落柿舎の建つところは、嵯峨小倉山緋明神町であるが、三度泊まったことのある松尾芭蕉が「落柿舎の記」という一文で「洛の何某去来が別墅(べっしょ)は下嵯峨の藪の中にして、嵐山のふもと大堰川の流に近し。此地閑寂の便りありて、心すむべき處なり。彼去来物ぐさきをのこにて、窓前の草高く、数株の柿の木枝さしおほい、五月雨漏盡して、畳・障子かびくさく、打臥處(うちふすところ)もいと不自由なり。日かげこそかへりて(かえって)あるじのもてなしとぞなれりけれ。」と記すように、向井去来が医者だった父親の遺産として引き継いだ元は商人の別荘だったという落柿舎は、下嵯峨川端村にあった。下嵯峨川端村は、頭に嵯峨のつく現在の朝日町、石ヶ坪町、伊勢ノ上町、梅ノ木町、折戸町、甲塚町、苅分町、北堀町、五島町、蜻蛉尻町、中通町、中丈町、中山町、罧原(ふしはら)町、明星町、柳田町に当たる。ほぼJR嵯峨野線桂川に挟まれた西を天龍寺、有栖川を東の境とする地域である。天明七年(1787)に出た『拾遺都名所図会』にはこのような記載がある。「近年、去来の支族俳人井上重厚、旧蹟に落柿舎を修補し、その傍にこの句(去来の「柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山」の句碑)を鐫(え)り、ここに建てて住まひし侍る。」落柿舎は元禄四年(1691)の芭蕉の二度目の滞在から二年後、老朽のため取り壊され、去来は新たに小さな庵を建てた。が、芭蕉を信奉する去来の分家者であった井上重厚は、その庵のあった下嵯峨にその正確な場所を見つけること出来ず、明和七年(1770)北嵯峨小倉山の麓山本村の弘源寺跡に数株の柿の古木があるのを見て喜び、ここに落柿舎を再興する。後に幾度か所有者の入れ替わりがあったが、これがいま目にしている落柿舎の元(もとい)である。芭蕉は「奥の細道」行から二年後の、元禄四年の落柿舎滞在の時の日記を残している。「元禄四辛未(しんび)卯月(四月)十八日 嵯峨に遊びて、去来が落柿舎に至る。凡兆(医師、芭蕉門人)、共に来たりて、暮に及びて京に帰る。予はなほ暫く留むべき由にて(滞在するように云われて)、障子つづくり(破れを塞ぎ)、葎(むぐら)引きかなぐり(草むしりをし)、舎中の片隅一間なるところ、臥所(ふしど)と定む。机一つ、硯・文庫、『白氏文集』『本朝一人一首』『世継物語』『源氏物語』『土佐日記』『松葉集』を置く(去来が揃えてくれていた)。ならびに、唐の蒔絵書きたる五重の器にさまざまの菓子を盛り、名酒一壺、盃を添へたり。夜の衾(ふすま)・調菜の物ども、京より持ち来たりて乏しからず。わが貧賤を忘れて、清閑に楽しむ。 十九日 午(うま)の半ば(正午)、臨川寺に詣ず。大堰川前に流れて、嵐山右に高く、松の尾の里に続けり。虚空蔵(法輪寺)に詣づる人、行きかひ多し。松の尾の竹の中に、小督(こごう、平清盛高倉天皇との間を裂かれた寵姫)屋敷といふ有り。すべて上下の嵯峨に三ところ(小督の屋敷といわれている場所が三箇所)有り。いづれか確かならむ。かの仲国(源仲国、高倉天皇の命で小督の隠れ家を尋ねる)が駒をとめたる所とて、駒留の橋といふ、このあたりにはべれば(いらっしゃったのであれば)、しばらくこれによるべきにや。墓は三軒屋の隣、藪の内に有り。しるしに桜を植ゑたり。かしこくも(惧(おそ)れ多くも)錦繍綾羅(きんしうりょうら、豪華な褥(しとね))の上に起き臥しして、つひに藪中の塵芥となれり。昭君村(漢の悲劇の後宮王昭君の生まれた村)の柳、巫女廟(楚の懐王が夢に見た巫山(ふざん)を祀った廟)の花も昔を思ひやらる。憂き節や竹の子となる人の果て 嵐山藪の茂りや風の筋。 斜日に及びて、落柿舎に帰る。凡兆、京より来たり、去来、京に帰る。宵より臥す。 二十日 北嵯峨の祭見むと、羽紅尼(凡兆の妻)来たる。去来、京より来たる。途中の吟とて語る。つかみあふ子供の長(たけ)や麦畠。 落柿舎は、昔のあるじの作れるままにして、ところどころ頽破(たいは)す。なかなかに、作りみがかれたる(洗練された)昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。彫り物せし梁(うつばり)、画ける壁も、風に破れ、雨にぬれて、奇石・怪松も葎(むぐら)の下にかくれたるに、竹縁の前に柚の木一本(ひともと)、花かんばしければ、柚の花や昔しのばん料理の間 ほととぎす大竹藪を漏る月夜。 (羽紅尼が詠める)またや来ん覆盆子(いちご、赤い苺のように)あからめ(紅葉した)嵯峨の山。 去来兄の室(妻)より、菓子・調菜の物など送らる。今宵は、羽紅尼夫婦をとどめて、蚊帳一張(ひとはり)に上下五人こぞり臥したれば、夜も寝(い)ねがたうて(寝苦しくて)、夜半過ぎよりおのおの起き出でて、昼の菓子・盃など取り出でて、暁近きまで話し明かす。去年の夏、凡兆が宅に臥したるに、二畳の蚊帳に四国の人臥したり。「思ふこと四つにして、夢もまた四種」と書き捨てたる(ふざけて書きなぐった)ことどもなど、言ひ出して笑ひぬ。明くれば、羽紅・凡兆、京に帰る。去来、なほとどまる。 二十一日 昨夜、寝(い)ねざりければ、心むつかしく(気分がすぐれず)、空のけしきも昨日に似ず、朝より打ち曇り、雨をりをりおとづるれば、ひねもす(一日中)眠り臥したり。暮に及びて、去来、京に帰る。今宵は、人もなく、昼臥したれば夜も寝ねられぬままに、幻住庵(大津国分にあった庵)にて書き捨てたる反古を尋ね(探し)出だして清書す。 二十二日 朝の間、雨降る。今日は、人もなく、さびしきままに、むだ書きして遊ぶ。その言葉、喪に居る者は、悲しみをあるじとし、酒を飲む者は、楽しみをあるじとす。「さびしさなくば憂からまし」と西上人(西行)の詠みはべるは、さびしさをあるじなるべし。また、詠める(西行がこう詠んでいる)。山里にこはまた誰を呼子鳥ひとり住まむと思ひしものを ひとり住むほど、おもしろきはなし。長嘯隠士(ちやうせういんし、木下長嘯子、歌人)の曰く、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑を失ふ」と。素堂(山口素堂、俳人)、この言葉を常にあはれぶ(口ずさむ)。予もまた、憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 とは、ある寺にひとり居て言ひし句なり。暮れがた、去来より消息す(手紙が届く)。乙州(おとくに、芭蕉門人)が武江(ぶかう、江戸)より帰りはべるとて、旧友・門人の消息ども数多(あまた)届く。その内、曲水(芭蕉門人)状(手紙)に、予が住み捨てし芭蕉庵の旧きを跡(深川)をたづねて、宗波(芭蕉がかつて旅で出会った旅僧)に逢ふ由。昔誰小鍋洗ひし菫草。 また、言ふ。「わが住む所、弓杖二長(ゆんづゑふたたけ、一丈五尺)ばかりにして、楓一本より外は青き色を見ず」と書きて、若楓茶色になるも一盛り。 嵐雪(芭蕉門人)が文に 狗背(ぜんまい)の塵に選られる蕨かな 出替わりや稚(おさな)ごころに物哀れ。 その外の文ども、あはれなる(しみじみとした気分になる)事、なつかしき事のみ多し。 二十三日 手を打てば木魂(こだま)に明くる夏の月 竹の子や稚き時の絵のすさみ 一日一日(ひとひひとひ)麦あからみて啼く雲雀(ひばり) 能なしの眠(ねぶ)たし我を行行子(ぎやうぎやうし、ヨシキリ)。 落柿舎に題す 凡兆(詠む) 豆植うる畑も木部屋(薪小屋)も名所かな。 暮に及びて、去来、京より来たる。膳所昌房(膳所(ぜぜ)の芭蕉門人)より消息。大津尚白(芭蕉門人)より消息あり。凡兆、来たる。堅田本福寺(第十一世千那、芭蕉門人)、訪ねて、その夜泊る。凡兆、京に帰る。 二十五日 千那、大津に帰る。史邦・丈草(芭蕉門人)訪ねらる。落柿舎に題す 丈草(詠む) 深く峨峰に対して鳥魚を伴ふ 荒に就き野人の居に似たるを喜ぶ 枝頭今欠く赤虻の卵(柿の実) 青葉(せいえふ)題を分かちて書を学ぶに堪へたり。 小督の墳(つか)を尋ぬ 丈草(詠む) 強(た)つて怨情を撹(みだ)して深宮を出づ 一輪の秋月野村の風 昔年僅かに琴韻を求め得たり 何処ぞ孤墳竹樹の中(うち)。 史邦(詠む) 芽出しより二葉に茂る柿の実(さね)。 途中吟 丈草(詠む) ほととぎす啼くや榎も梅桜。 黄山谷(宋の詩人)の感句 門を杜(と)ぢて句を覔(もと)む(詩作に励む)陳無己(ちんむき、宋の詩人) 客に対して毫(ふで)を揮(ふる)ふ秦少游(しんせういう、宋の詩人)。 乙州来たりて、武江の話ならびに燭五分の俳諧(蝋燭が五分燃える間に詠んだ連句)一巻。その内に、半俗(半僧半俗)の膏薬入は懐に 碓氷の峠馬ぞかしこき 其角(芭蕉門人)。 腰の蕢(あじか、竹かご)に狂はせる月 野分より流人に渡す小屋一つ 其角。 宇津の山女に夜着を借りて寝る 偽りせめて許す精進 其角。 申(さる)の時ばかりより風雨雷霆(らいてい、激しい雷)、雹の大なる、唐桃のごとく、小さきは、柴栗のごとし。大いさ三分匁(もんめ)あり。龍空を過ぐる時、雹降る。 二十六日 芽出しより二葉に茂る 史邦。 畠の塵にかかる卯の花 蕉。 蝸牛たのもしげなき角振りて 去。 人の汲む間を釣瓶待つなり 丈。 有明に三度飛脚の行くやらん 乙。 二十七日 人来たらず、終日閑を得。 二十八日 夢に杜国(芭蕉の愛弟子)がことを言ひ出だして、涕泣(ていきふ)して覚む。心神相交る時(気持ちや考えが入り混じって整理がつかない時)は、夢をなす(夢を見る)。陰尽きて火を夢見、陽衰へて水を夢見る。飛鳥髪をふくむ時は、飛べるを夢見、帯を敷き寝にする時は、蛇を夢見るといへり。『枕中記』(栄枯盛衰の夢物語)、槐安国(夢で見た蟻の国から思う栄達の儚さ)、荘周が夢蝶(荘子が夢で蝶になり、あるいは蝶が荘子という自分になったのかと思う胡蝶の夢)、皆そのことわり有りて、妙を尽さず。わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想散乱の気、夜陰の夢またしかり。まことに、この者(杜国)を夢見ること、いはゆる念夢なり。我に志深く、伊陽の旧里まで慕ひ来たりて、夜は床を同じう起き臥し、行脚(あんぎゃ)の労を共に助け、百日がほど影のごとくに伴ふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、その志わが心裏にしみて、忘るることなければなるべし。覚めてまた袂をしぼる(涙を流す)。 二十九日 晦日(つごもり) 『一人一首』奥州高館(たかだち)の詩を見る。高館は天に聳えて星冑に似たり 衣川は海に通じて月弓の如し その地の風景、いささか以てかなはず(詩ではこう詠まれているが、実際の景色とまったく違っていた)。古人といへども、その地に至らざる時は、その景にかなはず(昔の人が詠んだものであっても、その土地に行っていない人の詠んだものは、理想を詠んでいて現実と違う)。 (五月)朔(ついたち) 江州(近江)平田明照寺李由(第十四世住職)、問はる(来て下さる)。尚白・千那、消息あり。 竹の子や喰ひ残されし後の露 李由。 頃日(このごろ)の肌着身に付く卯月かな 尚白。 〔一字不明〕岐 待たれつる五月も近し聟粽(むこちまき端午の節句に粽を持って嫁が聟と一緒に里帰りする風習) 尚白。 二日 曾良芭蕉門人)来たりて、吉野の花を訪ねて、熊野に詣ではべる由。武江旧友・門人の話、かれこれ取りまぜて談ず。 熊野路や分けつつ入れば夏の海 曾良。 大峰や吉野の奥を花の果 曾良。 夕陽にかかりて、大堰川に舟を浮べて、嵐山にそうて戸難瀬(となせ、山間の急流)をのぼる。雨降り出でて、暮に及びて帰る。 三日 昨夜の雨降り続きて、終日終夜やまず。なほ、その武江の事ども問ひ語り、既に夜明く。 四日 宵に寝(い)ねざりける草臥(くたびれ)に、終日臥す。昼より雨降り止む。明日は落柿舎を出でんと、名残惜しかりければ、奥・口の一間一間を見めぐりて、 五月雨や色帋(しきし)へぎたる壁の跡。」(『嵯峨日記』)この時芭蕉は四十八歳である。この三年の後体調の急変で亡くなるのであるが、「奥の細道」行の前に深川の庵を手離して以来、芭蕉は住む所を無くしたが、寝る所も食い物の差し入れもあった。たとえば乞食坊主となった種田山頭火は物乞いをした。「鉄鉢の中へも霰」。辻に立って手に持った鉄鉢の中に恵んで貰ったのは米ではなく、空から降って来た霰である。「うしろすがたのしぐれてゆくか」は、芭蕉にはない孤独である。西に向けば常寂光寺の門に突き当たる小道から、畑地を挟んで向こうの、人の背丈よりも高く刈り込んだ生垣の上に見えるこんもりと林に囲まれた茅葺屋根が落柿舎である。門の内に見える軒下の壁に下がった蓑と笠は、去来が京から来ているという印であるという。落柿舎は近所の農夫らが集う去来の俳諧道場であった。前の畑地は外れの黄色い小花をつけた小豆の幾畝を除いて、いまは広々とした草の原である。そちこちで蟋蟀の鳴き声がしている。色の凋(しぼ)みはじめた叢から目を戻して見える、あの向こうの茅葺屋根が落柿舎である。が、あれは芭蕉の泊まった落柿舎ではない。が、門にその名を掲げる通り落柿舎であることは間違いないのであり、評論家保田與重郎が第十三世の庵主として名を連ねている紛れもない落柿舎なのである。こほろぎの遠きは風に消えにけむ 篠原 梵。

 「そしてあの細長い長崎の浦々の、数多い岬にかこまれた海水の銀色の明るさが、何かとてつもない大鳥が将(まさ)に飛立とうとして両翼を裕々と広げた感じで、この活気のない長崎の町に襲いかかるようだ。そうだ。それは鶴のような鳥であるかも知れない。然(しか)し大鳥の覆いかぶさりの感じには恐ろしさはなく、港を眺めれば、その港にはいって来る船の上の人々のかすかにときめく悦びを逆に感じ返すことが出来た。港から、長崎は外に向って開けている。そこから外の空気が長崎にはいって来た。いくつも岬のかげに落ちて行く西日によって、きらめいてはいたのだけれど。」(『贋学生』島尾敏雄 講談社文芸文庫1990年)

 「大熊の復興拠点、準備宿泊延期へ 除染後も一部基準超線量」(令和3年9月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)