七月一日の空のまだ明るい夜の七時、四条通月鉾町の、ビルに挟まれた二階屋の二階に白と赤の提灯が灯り、二階囃子と呼ばれる祇園囃子の稽古がはじまる。鉦笛太鼓の音色を「コンチキチン」といい表わすが、さほどに単純な演奏ではない。笛のピーヒャラと太鼓のトントン拍子にチンチンカンという鉦の二つの音が絡(から)みつくように響き音を立てる。この日は八坂神社で「お千度の儀」という生稚児(いきちご)の務めがある。生稚児は十七日の山鉾巡行の際、先頭の長刀鉾の上から太刀で注連縄を切る役を果たす稚児のことで、選ばれた子どもは長刀鉾町と養子縁組の結納を交わし、祭りの間は女の手で作ったものは口に出来ないという。「お千度の儀」はこの生稚児と禿(かむろ)の稚児二人が顔を白く塗り袴姿で、紋付き袴の役員に付き添われ本殿の周りを三回巡り祭りの安全を祈願するのである。この時役員は畳んだ白い布を稚児の手との間に挟み、直接手を握らない。神に捧げた生稚児は直接触ってはならない存在だからである。四条通と交わる新町通を上ってすぐのところに放下鉾(ほうかほこ)の二階屋の会所があり、暗くなりはじめた頃、漸(ようや)く提灯が灯った。通りの向こうから月鉾の囃子が聞こえている。明かりの点いた二階に子どもの浴衣姿が見えるが、まだ囃子は鳴らない。道端から見上げていると、暫(しばら)くして自転車に乗って通りを一人二人とやって来て、中に入って行く。日中の仕事を終え、夕飯を済ませて来れば、八時なのである。「コンチキチン」がはじまる。並びのどの店も閉まっている暗い通りに笛鉦太鼓が響き、節の間(あい)に掛け声が入る。祇園祭は二年中止となった。太平洋戦争中の中止以来である。蚊に喰われたのをしおに背中を向け、角を曲がって遠ざかっても聞こえて来る囃子は、身に染む準備の音である。

 「彼らは行きがけに、煙っている台所をもう一度覗いて見ると、そこで子供のゲルトルートが墓場の腐った木で遊んでいるのが見えた。老スリヒティングは忘れられたように、火の傍に坐っていた。ドロテーアは、いつものようにえんどう豆の上に跪いていたが、こうして柔らかくした豆を明日煮るつもりなのだ。四人のお偉方は彼女が祈るのを聞いた、「あなたの槍は、イエスの心、喜ばしい痛みを与えてくれる……」」(『ひらめ』ギュンター・グラス 高木研一・宮原朗訳 集英社1981年)

 「堆積物、厚さ30~80センチ 第1原発1号機格納容器2地点」(令和4年7月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)