北野天満宮の西回廊に奉納図画の展示があり、画用紙に描かれたある一枚の画を目にして軽い驚きを覚えた。「蚕を飼う真けんに」と題する画で、小学三、四年の部の仕切りに貼り出されていたと思う。驚かされたのはその構図が、子ども時代に描いた画とほぼ同じだったからだ。画の構図は単純である。作者と思しき生徒が、桑の葉を食む蚕を入れた箱を置いた机の前でのけぞるような恰好をしている。その机の向きとそののけぞり方がそっくりだったのである。子ども時代に描いた画は「友だち」という題で、互いに友達を描くという図画の時間の教室の様子をそのまま描いていると、コンクールに出す画の指導に来たという中年の女教諭がその画を見て、「本当にこんな格好をしていたのか」と友達に訊き、訊かれた友達はただニヤニヤしただけで、線の引き方や色使いが正確であることを理由にこの「友だち」の画はその教諭に選ばれることになったのであるが、その構図についても女教諭はその恰好に疑いを持ちながらも恐らく何事かを思い留めたのである。福島の方言に「おだづ」という言葉がある。調子に乗ってふざける、はしゃぐ、悪乗りするという意味で、大抵は、「おだづな」と人を叱る時に使われる。子ども時代に描いた「友だち」の画は、「おだっている友だち」を描いたものである。が、そういう画であるということはあの女教諭には伝わらず、そうであれば改めてそう説明することを子どもながらに躊躇い、そのまま口を閉ざしたのである。北野天満宮の「蚕を飼う真けんに」の画とおだっている「友だち」の画の構図がそっくりなこともまた何事かであるが、あの女教諭はもしやあの「友だち」の画に「真けん」さを見たのかもしれぬ、ともいまさらに思うのである。

 「ぼくらは庭で、"不動の術"を練習している。暑い午後だ。クルミの木の蔭に仰向けに寝ている。木の葉ごしに見えるのは、空と雲だけだ。木の葉は微動だにしない。雲もまた停止しているように思える、が、じっと注意深く見ていると、それがゆっくりと形を変え、長く伸びていくことに気づく。」(『悪童日記アゴタ・クリストフ 堀茂樹訳 早川書房1991年)

 「廃棄物分析「効率的な手法の開発が必要」 廃炉国際フォーラム」(令和4年8月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)