御室仁和寺の東の築地に沿って緩く上る道の右は仁和寺の駐車場で、その上、仁和寺の東門の向かいに小さな門を構える蓮華寺がある。京都市が立てた駒札を写せば、「平安時代の天喜五年(1057)に後冷泉天皇の勅願により藤原康基が創建した。はじめ広沢池の北西にあったが、応仁の乱の後、鳴滝の音戸山(おんどやま)山腹に移され、長く荒廃していたのを、寛永十八年(1641)に江戸の豪商・樋口平太夫翁が再興し、山頂に石造の五智如来像を安置した。その後、火災にかかって焼亡し、昭和三年(1928)に現在地に移された。昭和三十三年(1958)には、離散していた石仏が集められて安置され、境内に並ぶ五智如来五体と観音坐像の十一体の石仏群は壮観である。五智如来とは、薬師、宝生、大日、阿弥陀、釈迦の五仏で、知恵の祈願仏として知られ、現在も学業の守護尊として信仰を集めている。」寺である。数段の石段を上がって門を潜り、敷かれた石を辿ってすぐに視界は右、南に開ける。この高みの真下は駐車場であり、遠望を遮るものは何もない。と思うと同時に何か気配のようなものを感じる。そのまま二三歩右に進めばその気配の意味が分かる。駒札の説明にある石仏が列を作り、整然と皆南に顔を向けて並んでいるのである。前列の五体、薬師如来宝生如来大日如来阿弥陀如来、釈迦如来は半丈六、一・二メートル余の坐像で蓮華の台座に乗り、後ろの十一体はそれらよりひと回り小さく、これらの石仏は大人の腰の高さに刈り込んだ躑躅の生垣に囲まれている。十一体には地蔵菩薩聖観音の内に樋口平太夫の両親と平太夫、但称(たんしょう)と記したどれも穏やかに目を閉じたわずかに前かがみの座像が混じっている。この但称は、仏師木喰但称である。木喰(もくじき)とは火を通したものを一切喰わず木の実と果物だけで生きる修行僧であるという。弟子の手による但称の像以外の石仏は皆、この木喰但称の手によるものである。石仏は木像のような繊細な彫りではないが、野晒しで三百八十年を経ても正確な仏顔の輪郭を保ち、それらが寄せ集めでない恐らくは同じ者の手によっていることで均一となった緊張を辺りに齎(もたら)している。が、その張りつめた空気は室内の奥まった仏像にまつわる息苦しさとはならず、空中に発散され、堂の内にいては味わうことのないようなひとつの確かな気分にさせる。それはこの石仏の一団が「そばにいる」、あるいはこの一団と「一緒にいる」という気分である。同じ地面から如来もまた目の前の同じ景色を見ているということが「そばにいる」ということである。どちらか一方が「そばにいる」のではなく、互いが互いの「そばにいる」という気分にさせているのである。この気分を前向きに解釈すれば、見ず知らずの想像の及ばぬ「浄土に触れている」という思いかもしれぬ。経にある言葉ではなく、石仏というものの群れがそう思わせることを「した」のである。それはいうまでもなく「もの」を超えたということである。「超えた」と思ったのはこちらである。蓮華寺には但称が作った石仏がもう一体あった。その一体は十一面千手観音で、いまは嵯峨広沢池の中に立っている。境内の如来と同じように頬のふっくらした観音である。

 「━━ほら、人間的な神聖と呼ばれ、聖人の神聖ではないものがあるのだ。わたしは、人間的な神聖が神の神聖よりも危険で、俗人の神聖は一層痛ましいことを神すら理解しないことを恐れている。キリスト自身、人びとが彼にしたことを彼にしたとすれば、わたしたちにはずっと悪いことをするはずだということを知ってはいたが、「生の木にさえこうされるなら、枯れた木はいったいどうなるのだろうか?」と彼は言ったのだから。」(「G・Hの受難」クラリッセ・リスペクトール 高橋都彦訳『ラテンアメリカの文学12 G・Hの受難/家族の絆』集英社1984年)

 「新たに塊状の堆積物確認 第1原発1号機格納容器調査」(令和4年3月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)