結核に罹り昭和二十二年(1947)に三十三歳で亡くなる流行作家織田作之助がその前の年、京都日日新聞に「それでも私は行く」という奇妙な題の小説を連載している。その書き出しはこうである。「先斗町と書いて、ぽんと町と読むことは、京都に遊んだ人なら誰でも知っていよう。しかし、なぜその町━━四条大橋の西詰を鴨川に沿うてはいるその細長い路地を先斗町とよぶのだろうか。「ポントというのはポルトガル語で港のことだ。つまり鴨川の港という意味でつけた名だと思う」とある人が説明すると、「いや、先斗町は鴨川と高瀬川にはさまれた堤だ。堤は鼓だ、堤の川(皮)はポント打つ。それで先斗町という名が出たのだろう。小唄にも(鼓をポント打ちゃ先斗町)とあるよ」と乙な異説を持ち出す人もある。鼓がポンと鳴れば、やがて鴨川踊だ、三階がキャバレエ「鴨川」になっている歌舞練場では三年振りに復活する鴨川踊の稽古がそろそろはじまっていた。「君の家」の君勇は稽古に出掛けようとして、「…通り馴れたる細路を…」と昔、はやったが今はもう時代おくれになってしまっている鴨川小唄の一節を、ふと口ずさみながら、屋形の玄関をガラリとあけて出た途端、「あらー」と、立ちすくんだ。路地の奥から出て来た、まだうら若い美貌の学生の姿を見つけたのだ。」(『定本織田作之助全集 第六巻』文泉堂出版1976年刊)織田作之助先斗町界隈を舞台にした軽薄なドタバタ小説をこのようにはじめているのであるが、ここにあるように先斗町は通り一帯の名で先斗町という町名はない。安永九年(1780)に出た『都名所図会』には次のように記されている。「先斗町は鴨川の西岸、三条の南なり。川辺には水楼の如く軒端をつらね、坐(ゐながら)にして洛東の風景を賞し、酣歌の英客(かんかのえいかく、酒を飲み上機嫌で歌う人)こゝに群す。」角川書店版『都名所図会』の校注者竹村俊則はその注にこう書いている。「先斗町とは北は三条通の一筋南より、南は四条通まで、東は鴨川に臨み、西は高瀬川に沿うた木屋町通の間をいう。南北五〇〇メートル、東西五〇メートル余の細長い街衢(がいく、まち)で、京都市内の花街の一つである。もとこの地は鴨川の洲であったが、寛文十年(1670)に護岸工事を行なって、石垣を築き、洲を埋め立てて宅地とした。まもなく人家が建ち始めたが、それらはすべて川原に臨む片側のみで、あたかも先ばかりあったから先斗町と呼ばれたという。一説に先斗はポルトガル語のポント、英語のポイントにあたり、いずれも先を意味する。この地があたかも川原の崎であったから、その頃世上に流行した「うんすんかるた」などによってかかる外来語をもじったのだろうともいわれ、諸説あって明らかでない。因みにこの地に水茶屋がはじめて設けられたのは正徳二年(1712)のごろで、次いで文化十年(1813)に芸妓渡世が認められた。爾来幾多の変遷を見て今日に至っている。」(『新版都名所図会』角川書店1976年刊)この「幾多の変遷」を、大正四年(1915)に出た『京都坊目誌』はやや詳しく記している。「先斗町遊郭 地は鴨川護岸に沿ふて、新河原町通三條一筋以南に起り、橋下町、若松町、梅ノ木町、松本町、鍋屋町、柏屋町、材木町、下樵木町の數町より成立し、第十四學區西石垣通、四條下る齋藤町を加へて一郭たり。始め寛文十年(1670)の秋、鴨川沿岸磧地を開き、石垣を築く。延寶二年(1674)二月、建家設置を許可す(所司代戸田越前守、町奉行前田安藝守たり)、僅かに五戸を建築し、同年八月に至り、漸次家屋立連ね、繁昌日に增す。正徳二年(1712)五月、生洲株を差許し、三條より四條迄、茶屋株、旅籠屋株を許し、茶立女を置くことを免す。文化十年(1813)以來許可を得て、藝子取扱を開始す。是より公然の遊郭となる。同十一年十一月、宮川筋六町目旅籠屋株のもの、鍋屋町町尻を借受け、先斗町通に始めて格子附渡世を爲す。天保十三年(1842)幕府改革に際し、當町水茶屋、藝者渡世等を禁止す。安政六年(1859)六月、ニ條新地より此地に移住し、遊女渡世を許され、慶應三年(1867)九月、冥加金(みょうがきん)上納の故を以て、祇園町と同じく、無年限に許可地と爲す。維新に際し多少盛衰ありしも、今尚繁華の遊里と爲り、四時遊人日夜に跡を絶たず。其鴨川に面する地所は槪ね官有に係り年限を定め借用許す。明治七年(1874)郭内に女紅場を設け、婦女子に必要なる教育を藝娼妓に施し、又歌舞練場を置き舞技音曲を研究せしめ、春季は鴨川踊を催し秋季には温習會を開き以て京觀を添へり。郭内に五業組合事務所の設けあり。是明治十九年(1886)七月府令に基き、前記の九箇町を區域とし、事務を取扱へるものたり。近年歌舞練場を改築して名を翠紅館と附し時々餘興を開催す。」平成二十七年(2015)杉本重雄が自費出版した『先斗町地名考』は、先斗町という名の謂れに一つの決着をつけた。竹村俊則のいう「その頃世上に流行した「うんすんかるた」によってかかる外来語をもじったものだろうともいわれ」る説を、トランプ賭博で真っ先に金を賭けるポルトガル語の賭博用語「ポント」であると特定し、鴨川に突き出た(先)面積の小さい(斗)花街を洒落てポントと呼び「先斗」と字を当てたと結論をつけた。昭和三十四年(1959)発行の朝日新聞社京都支局編『カメラ京ある記』にボードビリアンのトニー・谷が一文を寄せている。「この町をつらぬく道はカサをさしたままではすれ違えぬほどにせまい。往来する芸者と、カサをかたむけ合って通り抜けるのもここならではの風情だろう。━━昭和の初めごろは、お茶屋は百五十軒もあったそうだが、年々減る一方で、いまは七十軒。べにがら格子の町並に、歯がぬけたようにバーや喫茶店がふえている。先斗町お茶屋組合の谷口さださんは「お茶屋はもう古おす。新しいことを考えんとあきまへん」という。この町は、祇園のかげに隠れて目立たぬようだ。映画にもほとんど登場してないし観光客にも、祇園ほど花やかな名を売っていない。祇園が格式の上にあぐらをかいて保守的なのに比べ、先斗町は新しいものを大胆にとり入れようと試みる。」(『カメラ京ある記』淡交新社1959年刊)昭和三十九年(1964)東京オリンピックのこの年に、和田弘とマヒナスターズの「お座敷小唄」が流行った。「富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町に降る雪も、雪に変りはないじゃなし、溶けて流れりゃみな同じ」広島流川のスタンドバーにいたホステスが唄っていた元歌は「雪に変りがあるじゃなし」であったという。飲食店風俗店の並ぶ繁華な木屋町通の裏道の如く肩身を寄せ合う今日の先斗町お茶屋は三十軒足らずで、舞妓は十名足らずである。鴨川に出れば、見えるのはその並ぶ店々の裏側であるが、鴨川から流れを引いた禊川(みそぎがわ)の上に夏は床を建てる東に向いた開き窓で、昼近い日の射す河原にいま、その並びの一つから三味線の音が響いている。行きつ戻りつする同じその弾き音は、舞妓かあるいは芸妓の今夜の準備の音である。三味線に千鳥鳴く夜や先斗町 正岡子規。軒に灯る提灯の先斗町の紋章の飛ぶ鳥と底に引いた三本線は、千鳥と鴨川、禊川、高瀬川である。が、木屋町通三条下ルの瑞泉寺にこのように記した「千鳥碑」がある。「鴨川流域に棲息し清楚な姿と可憐な声は遊子都人に愛され、詩歌に俳諧に、又、画材ともなって名鳥の聞こえが高かったが、近来都塵に絶えて見ることを得なくなった。云々 昭和四十二年仲秋」

 「そして、その狭い薄明の空間が上方から閉じられくる瞬時のまた瞬時といえるほどの極微な時間のなかで、「立ちどまれ、瞬間よ!」と念じながら、まさに自己の思いいだくひとつの想念を紋章をつけた楯のごとくにさつとつき出すことこそ、私の意志によつて見られるところの夢の出発にほかならないが、その出発点は、さながら深い海中から手をあげ、水面の上にやや高くつきだしながら、素早く曲げた指のかたちで暗い海面の向う側にいる何者かにサインするさまにも似ているのだ。」(「暗黒の夢」埴谷雄高『闇のなかの黒い馬』河出文藝選書1975年)

デブリ可能性の堆積物 福島第1原発1号機、圧力容器下部に塊」(令和4年2月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)