紫野大徳寺塔頭高桐院は細川忠興(ただおき)三斎が父藤孝幽斎の菩提寺として建てたもので、忠興の歯を埋めた墓には正室だったガラシャも祀っている。この同じ墓所に興津(おきつ)弥五右衛門という男の墓がある。京都町奉行与力神沢杜口(とこう)が書き残した『翁草(おきなぐさ)』によれば、興津弥五右衛門は三斎の三回忌に殉死したことになっている。が、森鷗外は、短篇「興津弥五右衛門の遺書」の書き足しに「翁草に興津が殉死したのは三斎の三回忌だとしてある。しかし同時にそれを万治寛政の頃としてあるのを見れば、これは何かの誤でなくてはならない。三斎の歿年から推(お)せば、三回忌は應安元年になるからである。そこで改めて万治元年十三回忌とした。」と記している。鷗外は、明治四十五年(1912)九月十三日明治天皇大喪の礼のはじまる弔砲を待って妻と殉死した乃木希典の九月十八日の葬儀に出た後に、この数日で書いた「興津弥五右衛門の遺書」の原稿を中央公論に手渡している。後に書く「高瀬舟」も『翁草』に載る話に依っているが、鷗外は二百巻千三百話が載る『翁草』からたまたま興津の話を見つけたのではなく、乃木希典の殉死から興津の殉死を思い出したのであり、僅か数日で書き上げたのはこれを書かずにいられなかったからである。その『翁草』の興津弥五右衛門の話の全文はこうである。「一、細川三斎(松向庵ト号ス、越中守忠興ノ事)は、武に於て最も世の許す(認める)所、其餘力(余技)には歌道を嗜(たしな)み、父幽斎の風流に、をさをさ(全く)劣らず、茶道に心を寄せ、優(まさ)にやさしき大将故(ゆへ)、長崎表異國船入津の折りからに、被地へ家來を遣はし、珍器を求めさせらる。一と年興津彌五右衛門と云士に、相役一人添て差越さるゝ處に、異なる伽羅(きゃら)の大木渡れり。本木(もとき、根に近い部分)と末木(うらき、先の部分)と二つあり、其のころ松平陸奥政宗伊達政宗)よりも唐物を調(ととのえ、手に入れる)ん為、役人下り居しが、彼(かの)伽羅の本木をせり合ひて、三斎の役人と互に勵(はげみ)て直段(値段)を付上る。興津が相役是を氣毒に思ひ、斯(かく)ては直段夥(おびただ)しく高値なれば、所詮同木の事なれば、末木の方にせんと云、興津は是非本木を調んと云募りて、口論に成り彼の相役を打果し(斬り殺し)、終に本木の方を調て、隈本(熊本)に歸り、右の段々を申達(しんたつ、文書で通達する)切腹を願ふ。三斎の云く、某(それがし)へ奉公の為に、相士を討し事なれば、切腹すべき謂(いはれ)なしとて、彼相士の子共を召れ、必ず意趣を遺すべからずとて、自身の前にて、興津と盃を申付られ、互に無事に勤仕せり。其の後三斎逝去あり、萬治寛文の頃、第三回忌の砌(みぎり)、彼彌五右衛門山城船岡山の西麓に於て潔く殉死す。大徳寺清宕和尚引導たり。今も右の山麓に、一堆の古墳残れり。此興津が調へ來りし伽羅は類ゐなき名香にて、三斎特に秘藏せられ、銘を初音と付らる。其の心は、きく度に珍らしければ郭公(ほととぎす)いつも初音の心地こそすれ 此歌によれり。寛永三年丙寅九月六日、二條の錦城へ主上後水尾天皇行幸の事有り。此の時肥後少将忠利(三斎の嫡子)へ、彼名香を御所望に仍(よ)り、則(すなはち)是を獻ぜらる。主上叡感有て、白菊と名付させ給ふ。たぐひありと誰かはいはん末匂ふ秋より後のしら菊の花 此歌の心とぞ、又仙臺中納言政宗卿(伊達政宗)は、役人梢を調へ來りしを大いに残念がられしかども、流石(さすが)名香の事なれば、常に是を賞して、柴船と銘せらる、世の中の憂を身につむ柴船やたかぬ先よりこがれ行らん 此歌の心成べし。其の名とりどりながら、皆心面白し。斯(かか)る所以(ゆえん)を知らぬ人は、白菊初音柴船は、唯同じ香とのみ覚候。或は小堀遠州の所持のよし色々異説を云人有り。皆誤なり。」(『翁草』巻六「細川家の香木」)数日で書いた「興津弥五右衛門の遺書」はこれを小説として形を整えたものであるが、鷗外は間を置かず数カ月後にこれを書き改めている。書き加えたのは興津弥五右衛門の祖父からの家系と切腹後の子孫のことと弥五右衛門の兄弟のことである。「弥五右衛門景吉の父景一には男子が六人あつて、長男が九郎兵衛一友で、二男が景吉であつた。三男半三郎は後作太夫景行と名告(なの)つてゐたが、慶安五年に病死した。其子弥五太夫が寛文十一年に病死して家が絶えた。景一の四男忠太は後四郎右衛門景時と名告つた。元和元年大阪夏の陣に、三斎公に従つて武功を立てたが、行賞の時思う旨があると云つて辞退したので追放せられた。それから寺本氏に改めて、伊勢国亀山に往つて、本多下総守俊次に仕へた。次いで坂下(さかのした)、関、亀山三箇所の奉行にせられた。寛政〔永〕十四年の冬、島原の乱に西国の諸候が江戸から急いで帰る時、細川越中守綱利〔忠利〕と黒田右衛門佐光之〔忠之〕とが同日に江戸を立つた。東海道に掛かると、人馬が不足した。光之〔忠之〕は一日丈先へ乗り越した。此時寺本四郎兵衛〔右衛門〕が京都にゐる弟又次郎の金を七百両借りて、坂下、関、亀山三箇所の人馬を買ひ締めて、山の中に隠して置いた。さて綱利〔忠利〕の到着するのを待ち受けて、其人馬を出したので、綱利〔忠利〕は土山水口(つちやまみなぐち)の駅で光之〔忠之〕を乗り越した。綱利〔忠利〕は喜んで、後に江戸にゐた四郎右衛門の二男四郎兵衛を召し抱へた。四郎兵衛の嫡子作右衛門は五人扶持二十石を給はつて、中小姓組に加はつて、元禄四年に病死した。作右衛門の子登(のぼる)は越中守宜紀(のぶのり)に任用せられ、役料共七百石を給はつて、越中守宗孝の代に用人を勤めてゐたが、元文三年に致仕(辞職)した。登の子四郎兵衛(右衛門)は物奉行を勤めてゐるうちに、寛延三年に旨に忤(さか)つて知行宅地を没収せられた。其子宇平太は始め越中守重賢の給仕を勤め、後に中務大輔治年(はるとし)の近習になつて、擬作髙(ぎさくだか)五十石を給つた。次いで物頭列にせられて紀姫(つなひめ)附になつた。文化二年に致仕した。宇平太の嫡子順次は軍学、射術に長じてゐたが、文化五年に病死した。順次の養子熊喜は実は山野勘左衛門の三男で、合力米二十石を給はり、中小姓を勤め、天保八年に病死した。熊喜の嫡子衛一郎は後四郎右衛門と改名し、玉名郡代を勤め、物頭列にせられた。明治三年に鞠獄大属(きくごくだいぞく)になつて、名を登と改めた。景一の五男八助は三歳の時足を傷(きづつ)けて行歩不自由になつた。宗春と改名して寛文十二年に病死した。景一の六男又次郎は京都に住んでゐて、播磨国の佐野官十郎の孫市郎左衛門を養子にした。」(「興津弥五右衛門の遺書」森鷗外『鷗外選集 第四巻』岩波書店1979年刊)弥五右衛門が切腹に至る件(くだり)はこうである。「某(それがし)熟(つらつら)先考(せんこう、亡父)御当家に奉仕(つかへたてまつり)候てより以来の事を思ふに、父兄悉く出格の御引立を蒙りしは言ふも更なり、某一身に取りては、長崎に於いて相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿(しようかうじどの、三斎)一命を御救助被下、此再造の大恩ある主君卒去被遊候に、某争(いか)でか存命いたさるべきと決心いたし候。━━正徳〔保〕四年十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院の墓に詣でて、船岡山の麓に建てられた仮屋に入つた。畳の上に進んで、手に短刀を取つた。背後(うしろ)に立つて居る乃美市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声を掛けた。白無垢の上から腹を三文字に切つた。乃美は項(うなじ)を一刀切つたが、少し切り足りなかつた。弥五右衛門は「喉笛を刺されい」と云つた。併(しか)し乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。」乃木希典の殉死に森鴎外は浮き足立った。殉死という前時代の亡霊を目の当たりにしたからである。それから己(おの)れが浮き足立ったことの意味を考えた。ほんの一時代前の主従の繋がりがもたらす社会の緊張に敬意を払い、失われたものを懐かしむように鷗外は浮き足立ったまま、続けて「阿部一族」を書いた。夏目漱石乃木希典の殉死は何事かであった。大正三年(1914)に書いた『こゝろ』は、語り手である「私」に「先生」が手紙の遺書を残して自殺する。その内容は、「先生」が密かに心を寄せていた下宿先の娘を幼馴染が好きになったことを知ると、先手を打つように自分の妻にし、幼馴染はそのことに衝撃を受け自殺してしまうが、彼が残した遺書には「先生」とその娘に関することは一切触れておらず、そのことが一層「先生」を苦しめ、仕事にも就かず腑抜けのように生きて来たのである。が、「━━すると夏の暑い盛りに明治天皇崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終わつたやうな氣がしました。最も強く明治の影響を受けた私(わたくし)どもが、其後に生き殘つてゐるのは必竟(ひつきやう)時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻(さい)にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、では殉死でもしたら可(よ)からうと調戯(からか)ひました。私は殉死といふ言葉を殆ど忘れてゐました。平生(へいぜい)使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘(まま)、腐れかけてゐたものと見えます。妻の笑談(ぜうだん)を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積(つもり)だと答へました。私の答も無論笑談に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持がしたのです。それから約一ヶ月程經ちました。御大葬の夜私は何時(いつ)もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後で考へると、それが乃木大將の永久に去つた報知にもなつてゐたのです。私は號外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だと云ひました。私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以來、申し譯のために死なう死なうと思つて、つい今日迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんの死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年の距離があります。乃木さんは此三十五年の間死なう死なうと思つて、死ぬ機會を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方(どつち)が苦しいだらうと考へました。それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能(よ)く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右(さう)だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は箇人の有(も)つて生れた性格の相違と云つた方が確(たしか)かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で己(おの)れを盡(つく)した積(つもり)です。」(『こゝろ夏目漱石漱石全集 第六巻』岩波書店1966年刊)漱石も浮き足立ったのである。が、漱石は浮き足立った気持ちを冷静に理屈で鎮めようとしたのである。昭和が終わった時、テレビから笑いと音楽が消えレンタルビデオ屋に人が列を作ったが、誰も浮き足立たなかった。平成が終わった時には笑いも音楽も消えなかった。高桐院の客殿の南面の庭には池も一個の石もなく、平らに苔むし、奥の築地を手前に生えた竹と太からぬ木立の群れが影のように見せ、髙からぬ心細い太さの楓がぽつぽつとこちらに向かうように立っている。この竹と木立ちと楓を従えるように庭の中心にあるのは丈の低い石灯籠である。あるいは石灯籠はこれらの木々に守られているのかもしれぬ。客殿から大きく見上げるこの竹と木立ちは手入れによって飼い慣らされた様子でなく、一線を越えるかもしれぬ向こう側の集団の佇まいで、秋の終わりにはこの群れを背景にそちこちの楓が紅く色づくのである。五十メートルあるという中門から玄関前の唐門までの真っ直ぐな敷石の道の両側もこの庭と同じ苔の地に竹と木立ちであるが、柵と生垣の直線の刈り込みは人の存在に従った景色で、「見せる」ことに徹したようなやや息苦しい美意識である。

 「もし同時には両立するはずがない複数の空間が、にもかかわらず同時に与えられたとき、その「非現実性」を矛盾なく解消するために、時間的な秩序が要請されるようになるのは予想されるとおりである。すなわちその二つの空間は時間的に隔たっている。それを空間的に言い直せば、この二つの空間は同時に立つことはできない「拡がり」としてある。時間という観念はこうした根源的な隔たり、差異から生み出され、言いかえれば、この隔たりにおいてこそ時間と空間は一つに結びつく。空間の発生と時間の発生は同時である。」(『ルネサンス 経験の条件』岡崎乾二郎 文春学藝ライブラリー2014年)

 「汚染水1日当たり150トン 福島第1原発、21年1年間の発生量」(令和4年1月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)