梅雨に入るこの時期、花園妙心寺塔頭東林院で「沙羅の花を愛でる会」が催される。六月十五日の朝日新聞DIGITALは「ナツツバキは、日本の寺院で、釈迦入滅の時に花を咲かせた「沙羅双樹」として植えられてきた。平家物語には無常の象徴として描かれている。」と紹介の記事の中で書いている。が、なぜナツツバキが「「沙羅双樹」として植えられてきた」のかは書いていない。「娑羅」は、日本であれば温室のようなところで温度を管理しなければ育てることが出来ないことがそもそもの理由であるが、極薄黄色の花弁が星形に開く「娑羅」と、黄色い蕊を包んだ小さな碗が割れるように円に開く白い花弁のナツツバキとはそもそも形が違う。「娑羅」は釈迦入滅の二月十五日、季節外れの花を咲かせたといい、撓んで釈迦を覆った一対のあるいは四方にあった「娑羅」の姿は白鶴のようにも見え、あるいは釈迦の遺体を囲んでいた東西南北のそれぞれ二対のうち四本が枯れ、四本が枯れずに残って豊かに繁ったともいう。講談社の『日本大歳時記』(1983年刊)には、「沙羅の花、夏に椿によく似た白色の五弁の花を開くことから夏椿といい、この呼称が正しい植物名で、沙羅の木は、インドの沙羅樹と間違えたことからきている。」と記している。そうであれば、どこかに間違いを犯した者がいるということであるが、庭の砂が水で石が島の見立てであるように、ナツツバキが「娑羅」の代わり、見立てであれば、その理由は、翌日にはあるいは雨に打たれると花を落としてしまう新聞記事にいう「無常」の思いであろうが、それでもナツツバキだけがそういう特徴を持つ花であるということではないことを思えば、この見立てという考えにも疑問が残るのである。京都御所の迎賓館の東の塀の裏にナツツバキの花が咲いていた。この位置は平安京の北東の端、鬼門の方角に当たり、初代摂政藤原良房の邸染殿第の井戸がいまも残っている。良房の娘明子(あきらけいこ)は文徳天皇の女御となり清和天皇を生んだが、『今昔物語集』の巻二十に「染殿后、天宮被嬈乱語、第七(ソメドノノキサキ、テングノタメニネウランセラレタルコト)」という話が残っている。「形チ美麗ナル事、殊ニ微(メデタ)カリケル。而(シカ)ルニ、此后、常ニ物ノ気ニ煩(ワズラ)ヒ給(タマヒ)ケレバ、様々ノ御祈ドモ有ケリ。」后の明子は非常な美貌の持ち主だったが、四六時中「物の怪」に憑りつかれ、いろいろな祈禱をためしていた。金剛山にすぐれた聖人がいるという噂を聞きつけた天皇と父良房はその聖人を口説き落とし、宮中に連れて来て、早速聖人が加持祈禱すると、后の侍女が狂い出し、そのまま続けるとその女の懐から老狐が飛び出して来て、后の病は一両日で止み、父良房は聖人を口説いて宮中に留め置いた。すると「聖人、ホノカニ、后ヲ見奉(タテマツ)リケリ。見モ習(ナラハ)ヌ心地ニ、此(カ)ク端正(タンジヤウ)・美麗ノ姿ヲ見テ、聖人、忽(タチマチ)ニ心迷ヒ、肝砕(キモクダケ)テ、深ク后ニ愛欲ノ心ヲ發(オコ)シツ。然(シカ)レドモ、爲(ス)ベキ方ナキ事ナレバ、思ヒ煩(ワヅラヒ)テ有ルニ、胸ニ火ヲ焼クガ如ニシテ、片時ヲ思ヒ遇(スグ)スベクモ思(オ)ボエザリケレバ、遂ニ心アワテ狂ヒテ、人間ヲ量(ハカリ)テ、御帳ノ内ニ入テ、后ノ臥(フサ)セ給(タマ)ヘル御腰ニ抱付(イダキツキ)ヌ。」后の色香に血迷った聖人は后を犯してしまい、捕らえられると、「「我、忽(タチマチ)ニ死テ鬼ト成テ、此后ノ世ニ在(マシ)マサム時ニ、本意ノ如ク、后ニ陸(ムツ)ビム」ト。」私はいますぐ死んで鬼となって、后が生きている間じゅう后の心の赴くままに睦みあうのだ、と云い放ち、それを聞いて恐れをなした父良房は、聖人を山に放免する。が、「「本ノ願ノ如ク、鬼ニ成ラムト」思ヒ入テ、物ヲ食ハザリケレバ、十餘日ヲ経テ、餓へ死ニケリ。其後、忽(タチマチ)ニ鬼ト成ヌ。」こうして鬼となった聖人は、「俄(ニハカ)ニ后ノ御(オハシ)マス御几帳ノ喬(ソバ)ニ立タリ。━━而(シカ)ル間、此ノ鬼ノ魂、后ヲ悦(ホ)ラシ狂ハシ奉(タテマツリ)ケレバ、后イト吉(ヨ)ク取リ疏(ツクロ)ヒ給(タマヒ)テ、打チ咲(エミ)テ、扇ヲ差シ隠シテ、御帳ノ内ニ入リ給(タマヒ)テ、鬼ト二人臥(フ)サセ給(タマ)ヒニケリ。」后は普段と変わらぬ様子で毎日現れる鬼と愛おしく接するのである。「而(シカ)ル程間、例ノ鬼、俄ニ角(スミ)ヨリ踊リ出(イデ)テ、御帳ノ内ニ入ニケリ。天皇、此レヲ奇異(アサマシ)ト御覧ズル程ニ、后、例ノ有様ニテ、御帳ノ内ニ忩(イソ)ギ入リ給(タマヒ)ヌ。暫(シバシ)バカリ有テ、鬼、南面ニ踊リ出(イデ)ヌ。大臣(父良房)・公卿ヨリ始テ、百官、皆現(アラハ)ニ此ノ鬼ヲ見テ、恐レ迷テ、奇異(アサマシ)ト思フ程ニ、后又取次(ツヅ)キテ出(イデ)サセ給(タマヒ)テ、諸(モロモロ)ノ人ノ見ル前ニ、鬼ト臥サセ給(タマヒ)テ、艶(エモイハ)ズ、見苦キ事ヲゾ、憚(ハバカ)ル所モナク爲(セサ)セ給(タマヒ)テ、鬼起ニケレバ、后モ起テ入ラセ給(タマヒ)ヌ。天皇、爲(ス)ベキ方ナク思食(オボシメ)シ嘆テ、返ラセ給(タマヒ)ニケリ。」天皇は目の前の后と鬼の行為に為すすべなく嘆いたという。「然(シカレ)バ、止(ヤ)ム事ナカム女人ハ、此事ヲ聞テ、専(モハラ)ニ、如然(シカノゴト)シ有ラム法師ノ近付クベカラズ。」高貴な女人をみだりに法師に近づけてはならないという戒めである、という話である。禅寺の庭に咲く「沙羅双樹」として「無常」の意味のついたナツツバキが、鬼となった聖人と夜ごと交わる天皇の后の実家の井戸のそばに植えられていることは、何事かであり、それはナツツバキを「沙羅双樹」とした些(いささ)かの胡散臭さを思うことでもあるのである。沙羅は散るゆくりなかりし月の出を 阿波野青畝。

 「折りそへました一枝の小菊は、妹が毎年咲くのをたのしんでゐた花で、鎌倉の方へ住まふやうになつてからも、根分けして移し植ゑてゐたくらゐでございます。あるじの変つた宿の庭に、どんな風情で咲いてゐることやらと、秋晴れの後圃(うしろには)に立つて、なにか和歌に似たこゝろでおもひ浮べました。」(「夢」野上彌生子『野上彌生子全集 第六巻』岩波書店1981年)

 「原発事故、国の責任認めず 最高裁初の判断、津波想定以上」「原告「納得できない」 原発集団訴訟最高裁の判決を受け」(令和4年6月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)