森の中の道ゆく葵祭かな 京極杞陽。今年も葵祭は中止となった。が、中止になるのは五月十五日の「路頭の儀」といわれる一キロの長さになる参向行列である。その葵祭のはじめの神事である下鴨神社流鏑馬(やぶさめ)が五月三日に三年振りにあった。これは祭りの露払いである。葵祭は葛野(かどの)山城に平安京が出来るより二百年以上前、第二十九代欽明天皇の代に続いた凶作を加茂神の祟りと見、それを鎮めるため四月吉日に鈴をつけた馬を走らせたのがはじまりであるという。天皇の使いが神に捧げる斎王を伴った警護の行列が「路頭の儀」である。糺の森の四百メートルの馬場に五千人が集まった。はじめに黒漆の箱を捧げ持つ平安装束姿の者を先頭に神官の乗る馬車が続き、笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・笛の楽奏、公家・武者姿の騎馬、的持ち、弓持ち、鏑矢持ちが馬場の砂の上をぞろぞろ行列になり、競馬のように鞍を載せた馬が引き回され、漸(ようや)く流鏑馬がはじまる。的は三か所にあり、的を取り換える者も平安装束姿である。係に尻を叩かれた馬ははじめから全力の走りで、間近で走り抜けるその姿も人殺しの道具の弓矢も見慣れぬ者には相当の迫力がある。であるが、走る馬の背から三本の矢を次々放つのは容易ではなく、神事であっても皆が皆的を射抜いてゆくわけではない。次の矢の用意の動作が遅れる者もいる。落馬もあった。綱を張った前列にはパイプ椅子の用意があり、それに坐れぬ者は二重三重に立って的を射抜けば拍手を送るが、的近くのその二重三重の人だかりの後ろの者は走り来る馬の姿を目にすることは出来ず、気配に思わず背伸びをする。が、恐らくは毎年のように見に来ていたのであろう女の年寄りは草の上に坐り、その気配にひとり大きな拍手を送っているのである。「すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)のうちながら思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑(なほざり)なり。片田舎の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本(もと)には、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果(はて)は、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることなし。さやうの人の祭見しさえ、いと珍らかなりき。「見事いと遅し。そのほどは桟敷不用なり」とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふ」と言ふ時に、おのおの肝潰るゝやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつゝ、一事も見洩さじとまぼりて、「とあり、かゝり」と物毎に言ひて、渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで」と言ひて下りぬ。たゞ、物をのみ見んとするなるべし。都の人のゆゝしげなるは、睡りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後に侍ふは、様あしくも及びかゝらず、わりなく見んとする人もなし。何となく葵懸け渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。暮るゝほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく稀に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例(ためし)も思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。かの桟敷の前をこゝら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて、知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き穴を明けたらんに、滴ること少しといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺を鬻(ひさ)ぐ者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひ懸けぬは死期(しご)なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫(しば)しも世をのどかには思ひなんや。継子立といふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またまた数ふれば、彼是間抜き行くほどに、いづれも遁れざるに似たり。兵(つはもの)の、軍(いくさ)に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵には、閑(しづ)かに水石を翫(もてあそ)びて、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵(かたき)競(きほ)ひ来らざらんや。その、死に臨める事、軍(いくさ)の陣に進めるに同じ。(『徒然草』「第百三十七段」兼好法師)月や花をいつもいつも皆が云うように直接この目で見なければならないとは思わない。桜の咲く春にわざわざ外に出なくとも、あるいは秋の月の輝く夜でも寝床でそれを思い描けば、わくわくして堪らなくなるのだ。が、世間でよく思われている人は、このようなことで熱狂するわけでもなく、たとえ面白がったとしてもどこか本気には見えない。それに比べて田舎者は、何にでもしつこく興味を持って面白がる。桜が咲いているのを見つけるとどんな場所でも、たとえ身を無理にねじってでも近づいて一心不乱に眺めたり、と思えばその下で酒を呑み、連歌の真似ごとをしたり、果ては酔った挙句に太い枝をへし折るような無礼なことをする。湧き水を見つけると必ず寄って手足を突っ込み、雪が降り積もった地面には足跡をつけなければ気がすまず、どんなものごとも一歩引いて見るということをしない。このような田舎者らが加茂の祭を見物しに来ていた時の様子は、何とも奇妙で滑稽なものだった。「のろのろしてやがる行列だ。何も通らないのにボケっと桟敷で待っているのもばかばかしい」と云って、奥の座敷で呑んだり喰ったりしながら碁石をいじり双六を広げ、桟敷で番をさせていた者が「お通りになられます」と声を掛けた途端、慌てふためきわれ先に桟敷に駆け上がって簾を押し上げ、身を乗り出し、押し合いながらひとつも見落としてなるものかとばかり、血まなこになって「ああだ、こうだ」と行列が来るたびに云い合いをし、それが過ぎてしまうと「次が来るまで」と云って降りて行った。この者らはただ通り過ぎる行列だけを見れば気がすむのである。かたや都のさも身分の良さそうな者は、たいして見もせず居眠りをしている。あるいは、まだ若くて位の低い宮仕いの者は上の者への給仕に忙しく、主人の後ろに控えていて前にのしかかるようなみっともない真似をしてまで見ようとする者はいない。加茂の祭の日には葵の葉を家々に懸けてあって何ともいえぬ独特の優雅さがあり、まだ夜が明けきらぬ頃、こっそり道端に寄せてゆく車の主を知りたくて、あの方のものだろうかなどと思って歩いていると、牛飼いや使いの者に知った顔の者がいたりする。加茂の祭の行列は趣向を凝らしていたり、あるいはまばゆく輝いていたり、とりどり道を行き交って見ていて少しも退屈しない。その祭りが終わって日の暮れる頃になると、ずらりと並んでいた車もぎっしり坐っていた見物人も皆どこかに消え失せてしまったようにちらほら人の姿があるだけで、ごったがえしていた車の行き来も収まり、簾や畳も桟敷から取り払われ、目に見えて寂しくなる様子を目の当たりにすると、改めてこの世の習いを思い知らされ、しみじみとした思いが込み上げて来る。大路の上で繰り広げられたこれらの端(はな)から終りまでをくまなく見てこそ、加茂の祭を見たと云えるのである。あの桟敷の前を行き交っていた多くの人たちの中に、何人も顔見知りの者を見つけると、こんなことを改めて思い知る。世間に住む人の数はべら棒に多いわけではないのである、と。たとえばこの者らが全部死んだ後で私が死ぬという順序になっていたとしても死ぬということに差があるわけではない。大きな器に水が入っていて、たとえば底に小さな穴が開いていれば滴る水はごく僅かでも休まずに洩れ、やがて水は器から消え失せてしまう。都にどれだけ多くの人が住んでいるとしても、人の死なない日は一日もない。死人の数も一人二人ではないであろう。鳥部野や舟岡やほかの野山でも、何人も野辺送りをする日はあっても野辺送りを見かけない日はない。そうであれば棺桶職人は右から左に休まず作ることになる。身体つきの若さとか丈夫さとかに関係なく、不意打ちをするのが死の時である。今日のいままで死から遁れることが出来ているのは奇蹟のようなことなのだ。そうであれば、ほんのちょっとの間でもこの世をのんきに思っていられるだろうか。継子立てという黒白二色の石取り遊びを双六に見立てて並べた時には、どの石から取られるのかは分からないが、十番目の石を数え当てて一つを取ると、ほかの石は遁れたと見えるが、次々と数を数えて並んだ石を抜き取ってゆくと、結局はどの石も取られてしまう決まりごとと同じである。兵(つわもの)が戦さに出る時、死は忽(たちま)ち身近に迫るのであるから、家のことも己(おの)れ自身へのこだわりもなくなってゆく。世を捨てて住む掘立小屋のようなところで静かに、庭に作った小流れや置いた石を見て心を慰めながら、兵(つわもの)の死の覚悟を他人事のように思うのを想像すると、空しい気分になる。静かな山奥にいれば本当に死には襲われないのか。戦陣に向かう兵と同じように、世捨人であっても常に死に脅かされていないはずはないのである。兼好法師は加茂の祭、葵祭の話から一気に死ぬことに思いが至るのは、愚かな田舎者も祭りが終わればあわれで、人に使われる知り合いの牛飼いもあわれであり、そう思えば思うほど一日も長く生き続けろと心ひそかに願っているからに違いないからなのである。

 「快活な蜻蛉(とんぼ)は流れと微風とに逆行して、水の面とすれすれに身軽く滑走し、時々その尾を水にひたして卵を其処に産みつけて居た。その蜻蛉は微風に乗つて、しばらくの間は彼等と同じ方向へ彼等と同じほどの速さで、一行を追ふやうに従うて居たが、何かの拍子についと空ざまに高く舞ひ上つた。彼は水を見、また空を見た。その蜻蛉を呼びかけて祝福したいやうな子供らしい気軽さが、自分の心に湧き出るのを彼は知つた。さうしてこの楽しい流れが、あの家の前を流れて居るであらうことを想ふのが、彼にはうれしかつた。」(『田園の憂欝』佐藤春夫『筑摩現代文学大系26 佐藤春夫集』筑摩書房1976年)

 「東電、放水口整備へ海底の掘削作業着手 処理水放出方針」(令和4年5月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)