけまさゆき)という髪結いである。第九十代亀山天皇の警護をしていた政之の父藤原基晴が宝刀「九王丸」を盗まれ、恐らくはそのことで失職し、基晴政之父子はその盗まれた刀探しの旅に出る。蒙古襲来に備えるために人が集まっていたという下関に父子は目星をつけ、政之は生活を助けるため新羅人から髪の結い方を習って下関で商売を始める。これが髪結いという職業の始まりであるという。後に政之は髪結い職人として鎌倉幕府に仕え、没後に従五位が贈られる。それで、基晴政之父子は肝心の「九王丸」を見つけることが出来たのか。これは見つかったとも見つからなかったともされている。が、後々世間に知れ渡ったことは、刀を見つけた父子の美談ではなく政之の髪結いの腕前である。政之は刀が見つからなくとも、己(おの)れの腕で飯が喰えるようになった。目的地、生きる場所は同じでも目的、生き方が変わったのである。平凡な蓮へ帰る野球かな。

 「眠れぬままに、私はここへ来て最初に腰を降ろしたときの眺望の印象を思ひ起さうとつとめてみた。しかし、もうそれは、それから後に移動した様々な地点の押し重なつて来る眺望の底に沈み込んで、搔き分けても搔き分けても、ふと掴んだと思ふ間に早や逸脱してしまつて停止をしない。私はもうここへ来てから長年暮しつづけて来たのと同様である。しかし、この忘却を払ひのけようとする努力は、私にとつてはこの山上の最初の貴重な印象に対する感謝であつた。」(「榛名」横光利一『筑摩現代文学大系 31 横光利一集』筑摩書房1976年)

 「心の不調リスク高く 県民健康調査、旧避難区域は全国上回る」(令和3年7月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)