その奥に下鴨神社が控えている糺(ただす)の森の一角にある河合神社の塀の内に、復元した鴨長明の方丈の庵がある。広さが約四畳半一間の小屋である。鴨長明下鴨神社禰宜惣官(ねぎそうかん)だった鴨長継の次男で、七歳で従五位下の身分になったのであるが、父の死の後の禰宜職を継ぐことが出来ず、歌会歌人・琵琶弾きとなり、後鳥羽上皇の推挙があっても欠員の出た河合神社の禰宜にも就くことが出来ず、新たに設けて貰った格下の「うら社」の禰宜職を断り、世捨人になる。承元二年(1208)、それまで過ごした大原から都の東南約七キロの日野の外山に建てたのが方丈の庵である。「すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心をなやませる事、三十余年なり。その間、折り折りのたがひめ、おのづからみじかき運をさとりぬ。すなはち、五十(いそぢ)の春を迎へて、家を出で、世を背(そむ)けり。もとより、妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何に付けてか執をとどめむ。むなしく大原山の雲に臥して、また五かへりの春秋をなん経にける。ここに、六十(むそぢ)の露消えがたに及びて、更に、末葉の宿りをむすべる事あり。いはば、旅人の一夜の宿を作り、老いたる蚕の繭を営むがごとし。これを中比(なかごろ)の栖(すみか)にならぶれば、又、百分が一に及ばず。とかく云ふほどに、齢は歳々に高く、栖は折り折りにせばし。その家のありさま、よのつねにも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひさだめざるがゆゑに、地を占めて作らず。土居(つちゐ)を組み、うちおほひを葺(ふ)きて、継目ごとにかけがねをかけたり。もし、心にかなはぬ事あらば、やすく外(ほか)へ移さむが為なり。その、改め作る事、いくばくのわづらひかある。積むところ、わづかに二両、車の力を報(むく)ふほかには、さらに他の用途いらず。いま、日野山の奥に跡をかくして後、東に三尺余の庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、北によせて障子をへだてて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢を掛き、前に法花経を置けり。東のきはに蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊棚をかまへて、黒き皮籠三合を置けり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張を立つ。いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。かりの庵(いほり)のありやう、かくのごとし。その所のさまを云はば、南に懸樋あり。岩を立てて、水をためたり。林の木近ければ、爪木を拾ふに乏(とぼ)しからず。名を外山と云ふ。まさきのかづら、跡うづめり。谷しげけれど、西晴れたり。観念のたより、なきにしもあらず。春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方ににほふ。夏は郭公(ほととぎす)を聞く。語らふごとに、死出の山路を契(ちぎ)る。秋はひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世をかなしむほど聞こゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。もし、念仏ものうく、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからおこたる。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独り居れば、口業(くごふ)を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、、境界なければ、何につけてか破らん。」(『方丈記』)父が死んでから三十余年、わだかまりが解けないままずっと息苦しい、生きた心地のしない世の中を我慢しながら暮らして来ました。その間にあった度重なる躓(つまず)きで、生れついた自分の運のなさを悟ったものです。そういうことでしたので、五十歳になるのを待って、出家をして世捨人になりました。そもそも私は妻も子もありませんし、縁を切って困るような親類もないのです。官職に就ていないので当然俸給もなく、ここに至って拘(こだわ)るものは何もないのです。大原の山の中で、思えば何もしないまま五年経ってしまいました。いま、皆の寿命の尽きる六十の歳の近くになって、旅の途中の者が夜になれば宿の寝床で休むように、死にはぐれた蚕であっても繭を作るように、私もこの世の最後を過ごす家を作ることにしました。三十前後に住んでいた家に比べれば出来た家はその百分の一の広さもありませんが。どんな言い訳をしても歳は毎年増えるのに、住む所は代わる度に小さくなってゆきます。見た目も世間の家からは程遠く、たった四畳半の一間に屋根の高さは七尺もありません。いつも仮り住まいのつもりなので、土地を買ったりはせず、土台を組んで立てた柱の上をざっと覆って、継目は全部金具で留めてあるあるだけで、もし気に入らなくなったらいつでも手間をかけずに引越すことが出来ます。もしそうなった時には、荷車二台分の荷物で、費用は運び賃だけで面倒なことは何もありません。日野の山の奥に隠れ住むようになったいまは、東に差した三尺ぐらいの庇の下を焚きつけの雑木置き場にし、南の縁には竹の簀子を敷いて、西に仏棚を吊るし、障子を張った衝立を挟んだ北の壁に阿弥陀普賢菩薩の軸を掛け、据えた台の上には『法華経』が置いてあります。東の内側は伸びた蕨を干して作った寝床で、西南に吊った竹の棚には歌書や楽書や『往生要集』を抜き書きしたものを入れた皮行李(こおり)が三つ置いてあり、その横に私がかってにをり琴やつぎ琵琶と呼んでいる琴と琵琶を一張づつ立ててあります。私の仮り住まいの内はざっとこんな感じです。この小屋の回りをついでに記せば、南側に湧き水から樋を伸ばし、立てた岩の下に水を溜めています。ここは外山と云って歩いてすぐの林に小枝はいくらでも落ちているので薪に不自由はしません。定家葛がいつも道を覆っていて、谷は木が繁っていますが、西側は見晴らしがよくて、西方浄土を願うのに叶った場所といえるかもしれません。春になると山の西にはたなびく雲のように一面美しい藤の花が咲き、夏にはホトトギスが「死出の田長シデノタサキ」と啼く声を聞くたび、あの世へ連れていって貰えそうな気がします。秋はひぐらしの声がそこら中から聞こえて来て、この世の儚(はかな)さを切なく思ってしまいます。冬は降り積もった雪が融けてなくなる時、人が犯した罪もこのように消えればいいのにと思ったりもします。たとえば念仏を唱えるのが何となくその気にならず、経にも身が入らない時は、そのまま休むこともあるし止めてしまうこともあります。そのことをとやかく云う人もいませんし、気を遣う相手も周りにはいません。ですからわざわざ無言行をしなくとも、周りに誰もいなければ口が災いになることもないのです。鴨長明平清盛のひと時の世が現れて消え、都が燃え失せるのを目の当たりにし、あるいは己(おの)れも世に躓(つまず)き世捨人となった口から出た言葉が、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、ひさしくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」である。ある時の都の様は、「道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。」また地震が起きれば、「山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわほ)割れて谷にまろび入る。」のである。「朝(あした)に死、夕に生きるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。不知(しらず)、生れ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる(どうして自分の家を見上げて喜ぶのであろうか)。その、主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或(あるい)は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。」家を持たなければ、燃えて無くなる心配もなく、妻子がいなければ死に別れて悲しむようなこともない。希望がなければ絶望もない、ということである。「必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らん。」とは、このことである。鴨長明は『方丈記』でそう書いた。が、「鴨社氏人菊大夫長明入道(法名蓮胤)、雅経朝臣の挙に依りて此の間下向す。将軍家に謁(えつ)し奉ること度々に及ぶ云々。」(『吾妻鏡』建暦元年(1211)十月十三条)日野の方丈に移り住んで四年後の建暦元年、世捨人鴨長明は蹴鞠の大家飛鳥井雅経と共に鎌倉に行き、第三代将軍源実朝(さねとも)と面談している。後に『金槐和歌集』を著す実朝に、指南の職を求めて行ったのである。が、その希望は叶わなかった。これが、人は河に浮かぶ泡のようであると達観しても歌人の職に縋(すが)った鴨長明という者の体臭であり、人間臭さである。五十七歳の鴨長明が失意に暮れ、鎌倉から京へ戻る長い道のりの後ろ姿を思うのである。

 「社会主義に絶望し、民族のルーツを探すために修道士の道を選んだのだと、遠回しに前置きしてから、急にどこにでもいそうな若者の顔になり、さして自信もなさそうにつぶやいた。「ここで、もう四年になります。欲しいものがない、ということにずいぶん慣れてきました」サバ修道士は別れ際に、翻訳を読んで小林一茶が好きになったと、罪でも明かすように私に告げた。」(『もの食う人びと』辺見庸 角川文庫1994年)

 「過酷な被災、伝え方模索 震災・原子力災害伝承館開館1年」(令和3年9月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)