昨年の末に出たなかにし礼の短篇小説『血の歌』(毎日新聞出版)に、平成三十年(2018)四月に孤独死で世を去った森田童子が生れ出た時の様子が書かれている。なかにし礼が産婆を迎えに行っている間に、後に森田童子と名乗るなかにし礼の兄の次女、小説では「美納子」と書かれている中西美乃生は昭和二十八年(1953)(他の資料では昭和二十七年(1952)となっているが)1月15日に青森の自宅で生まれ、なかにしが産婆を連れて戻った時には寒い部屋で脱脂綿の山に埋もれていたという。終戦の年に父親を満州で亡くし、戻った小樽の自宅を抵当にして兄が金を注ぎ込んだ鰊漁の事業が失敗した中西一家は間もなく東京に移り、この姪が五歳の時、夏祭りで転んで箸が喉に突き刺さったアイスキャンディを口のまわりを血だらけにしながら舐めていた、ともなかにし礼は忘れがたい童子の様子を書いている。陸軍の特別操縦見習士官として戦争を生き延びた、女にだらしない十四歳年上の兄の姿を描いた『血の歌』は、「教師の恋」となっているが森田童子の「ぼくたちの失敗」が主題歌に使われたテレビドラマ「高校教師」を映しているテレビの画面をカメラで撮る童子の父、中西正一の姿からはじまっている。中西正一は森田童子として自分の娘が世に出る時、己(おの)れが実の父であると世間に名乗ることを弟なかにし礼から封じられ、この翌年の平成五年(1993)に亡くなるまでその約束を守らされた。森田童子のレコードデビューは昭和五十年(1975)である。その前の年、中西正一となかにし礼が重役をしていた芸能事務所にいた風吹ジュンをテレビ局から連れ出してホテルの一室に閉じ込め、引き抜きにあい事務所を移るのを翻意させようとして世間を騒がせたのが中西正一となかにし礼と、後に森田童子のマネージャーとなり夫となる社長の前田亜土であれば、森田童子は頑(かたく)なにその出自を伏せ、その回りも一切口を閉ざしたのである。森田童子、中西美乃生は十五歳から十九歳までなかにし礼と同じ屋根の下で暮らしていた。前妻と離婚したなかにし礼は、「知りたくないの」「恋のフーガ」「天使の誘惑」などの詞が当たり、昭和四十三年(1968)中野に百十坪の家を建て、そこに脳溢血の後遺症で半身不随となっていた母と中西正一の一家が移り住んだ。が、兄正一の度重なる事業の失敗で保証人となっていたなかにし礼は億の借金を背負い、その家も数年後には人手に渡り、ということの顛末を作りものとして書かれているのが平成十年(1998)の直木賞の候補にもなった『兄弟』である。生前になかにし礼が表に出さなかった出来の生硬な『血の歌』は、この『兄弟』の前に書かれたものである。書くきっかけとなったのは、ドラマ「高校教師」で使われた己(おの)れの姪が唄う「ぼくたちの失敗」である。正一の妻が介護をしていたなかにし礼の母が昭和五十二年(1977)に亡くなり、なかにし礼は兄正一と縁を切ったという。『兄弟』の終わりになかにし礼、中西禮三が口にするセリフはこうである、「兄貴、死んでくれて本当に、本当にありがとう」。「高校教師」がテレビで流れた平成四年(1992)、その十年前に芸能界から足を洗っていた森田童子は自分の曲が使われても再び表に出ることはなく、平成二十一年(2009)夫の前田亜土、本名前田正春に先立たれ、平成三十年(2018)に誰に看取られることもなく退院して戻った自宅で息を引き取るのである。十代の終わりに、結局世に出ず幻に終わった森田童子のファン向けの会報誌の編集に加わり、森田童子とも前田亜土とも幾度か言葉を交わした者としてその当時何も知らなかったことを思えば、この期に及んでこれらのことごとは、正月早々胃の中がどんよりするような何事かであった。大晦日から年を跨いで京都にも雪が降って積もったが、元日の晴れの日射しで午後には消えてなくなった。初雪や上京は人のよかりけり 蕪村。下京や雪つむ上の夜の雨 凡兆。

 「八重の桜も、色あせて、花のにぎわいはすでに無けれど、新緑に浮き立つ心は、犬猫ばかりならず、街道の往来もはげしく、茶店、旅籠、いずれもはんじょうの気色みえたり。われら五人のうち、死のくじ引き当てるは、ただ一人、残る四人は、無事生きのびて、蝦夷地に生業を約束されてあるといえども、各人、おのれこそ死すべきものと覚悟をかためてか、路傍の笑いさんざめき、すべて無縁のことと、さらに振り向くこともなし。ただ、佐々木源弥のみ、しきり出牢の夢を語り、あるいは蝦夷地の寂寥にふれるなどして、閑々たり。」(『榎本武揚安部公房 中央公論社1965年)

 「廃炉、新たな局面 22年にはデブリの試験的な取り出し」(令和3年12月31日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)