平成七年(1995)一月十七日に起きた阪神淡路大震災のその刻に便所に入っていた俳人永田耕衣は、神戸須磨の二階家が倒壊したにもかかわらずその狭い個室の中で命拾いをした。九十五歳だった耕衣は住まいを失って寝屋川の老人ホームに入り、このような句を詠んだ。白梅や天没地没虚空没。父恋が母恋なりき梅白し。梅花咲き出したというて泣きにけり。或る日父母が居ないと思う梅花かな。桂川を渡った四条通松尾大社の一の鳥居の前で尽きるが、渡る手前を北に折れ奥の鳥居を潜れば梅宮大社である。安産祈願の梅宮大社は受付で肥った白い猫が寝そべっているようなのどかな神社で、塀の内の神苑で漸(ようや)く梅が咲きはじめた。苑にある二つの池は燕子花(かきつばた)で有名であるが、茎はまだ淵の泥に埋まっている。梅はこの池の回りにぽつぽつと植わり枝にもぽつぽつ花をつけていて、明日の三月十一日には晴れの陽気にいまより開くに違いない。が、鷲谷七菜子は、このように梅を詠むのである。天曇るつめたさに触れ梅ひらく。俳句は、天晴るゝ暖かさゆへ梅ひらく、ではないのである。母の魂梅に遊んで夜は還る 桂信子。この句の作者は、しかし日射しの下の梅にこそいまは亡き母の姿が見えるという。夜の梅いねんとすれば匂ふ也 加舎白雄。床に就こうとすると匂う梅とは何という花であることか。「梅宮は四條の西、梅津の里にあり。祭るところ四座にして、酒解神(さかどけのかみ)・大若子(おおわかこ)・小若子・酒解子神なり。相殿(あひどの)には橘贈太政大臣清友(諸兄(もろえ)公の孫、奈良磨(ならまろ)の子)・檀林皇后嘉智子を祭る(この皇后は嵯峨天皇の愛妃なりしかども、太子なきことを常に愁ひて酒解けの神を祈り給へり。すでに感応ありて妊身となりましまし、すなはち当社の清砂を御坐(おまし)の下(もと)に敷き、太子を隆誕し給ふ。仁明天皇これなり。ゆゑに世人産月に臨めば、当社の砂を取りて帯襟(たいきん)に佩(お)ぶるはこの遺風なりとぞ)。」(『都名所図会』)

 「ウクライナ侵攻を続けるロシア軍によって、南東部にある欧州最大級の原発が攻撃され、占拠されました。欧州全体に深刻な汚染をもたらしかねない暴挙に、国際社会は非難の声を上げています。首都キエフでは住宅などへの空爆が継続。ロシアは攻撃の手を緩めていません。」(朝日新聞DIGITAL・2022年3月7日)

 「震災11年、亡くなった人の分まで 語り部、記憶と教訓を後世へ」(令和4年3月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)