六月二日は天正十年(1582)、毛利軍と豊臣秀吉の戦いに出陣させられた明智光秀が、安土から上洛し手薄の人数で本能寺に泊まった織田信長を自刃に追い込んだ日であり、寺町通鶴山町の阿弥陀寺では「信長忌」の法要がある。信長と阿弥陀寺の関わりを『京都坊目誌』はこう書いている。「本寺は天文年中(1532~55)僧清玉、近江国に開創し(或は永禄十年(1567))、織田信長の帰依を以て之を京師に遷し、上京芝の北(今、上立売大宮東入南側に直る)に寺域を賜ふ。元亀元年(1570)正親町(おおぎまち)帝綸旨を下し、堂宇を建立せしめらる。天正十年(1582)六月二日、信長父子逆臣明智光秀の為に弑(しい)せらる。清玉其遺屍を本寺に収め墓を築く。天正十五年(1587)豊臣秀吉命して今の地に移す。」角川春樹は「本能寺の変」を俳句として「向日葵(ひまわり)や信長の首斬り落とす」と詠んだが、この句は角川春樹の父、角川書店の創業者角川源義の句「ロダンの首泰山木(たいざんぼく)は花得たり」を頭の傍らに置いたであろうことは想像がつく。父親の会社に入った春樹は己(おの)れの「存在理由」のため明智光秀の勢いで、父源義あるいは出版業界の「首」を斬り落とさねばならず、角川春樹の「変」は角川映画を生み、薬師丸ひろ子を生むのである。「ロダンの首泰山木は花得たり」この「ロダンの首」は彫刻家ロダンが彫った人をモデルにした頭部の作品か、あるいはロダンが自分自身を彫った自我像かもしれない。そのいずれであってもこの「首」は白い大理石で出来ていて、庭に植わっている泰山木が枝先にその「首」と大きさも色も同じ花を「得たり」というのである。あるいは泰山木が「得た」咲きはじめの花はアナロジー、類推として美的作品である「ロダンの首」を思わせる、ということである。この「得たり」という云いは、泰山木が自ら咲いたのではなく、何者かによって齎(もたら)され恰(あたか)も「得た」かのように見えるというのである。明治に入って西洋人が携えて来たという泰山木の花に対するこのような思いは次のような句にも示されている。聖書開く泰山木の花の下 平居澪子。あるいは、泰山木開く気配に躓(つまず)きぬ 一ノ瀬タカ子。江戸幕府キリシタン弾圧を行ない、キリスト教徒がその信ずるものを変えた時「転び」と呼ばれた。この「躓きぬ」はこの「転び」に通じるようでもあるのである。薔薇が盛りの京都府立植物園で泰山木が最後の花を幾つかつけていた。その姿かたちで思い起こす蓮華は、池の泥の中にあるいは仏教の極楽浄土に「自ら」咲く花であるが。

 「春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山 春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山 持統天皇」(『万葉集』巻第一の「二十八」)

 「福島県、新型コロナ114人感染 郡山27人、福島といわき各20人」(令和4年6月2日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)