「上がれますよ。」と、白髪頭で普段着に突っ掛けを履いている年の入った女が云った。女はリュックサックを背負ったマスク姿の中年の女と立ち話をしていた。いまどの辺りにいるのか見当はついているものの、通った覚えのない道に入って角を曲がると、向こうに朱塗りの鳥居が現れ、その奥に樹の枝の陰に伸びる石段が見えた。急に広くなる鳥居までの道は真っ直ぐで、両側に住宅が建て込んでいても参道の面影を残していることが分かる。二人の女は鳥居の傍らにいた。鳥居の下まで行って見上げても名を掲げた額はなく、左右に御寶前と刻んだ立派な石灯籠が立ってはいるが、案内をするものは何もなく、目につくのは不法投棄監視中と書いた看板だけである。いまその下には空き缶一つと潰れた弁当殻が散らかっている。石段の左右は石垣で固められその上に民家らしきものが建ち、上の方でやや傾く石段の先は樹で覆われていて見通すことは出来ない。「上がれますよ。」思わぬ言葉であったが、女は云い慣れたもの云いだった。山と名のつくこんもりと地面が盛り上がっているここがどこであるかは分かっているが、目の前の石段の道筋を知らないという顔に「上がれますよ。」と云ったのである。行き当たりばったりの途中で次の行く先を指さすうってつけの言葉である。乗って来た自転車を道の端に止めようとすると、「上に置いた方が安全ですよ。」とまた白髪の女が声を掛けて来る。道路ではなく鳥居の立つ石を敷いた一段上の敷地の内に上げるように云っているのである。緩く上っている石段は一つの段の幅が広く、足のつきように気を取られ、淡々と上がるという具合にはいかない。左手のさほど古めかしくはない一軒家の庭先で紫色の花が咲いている。この家の者の普段の出入りは恐らくこの石段だけである。右手にはびっしり住宅が建ち並んでいる。玄関前の道は人ひとりが通るほどの幅しかない。下から「上がれますよ。」と白髪の女の声が響いて来る。鳥居の下で帽子を被った若い女が石段を見上げている。立ち話をしていたリュックサックの女の姿はない。左の紫色の花が咲いていた一軒家から先は樹が生えているばかりで、右の廃品の山を回りに並べた廃屋のような一軒家の建つ辺りから両端にぽつぽつ生えはじめ、見上げる先の段はかなりの草で覆われている。花弁の斑が杜鵑(ほととぎす)の胸に似ているという開いた花からもう一つの花を載せたような薄紫色をしたホトトギスと、赤い粟粒のような花を細い茎につけているミズヒキが目に止まる。若い女が上がって来る気配はない。であれば白髪の女の云いには従わなかったということである。日の当たるブロック塀の前で芙蓉がまだ花をつけている。二メートル近い同じ茎の下の方では種になって萼(がく)が黄土色に干乾び始めていて、一度に子孫を失わないためのしたたかな身の振りなのであろうが、一本の芙蓉は己(おの)れの上で咲く花が下の老いて種になるのを見るのである。石段の左の枝陰に何かが動く気配があり顔を向けると、はじめは黒と白の二つの色がゆっくり動いていて、空いた隙に出たところで羽織と打掛と綿帽子の結婚式の裝いであると分かる。この二人のほかに人の動く姿はなく、話し声もしない。花嫁と花婿がこのように二人だけでいるのは式が始まるまで間があるのか、あるいは終わった後の時間をこうしているのか。石段を上がりながら同じように動いている二人の姿は枝の間から見えていたのであるが、枝の込んだ所を抜けると姿が見えなくなった。向きを変えて見えなくなったのであればこの神楽岡の地形の具合による出来事である。が、石段を上りきって見渡してみてもどこにも二人の姿は見当たらない。二人が歩いていたのは道のように平らなところで、奥に鳥居が立っている。道は三本ある。ここから上る山道と恐らく本殿に下る道と住宅地に出る道である。が、そのどれにも人影はない。目の前にあるのはその内には出入り出来ない吉田神社の斎場所大元宮である。二人は見渡しただけでは見ることの出来ない陰に入ったのか、そうでなければこの山に住む狐につままれたかだ。築地に囲まれた大元宮は八角の後ろに六角を継ぎ足した傾斜の深い茅を葺いた入母屋の奇妙な建物である。黒川道祐の『雍州府志』(貞享三年(1689)刊)にはこうある。「斎場所 吉田山に在り。始め神祇舘に在り。楼門の額に、日本最上日高日の宮の字有り。嵯峨の天皇の宸翰(しんかん)なり。太元宮元本八神殿の額は、後土御門(ごつちみかど)の院の宸翰なり。又、日本最上南太神宮の額、并(なら)びに、日本最上神祇斎場の額、及び、日本国中三千余座天神地祇八百万神の額は、共に清水谷家の筆なり。此の山に、清水谷有り。堂上、清水谷の称号は此の処に住する自(よ)り起これるものか。外宮、源の宮は宇気皇太神、幷びに、内宮、宗の宮は、天照皇大神也。外宮宗・内宮源の額は、妙善院従一位富子の筆なり。富子は、日野贈左府勝光公の兄、右小弁政光の女(むすめ)にして、贈太政大臣義政公の室、常徳院の内府義尚公の母なり。鎮魂八神殿、亦、神祇舘に在り。神祇舘は、古(いにし)え平安城宮内省に在り。則ち、今の二条所司の庁の西なり。茲(こ)れ自り、東山如意が嶽に移る。後土御門の院、文明十六年、吉田神楽岡に移る。八神は所謂、高皇産霊(たかみむすひ)の尊(みこと)、神皇産霊(かみむすひ)の尊、魂留産霊(たまるむすひ)の尊、生産霊(いくむすひ)の尊、足産霊(たるむすひ)の尊、大宮売(ひめ)・御膳津(みけつ)の神・事代主(ことしろぬし)、是れなり。此の八柱は、則ち、八州守護験神・八斎霊の命・八心府の神なり。故に、以って皇帝鎮魂の神とす。吉田卜部(うらべ)家、万事を主裁す。凡そ、二十二社の外、日本国に在る所の大社・小社の神職、皆、此の家自り令を下す。并びに官位等、之れを執奏す。中臣・卜部、元、同氏にして、天(あま)の児屋根(こやね)の命(みこと)の苗裔なり。天の児屋根の尊、天照太神の勅を奉じて皇孫を輔佐し豊葦原を治めたまう。是に於いて、三種の霊宝を以って皇孫に伝う。是れを王道の元とす。又、神籬(かみがき)正印を以って天の児屋根の命に伝う。故に、是れを神道の祖と為す。天の児屋根の命十二世の孫、雷大臣(いかずちおおおみ)の命、仲哀天皇の時、卜部の姓を賜う。十八世の孫、常盤の大連(おおむらじ)、卜部の姓を改めて中臣の姓と為す。二十一世、大織冠に至りて、中臣を改めて藤原氏とす。大織冠、朝家の為に、将に入鹿(蘇我入鹿)を誅せんとす。時に、事の難有らんことを思い、神道を以って其の従弟、右大臣清丸に伝う。清丸は意美丸の子、是れを大中臣と為す。清丸四世、平丸と曰う。又、姓を卜部に改む。之れに依って、吉田家、神道の長たり。」「吉田家、神道の長たり」というのが江戸の当時の吉田神道に対する認識である。これは室町の末に吉田兼倶(かねとも)が目指したことであった。藤原山蔭春日大社の四座を藤原氏氏神に勧請したことにはじまるのが吉田神社の元(もとい)で、神職に就いた卜部氏が後に吉田家となり、吉田兼倶は古来の教説に儒教真言密教道教老荘思想、陰陽五行説をごった煮の如くに取り混ぜ、虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)なるものを創案し、吉田神道こそが唯一であるとして、権謀術数の果てに宮中の神祇官に祀られていた八神殿までをも斎場所に移させ、日本中の神官を己(おの)れの息のかかったものとしたのである。が、明治政府は神道の長たる吉田神道を退け、伊勢神宮国家神道とするのである。『徒然草』を書き残した吉田兼好は、この吉田家に連なる者とされて来たが、まったくの出鱈目という言説もある。『徒然草』にこのような一文がある。「世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。」世間というものは本当のことが面白くないから話をでっち上げたりするのだ。「第七十三段 世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔りぬれば、言ひたきまゝに語りなして、筆にも書き止(とど)めぬれば、やがて定まりぬ。、道々の物の上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そゞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起さず、音に聞くと見る時とは、何事も変るものなり。かつあらはるゝをも顧(かへり)みず、口に任せて言ひ散らすは、やがて、浮きたることと聞こゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしまゝに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言は、恐ろしき事なり。我がため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮(せん)なくて聞きゐたる程に、証人にさへなされて、いとゞ定まりぬべし。とにもかくにも、虚言多き世なり。だゞ、常にある、珍らしからぬ事のまゝに心得たらん、万違(よろづたが)ふべからず。下(しも)ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏(ひとへ)に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。」世間に云いふらされている話の本当のことは面白くないからなのか、大体はでっち上げられた話である。大抵の人は本当のことよりも大袈裟に云ってしまっているのに、何年も経ってその場所からも遠ざかってしまえば、云いたいように話を作って、ご丁寧に筆をとって書き止められたりでもしたら、それが正しいことになってしまう。たとえばその道に秀でている者の凄さを何も知らない馬鹿者は、何も考えずに褒めそやしたりするが、達人はそんなことをちっとも有り難く思ったりはしない。話を聞くことと実際に見ることは、全然違うのだ。話す端から嘘がバレているのもかまわず口から出まかせを云っても、人の耳には嘘にしか聞こえない。たとえば、自分でも云っていることに自信がないまま、人から聞いた通りのことを何となく鼻の辺りをひきつらせながらしゃべったりしてしまうのは、その者がつこうとして嘘をついているのではない。適当に誤魔化し、いかにももっともらしく、それでいて詳しくは知らないなどと云いながらさも辻褄が合うようにしゃべったりするのは、聞いていてゾッとする。自分のことを褒めそやすような嘘に、人は目くじらをたてて止めたりはしない。たとえば皆がウケているような嘘に「そうじゃない。」と水を差すのもどうかと思って黙って聞いていただけで、自分も云ったように思われ、果てはいつの間にかそれが本当のことになってしまったりするのだ。何だかんだ云っても、世間には嘘つきが多い。だから大抵は嘘っぱちだと思って聞いていれば間違いない。耳を疑うような話をするのは決まって下らないヤツらで、まともな人はいいかげんな話などしないのである。こんな風に云っても、仏や神が絡んだ奇蹟やたとえば空海の伝記まで全部が全部嘘っぱちであるとするのも考えものである。これらのものは、世の中に出回っている嘘と同じように本気で信じるのも馬鹿げているし、「そんなはずはない。」と云っても何となく虚しさが残るので、大抵はそういうこともひょっとしてあるかもしれないと思いながら、かと云って真に受けず、決してはじめから疑って小馬鹿にするような真似だけはしてはならない。はてさてあの派手な衣装を身につけた二人はどこへ行ってしまったのか。それとも本当にまんまと狐につままれてしまったのか。耳を疑うような話をするのは「下ざまな人」であると兼好法師は云うが、神域での奇蹟は「まことしくあひしらひて、ひとへに信ぜず」であるか。

 「流れに渇きはいやしたものの、荒天二日上陸して三日、物を食べていない。欲も得もなく、枯草の中に倒れこみ、思えばなんたる身の不運、亡骸を楯にとって、恐ろしげな奴等をかわしはしたが、先き行き何の望みがあろう。あたら花の盛りを、六道絵は餓鬼草紙の如き浅間しき輩にまぎれ死ぬのか。しきりに只今の立場を自らに納得させよう、あっさり諦め舌でも噛んでひと思いにと願うが、主の心知らぬげにグウグウと鳴る腹の虫、せめて今生の思い出に、胃の腑ひゃくひろ張り裂けるほど食べてみたいと、年相応の欲が湧き、だが満目蕭条、季節にふさわしい木の実も、秋の稔りのかけらも見えぬ。」(「柩家代々」野坂昭如『乱離骨灰鬼胎草』福武書店1984年)

 「核のごみ反対の声にどう向き合う? 福島県高校生ら寿都(すっつ)町長に質問」(令和3年11月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)