「節分の翌日が立春で、大槪二月四日の年と五日の年と、二年づつ續けて來る。未だ中々寒いが、禪寺等では立春大吉の札が門に貼られどこやらに春が兆す。陰暦によつた昔は立春卽ち新年で、元日のことを今朝の春・今日の春などといつたものであるが、今ではさういふ言葉は元日の方に讓つておいて、單に春立つとか立春とかいふべきである。」(『新歳時記 增訂版』虚子編 三省堂1951年刊)春立ちてまだ九日の野山哉(かな) 芭蕉立春の園芸店は旗立てて 佐々木平一。はきはきと物言ふ子供春立ちぬ 山田みづえ。春立つや障子へだてしうけこたへ 久保田万太郎。服地裁つ妻に夢あり春来つつ 伊東宏晃。カレンダーの巻きぐせ未だ春立てり 嶋田麻紀。生まれ育った実家の玄関奥の八畳間の壁に、幾つものカレンダーがぶら下がっていた。商(あきな)いのつき合い先に義理を立ててそうしているというのであるが、炬燵(こたつ)から見るその幾つかのスソは確かに反っていた。立春の米こぼれをり葛西橋 石田波郷。この句には昭和二十一年の句という説明がいる。葛西橋は荒川に架かり、東京から見るその先は千葉である。戦争に負けた翌年のこの橋の上にこぼれている米は、恐らく買い出しの米であろうという。どうにか年を越すことが出来た者らの目に映る僅かばかりのその米は、皆が死に物狂いで手に入れていた米の名残りである。妙心寺道に玉子だけを商う古びた小さな店があり、その店先で白い上着を着た若い女が年の入った店の者から大きな深皿に入れて貰った十ほどの赤玉を抱え、小走りに去って行った。寒玉子は冬の季語であるが、このささやかな光景の深皿の中の玉子は立春の玉子である。あるいは、西陣浄福寺通寺之内西入ルの称念寺(しょうねんじ)は猫寺とも呼ばれ、寺之内通の民家の囲いに下げたその小さな案内板に惹かれ、門を潜った人気のない敷地を人の車置きに貸している、掃除の行き届いたそう古くない小ぶりな本堂の南の濡れ縁に昼下がりの日が差しているのを見れば、ここも立春の寺であろう。門前の駒札にはこう記されいる。「本空山と号する浄土宗知恩院派の寺である。慶長十一年(1606)に現在の茨城県土浦城主・松平信吉が師僧の嶽誉上人のために建立した。当寺に葬られた松平信吉の母が徳川家康の異父妹であったことから、徳川定紋三つ葉葵を寺紋としている。三代目住職のころには、寺は松平家と疎遠となり次第に荒廃した。寺伝によれば、この三代目住職は猫好きであったが、寺が貧窮しているにもかかわらず、ある夜、愛猫が美しい姫に化身してのん気に舞を舞ったことに怒り、この猫を追放した。ところが、数日後、猫は住職の夢枕に立って松平家と復縁を取りつけたことを告げ、住職に報恩し、寺は立派に再興したという。以降、寺では猫の霊を厚く守護しており、本堂前の老松はその愛猫を偲び、伏した猫の姿になぞらえて植えられたものであるといわれている。京都市」満月の下で舞を舞う姫の障子に映るその影は、見れば手拭いで頬被(かむ)りした猫の姿をしていて、丁度この時松平家では死が迫った姫が臨終の後は称念寺で葬儀を執り行うよう遺言したのだというのである。頬被りして舞ったこの猫は、命懸けで松平家の姫に乗り移ったのである。何事もなくて春たつあしたかな 井上士朗。

 「たとえば川上村の井光(いかり)は、吉野川を見おろす高い尾根の上にあるが、かつてそのあたりには、しっぽのある人間━━すなわち、有尾人(ホモ・ユウダツス)が住んでいたということだ。その有尾人は、不意に竪穴のなかから出現して、東征の途中にあった磐余彦(いわれひこ)の一行を、ギョっとさせた。」(「力婦伝」花田清輝花田清輝全集 第十五巻』講談社1978年)

 「フクシマ・デリシャス」発信 海外向け動画コメ、あんぽ柿編」(令和4年2月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)