枯芝にうしろ手ついて何も見ず 角川春樹京都府立植物園には広い芝地があり、いまはすっかり枯れていて、踏んで歩めば靴底からその独特の感触と匂いが伝わって来る。枯芝のあまり広くてかなしけれ 波多野爽波。このような感慨は、たとえば観客席から見ていただけのラグビー場のグラウンドにはじめて降りた者の思いかもしれぬ。枯芝に腰を下ろしたこの者は、何も見ていないという。が、目を開けている限り、その目には辺りの景色が映っている。この者のいる場所がこの府立植物園であれば、葉を落とした木立に目立って明るい赤い色の樹は、ホウである。あるいはこの者はいましがたまでその樹の下に立っていたかもしれぬ。ホウは風が通ると、掌に収まる大きさの三つ手の葉をひらひらと何枚かこの者の頭上に落とした。それからこの者は、十二月の植物園で咲いている数少ない花のひとつの皇帝ダリアを見たかもしれぬ。己(おの)れの背丈より数段髙い皇帝ダリアは、大きな薄い桃色の花弁(はなびら)を茎の先で揺らしていた。あるいは薔薇園でもいくつかの薔薇が咲いていて、オレンジ色で外側の縁が卵に血が混じったように赤いスヴニール・ドゥ・アンネ・フランクという薔薇の名に目が留まる。二年もの間秘密部屋に家族と隠れ住み、捉えられ強制収容所チフスに罹って十五歳で死んだ少女の名である。この少女は日記の中で、どこにもいないキティという人物に話し掛け続けた。あるいは吹けば飛ぶようなジュウガツザクラも見たかもしれぬ。そうであれば「枯芝にうしろ手ついて何も見ず」というこの者は、見て来た花と過ごした時間をその裏に持っている。あるいはこの者は植物園に入ってはみたものの花などには目もくれず、日の当たる枯芝の上でつかみどころのない幸福のただ中あるか、明日の不幸を思案しているのかもしれぬ。ラグビーのゴールを狙うスタンドオフが地面にボールを立て、ちぎった枯芝を宙に撒いて風を見る。数えて下がった位置から走ってボールを蹴る。ゴールが決まれば読みは正しかったのであり、外れれば読み間違いをしたのである。枯芝に紙飛行機の落ちて来し 佐々木美乎。「何も見ていない」視界を紙飛行機が横切った。それは枯芝からこの者が腰を上げるきっかけかもしれぬ。

 「それから雲が出て、その雲がピーツ・ミヒェルとティンツェンホルンの上空から東北方へすすみ、谷が暗くなった。それからどしゃぶりになった。その雨が不透明に灰白色になり、それへ雪がまじりはじめ、ついに雪だけになり、吹雪が谷をうずめ、その吹雪がいつまでもつづいたので、気温もぐっとくだって、そのためにふった雪が湿ったままで溶けずにのこり、谷は湿ったまだらな雪の衣をまとい、斜面の針葉樹の森を黒々と浮きださせた。」(『魔の山トーマス・マン 関泰祐・望月市恵訳 岩波文庫1988年)

 「英、福島県産食品の輸入規制撤廃へ 2022年春ごろの見込み」(令和3年12月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)