だるま寺、法輪寺のそばを流れる紙屋川の橋の上で、聞きなれない鳥の声を聞いた。聞きなれないというのはこちらが聞きなれないということにすぎないのであるが、声は下の底浅く流れる水の上に青葉を繫らせる桜の木からして、声の主は二度ばかり鳴いてだるま寺の方へ飛んで行った。その鳥のうろ覚えの声の記憶を頼りに調べれば、鵤、イカルという鳥である。嘴は黄色に太く、躰は灰色であるが顔と羽先と尾っぽが黒い色をしていて、大きさはムクドリと同じくらいである。聖徳太子斑鳩(いかるが)宮をあるいは法隆寺を建てた斑鳩は、このイカルの群れなすところ、からきているともいわれているという。『枕草子』の「第三十八段」にもこの鳥の名が出て来る。「鳥は、異(こと)どころのものなれど、鸚鵡(あうむ)、いとあはれなり。人のいふらむ言をまねぶらむよ。郭公(ほととぎす)。水鶏(くひな)。鴫(しぎ)。都鳥。鶸(ひは)。山鳥。友を恋ひて、鏡を見すれば慰むらむ。心稚(わか)う、いとあはれなり。谷隔てたるほどなど、心苦し。鶴は、いとこちたきさまなれど、「鳴く声の雲居まできこゆる」、いとめでたし。頭(かしら)赤き雀。鵤(いかる)の雄鳥。巧婦鳥(たくみどり)。鷺は、いと見目も見苦し。眼居(まなこゐ)なども、うたてよろずになつかしからねど、「ゆるぎの森にひとりは寝(いね)じと争ふ」らむ、をかし。水鳥、鴛鴦(をし)いとあはれなり。かたみに居かはりて、「羽の上の霜払ふ」らむほどなど。千鳥、いとをかし。━━」鳥のなかで一番見てみたいのは、異国の鳥であるがオウムだ。人が喋るのを真似るそうである。それからホトトギス、次にクイナ、シギ、ミヤコドリ、そしてヒワ。ヤマドリはいつも仲間を恋しく思い、それが鏡に映った自分の姿でも安心してしまうほど寂しがり屋でかわいらしく、オスとメスが谷を隔てて別々に夜を過ごすというのを聞くと、かわいそうな気持ちになる。ツルは派手で人目を惹く姿が好きではないが、「雲の上まで響き渡る」という鳴き声には心が動かされる。それから頭の赤いニュウナイスズメイカルのオス、ヨシキリの鳴き声も好きである。サギは見た目も不細工で目つきも好きにはなれないが、「琵琶湖の畔にあるというゆらぎの森に棲むサギのオスはひとりで寝るのがいやでメスの奪い合いをする」という、まるで人間世界と同じで面白い。水鳥では、オシドリが互いに位置をずらしながら「羽についた霜を払ってあげる」というのが微笑ましい。チドリも好きな鳥である。いかる来て起きよ佳き日ぞと鳴きにける 水原秋櫻子。イカルがやって来て「オキヨヨキヒ」と鳴いたという。江戸の百科全書『和漢三才圖繪』はその囀りをこう書いている。「常に鳴く、春月、能(よ)く囀る、「比志利古木利(ヒシリコキリ)」と言ふが如し。」あるいは「お菊二十四」「月日星」「蓑笠着い」「赤いべべ着い」「じじ茸食え」などとその「聞きなし」を調べれば出て来る。新下立賣橋の上で聞いてメモを取った時のコトバは「ヒーキョリキョヒー」である。「いかるかよ豆うましとは誰もさそひしりこきとは何を鳴くらん」(『古今著聞集』)イカルの別名が「豆回し」というのは豆を咥えた時を見れば誰でも納得するが、「ヒシリコキ」というあの鳴き声は何と歌っているのであろうか。人の書きつけた言葉ではイカルの魂に触れることは出来ない。これはかつてウマオイの鳴き声を聞いて思ったことではあるが。国木田独歩に「春の鳥」という短篇小説がある。ある町に赴任して来た「先生」が六蔵という鳥の好きな「白痴」の少年と知り合いになる。が、ある日、六蔵が城山の石垣の下で死んでいるのが見つかる。「「けれど、なぜ鳥のまねなんぞしたのでございましょう。」「それはわたしの想像ですよ。六さんがきっと鳥のまねをして死んだのだか、わかるものじゃありません。」「だって、先生はそう言ったじゃありませぬか。」と母親は目をすえて私の顔を見つめました。「六さんはたいへん鳥がすきであったから、そうかもしれないと私が思っただけですよ。」「ハイ、六は鳥がすきでしたよ。鳥を見ると自分の両手をこう広げて、こうして」と母親は鳥の羽ばたきのまねをして「こうしてそこらを飛んで歩きましたよ。ハイ、そして、からすの鳴くまねがじょうずでしたよ」と目の色を変えて話す様子を見ていて、私は思わす目をふさぎました。」(「春の鳥」国木田独歩『号外・少年の悲哀 他六編』岩波文庫1939年刊)これは人が鳥の魂に触れることが出来た稀(まれ)な例であろう。

 「崩れゆく城壁の騒音のさなかに、すでに再建された街々からわきあがる歓喜の歌のあいだに、たえず変化にさらされる諸々の形態の永続的回帰を高らかに告げ知らせる急流のいただきに、人間や事物を上昇させもすれば下降させもするあの感情や情念のはばたく翼の上に、諸々の文明を痙攣(けいれん)させる一時的な火の手の上に、諸々の国語や風習の混迷の彼方に、私は人間を、そして渦巻の中心にありながら人間のうちでいつまでも不動のままであるものを、たしかに見る。」(『通底器』アンドレ・ブルドン 足立和浩訳 現代思潮社1978年)

 「ウクライナ情勢、福島県内企業の半数以上に悪影響 意識調査」(令和4年5月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)