東山月輪東福寺は明治十四年(1881)失火により仏殿、法堂、方丈などが焼け落ちて灰になり、その内の方丈は明治二十三年(1890)に再建される。庭師重森三玲東福寺の方丈の庭に取り組んだのは昭和十三年(1938)である。重森三玲は明治二十九年(1896)岡山県の農家に生まれ、計夫(かずお)と名づけられているが、大正十四年(1925)三玲に改名している。この名は画家ジャン=フランソワ・ミレーから取ったものだという。日本中の庭を調べ『日本庭園史図鑑』(全二十六冊)を著した重森三玲の手はじめの作品、東福寺方丈の南庭は、目になじみの白砂と石と苔の枯山水である。たとえばその代表である龍安寺の庭は、砂が敷きつめられた長方形の庭の、海に見立てた砂の面に島々に見立てた石がわずかに頭を出し、その石の周りを苔の綠が縁取っている。が、重森三玲の方丈の南庭では、石は埋められず、大振りの石の数々はそのままの形で砂の上にとげとげしく晒され、それでもそれらは禪寺の庭の約束事に敬意を払うように蓬萊(ほうらい)、方丈、瀛洲(えんしゅう)、壺粱(こうりょう)の四つの島を表わすといい、一方の端の苔むした五つの起伏は「五山」を表わしているという。が、その隣りの西庭になると、苔の築地の地続きが曲線の陸を描き、白砂の上に浮かぶのは市松の模様に仕立てられた四角に刈り込んだサツキである。この庭では蓬莱の景色を見立てる砂と石の約束事は断ち切られ、重森三玲は庭に思想の及ばない意匠、デザインを持ち込んだ。その隣りの北庭は、百八つの正方形の敷き石と苔で市松模様を描き、庭の半分ではその市松模様がゆるゆる崩壊し、あたかも思想なき意匠とすらも決別しようとしている様である。南庭と渡り廊下を隔てた東庭は、渡り廊下が橋に見立てられ、白砂の海の波が橋の下を潜ると苔の地に交わる白砂の夜空に変身し、そこでは円い七つの丈の違う石柱で見立てた北斗七星が輝いている。北庭の敷き石と苔の市松模様は確かに斬新であるが、「それだけ」のものかもしれない。東庭の北斗七星もまた「それだけ」のものかもしれない。後から来た者が歴史上の枯山水の「見立て」を踏まえて作庭すれば、すなわちそれは「見立て」の模倣である。が、重森三玲の「見立て」の庭は模倣とも違う、「見立て」という約束事そのものを「見立て」として作庭しているような、鏡に映った像を見せられているような冷ややかな違和感がある、重森三玲の崇高な自己実現のその臭いが鼻につくとでもいうか。境内の外れ、南の六波羅門の傍らに白萩が花を咲かせていたのは、重森三玲の庭を見た目には一瞬の安らぎ、慰めであった。萩散って地は暮れ急ぐものばかり 岡本眸
 「生きとし生けるもの總てと合一し、幸ひなる忘我のまゝに自然の一切の中へ歸りゆく、それは思索と喜びとの頂上である。それは聖なる山上、久遠の安らひの處、其處にあつては眞晝も暑氣を失ひ、雷鳴は聲を収め、湧き立つ海は麥畑の穂波にひとしい。」(『ヒュペーリオン ー希臘の世捨人ー』ヘルデルリーン 渡辺格司訳 岩波文庫1936年)

 「圧力容器の土台内部調査、11月下旬再開 第1原発1号機」(令和4年9月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)