夢窓疎石は、京都に二つの名庭を作っている。一つは天龍寺方丈の庭で、もう一つは西芳寺の庭である。建武元年(1334)、鎌倉にいた夢窓疎石は、前年に鎌倉幕府が滅び朝廷に政治を取り戻した第九十六代後醍醐天皇に請われ、南禅寺の住持に再任されると、その翌年には再び天皇に請われ臨川寺を開き、後醍醐天皇が亡くなった暦応二年(1339)、室町幕府評定衆の摂津守藤原親秀の勧請に応じて西方寺に入り、名を改めて西芳寺を開いた。天龍寺は、夢窓疎石後醍醐天皇に背いた足利尊氏に、後醍醐天皇の死の弔いのために建てさせた菩提寺である。足利尊氏の弟直義(ただより)が問うて夢窓疎石が答えた法話集『夢中問答』に、「萬事を放下(はうげ)せよと勧むる旨」と題した問答がある。「問。萬事と工夫と差別なくは、何が故ぞ教・禅の宗師の中に、多くは学者をすゝめて、萬事を放下し諸縁を遠離せよとしめし玉へるや。」日常の生活も所を限った修行と違いがないのであれば、どのような生活の態度をしていても悟りに向かうことが出来るというのであれば、禅やほかの仏教者はどうしていつも物を捨てよ、日常の物事に執着してはいけないなどと教えたりするのですか。「答。(前略)白楽天小池をほりて、其の辺りに竹をうゑて愛せられき。其の語に云はく、竹は是れ心虚しければ、我が友とす。水は能く性浄ければ吾が師とすと云々。世間に山水をこのみ玉ふ人、同じくは楽天の意(こころ)のごとくならば、実に是れ俗塵に混ぜざる人なるべし。或は天性淡泊にして俗塵の事をば愛せず、たゞ詩歌を吟じ泉石にうそぶきて心をやしなふ人あり。煙霞の痼疾(こしつ)、泉石の膏盲(こうもう)といへるはかやうの人の語なり。これをば世間のやさしき人と申しぬべし。たとひかやうなりとも若(も)し道心なくば亦(また)是れ輪廻の基なり。或は此の山水に対してねぶりをさまし、つれづれをなぐさめて、道行のたすけとする人あり。これはつねざまの人の山水を愛する意趣には同じからず、まことに貴しと申しぬべし。しかれども山水と道行と差別せる故に、真実の道人とは申すべからず。或は山河大地草木瓦石、皆是れ自己の本分なりと信ずる人、一旦山水を愛する事は世情に似たれ共、やがてその世情を道心として、泉石草木の四気にかはる気色を工夫とする人あり。若しよくかやうならば、道人の山水を愛する模様としぬべし。然らば則ち山水をこのむは定めて悪事ともいふべからず、定めて善事とも申しがたし。山水には得失なし、得失は人の心にあり。」中国の詩人白楽天は、庭に小さな池を掘って竹を植え、その景色を愛でていたそうです。心に虚しさを覚える時は竹を友とし、その人の本性が素直ならば水はその人を導く師となるのです、と詠っている。世の中にいる山や川の自然を模した庭を好んでいらっしゃる人で、楽天と同じような考えを持っている人であれば、その人は俗に擦れた人ではないはずです。あるいは生まれつき人つき合いが苦手で俗世間のことには興味がなく、一日中詩歌を詠み、自然に浸って口ずさんで心境を高める人がいます。この人たちは、病的な庭好きや庭作りに夢中になる人です。こういう人は、世にいう優雅な人と云っていいでしょう。ですが、このように俗世間から逃れているような人たちでも、菩提心を持たなければ、六道の輪廻に嵌まってそこから抜け出すことが出来ないのです。あるいは植えた木のざわめきや水音で目覚め、庭を前にすれば何もなく過ぎる一日が紛らわされ、修行の支えとなっている人もいます。この人たちは先に挙げた人のように世間によくいる庭好きの人たちとは違って、尊敬すべき人です。そうであっても庭を愛でることと修行を区別出来たからといって、本物の修行者ということは出来ません。あるいは山や河や大地や草や木や瓦石のような何の値打ちのないものまでも、すべてが己(おの)れ自身と変わるものではない、違いはないと考える人がひとたび庭を好きになることは、俗な振る舞いのようであっても、その俗にも見える思いをそのまま菩提心に繋げ、泉石草木、庭の自然を越えた本質に考えを巡らす人もいます。もしとことんそうであるならば、庭を愛でる仏修行者の手本とするべき人です。そうであれば、庭を愛で楽しむことは、していけないということではないし、それが修行に良いこととして人に勧めるということでもありません。庭そのものは良いわけでも悪いわけでもないのです。善悪はいつも人の心の中にあるのですから。直義の、普段の生活も修行であると考えるならばものなど捨てても捨てなくてもいいのではないかという問いに、庭で例えれば、云うまでもなく庭を好きになって庭作りに金をかけて愛でたとしても、それが修行の妨げになるわけではなく、悟りを得るかどうかは本人次第である、と夢窓疎石は説いたのである。西芳寺の庭は、すべて夢窓疎石の手に手によるものではなく、譲り受けた西方寺に手を入れた庭である。その元(もとい)は、寺の裏山洪隠山の山裾の起伏と湧き水である。夢窓疎石はこの山裾の一段上にあった、恐らくは不明死体を葬ったもう一つの寺穢土寺にもう一つの庭、洪隠山に築いた渡来人秦一族の墓の石を使って歴史上はじめての枯山水の庭を作った。が、山肌に剥き出しの岩を晒し目に荒涼と見えたかもしれぬその庭は、いまは樹が生え、苔が覆っている。下の心字の池を廻る樹の鬱蒼と立つ庭も、一面の苔である。嘉吉三年(1443)、来朝した朝鮮の通信使書状官、申叔舟(しん・しゅくしゅう)がその七月西芳寺を訪れ、後に「日本栖芳寺遇眞記」という一文を書き残している。「寺の中に渓流を林表に引き、之をめぐらして池となす。周囲三百歩許りなり。池の西に琉璃の閣あり。閣の北より行くに、橋ありて西來堂に通ず。橋の西は皆芙渠(ふきょ、蓮)を植ゆ、時まさに盛に開き、清風微に至り、幽香馥馥(ゆうこうふくふく)として鼻を擁す。橋の東南は則ち之なし。橋之が限隔をなすがごとし。西來堂の後軒を號して潭北(たんぽく)と曰う。渓流の經て潭に入るの處なり。奇岩恠(怪)石を以て、駢列(へんれつ、連なる)して之を激す。清冷愛すべし。試みにその源を窮めんと欲するに、則ち樹木篁竹(しょうちく、竹藪)、潝翳(きゅうえい、蔭に水音)蔽密(へいみつ、濃い闇)して、得て入るべからず。たゞ鏗然(こうぜん、美しい琴の音)、鏘然(しょうぜん、美しい水音)遠くして益(ますます)清く且つ清あるを聞く。湘南亭は池の心に居(すわ)りて、南邊に近し、亭の南にその堤を缺(か)き、以て池水を泄し、その悪を流す。小島有り、亭の左右に羅列して其の数四なり、皆松樹を植え、その枝葉を剪り、縦(ほしいまま)に若きを得ざらしめ、老枯者然たり。四面は嘉花異卉(き、草)を擁し、その枝幹も亦皆縄にて引きて、木にて之を支う、盤結交柯(ばんけつこうえ、曲がりくねった枝が交わり)欝(うつ、薄暗く)窺(うかが)うべからず。僧言う。春和の時に方(あた)れば群花齊く發(ひら)き、宿莽(しゅくもう、自生する草花)競い秀で。蒼然頴然(えいぜん、青々と瑞々しく)。錦の若(ごと)く、綉(しゅう、美しい刺繍)の若し。得て状すべからざるなりと。余之を聞き、惘然(もうぜん、がっかりする)として其に遭わざるを恨む也。池形縈回(えいくわい、すぐれた曲線)して稍(やや)長く、遂に橋を作りて其の腰を横絶し、以て池の東南に往來する者に便にす。橋に因(よ)りて閣有り。扁して邀月(えうげつ)橋と曰う、之に登れば怳(きょう、うっとりする)として長鯨に騎(の)りて溟渤(めいぼく、薄暗い波立ち)に浮ぶが如し。野鴨雙翼あり、方(まさ)に游泳し橋の東に自樂す。人を見れば驚き起ち、簷楹(えんえい、のきばしら)を掠めて西す。顧眄(こべん、見回す)之間、萬象旋繞(せんじょう、ぐるぐる飛び回る)し、悉(ことごと)く池の中に涵(ひた)す。水族に大なる者、小なる者、孤する者、潜りて昭(あきらか)なる者、往きて復る者、躍(とび)て水を出る者、隠れて藻にある者。龞(べつ)にして沙石に暴(さら)す者、能(だい、素早く)にして微泥に伏する者あり、千状萬態。みな目撃を逃れず。又、小艇二艘有り。繋ぎて琉璃の閣下に在り。輕棹を以て往來すべし。凡(およ)洲渚島嶼。回曲直達。天作地設の若(ごと)くにして、山人の閑營巧度之妙に出でざるなし。是に於て冠を投げ佩(はい、腰につけた物)を捐(す)て、襟を披(ひら)きて散歩す。清は以て煩(はん)を滌(そそ)ぎ、幽は以て慮を靜む。怡愉(いゆ、喜び楽しむ)散浪して、飛仙(仙人)を挟み蓬瀛(ほうえい、神仙が住む仙山)の上に遊ばんに擬せん。而(しこう)して忽(たちまち)に身の羇旅(きりょ)の中に在るを忘る也。俄にして斜陽西に隠れ、僕夫門に在り、驪駒(りく、黒馬)道に在り、遂に長老を釣寂の菴に捐(のこ)し、馬に上りて歸る。茫然として失う所あるが如し。」申叔舟がこの時に見た西芳寺の庭は青松白砂の作りであったが故に、目にしていない苔という言葉はこの文には出て来ない。申叔舟が訪れたその二十三年後に起きた応仁・文明の乱と西芳寺川の洪水によって西芳寺は荒廃し、洪隠山に西日を遮られる庭は、誰の手も入らぬまま次第次第に一面の苔に覆われていったのである。いま苔に覆われていないのは池の面だけである。陸に置かれた石にも池の淵の石にも池の中に並ぶ石にも、消えた建物にも夢窓疎石の意図があった。が、それらが苔に覆われれば、その意図もまた覆われ、それが久しくなれば、覆われた意図も久しくなる。が、緑色をした雪の融けない降り積もりのようにも見える苔であっても、この先融けてしまわないとはいえない。そうであれば夢窓疎石の手から遠く離れて久しいこの庭も途中の、仮の姿に過ぎないのである。泉石草木の四気は、人知を超えてうつろうものであるのであるから。

 「三木さんの行った後、蟬の鳴きしきった晩はついこないだの事の様に思われるが、それから既に十七年たっている。自分は不自由な明け暮れに歳を重ねて来た。もうこの頃は胸の中に縺れた様な、割り切れぬ物は何も残っていない。そう云う気持がいつかほどけて、片づかぬ物が片づいたと云うわけではなく、縺れ合ったなりに、片づかぬ儘に薄らいで、いつの間にか消えてしまった。蚊いぶしの火のぱちぱち撥ねる音に聞き入って、三木さんの出這入りに焦燥した昔は他人事の様に思われる。」(「柳検校の小閑」内田百閒『サラサーテの盤』福武文庫1990年)

 「福島県産米、放射性物質の抽出検査開始 郡山・県農業総合センター」(令和3年8月21日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)