上京堀川通今出川下ルにある西陣織会館の玄関脇に「村雲御所跡」の石標が立っていて、京都市の説明はこうである。「村雲御所は、瑞龍院日秀(1533~1625)が、豊臣秀吉(1536~98)に追放され自害した豊臣秀次(1568~95)を追善するため建立した寺院。この附近を村雲と称し、宮家や摂関家からの入寺があったため村雲御所と呼ぶ。日蓮宗の唯一の尼門跡寺院。昭和38(1963)年近江八幡市に移転した。この石標は、瑞龍寺跡を示すものである。」(フィールド・ミュージアム京都)瑞龍院日秀とは、智という豊臣秀吉の実の姉であり、豊臣秀次の母親である。豊臣秀吉の長男鶴松が天正十九年(1591)に亡くなると、秀次は秀吉の養子になり、関白の位を譲り受けるが、秀吉に次男秀頼が生まれるとその「殺生」の性格も災いし、文禄三年(1595)謀反の疑いをかけられ追いやられた高野山で自害し、妻子他眷属は三条河原で首を刎ねられる。平安京大内裏のあった場所に秀吉が建てた聚楽第で秀次と生活を共にしていた日秀は、秀吉の手によって聚楽第が壊されると嵯峨二尊院北に移り住み、秀吉に差し出された息子秀次の首をその庵の傍らに葬り供養したという。黒谷金戒光明寺の西側麓に善正寺がある。北の神楽坂通とその南、金戒光明寺の参道である春日北通を繋ぐ、下に住宅を見下ろす狭い崖道から緩い石段が東に延び、その左右の門柱に「妙慧山善正寺」「豊臣秀次公、村雲門跡瑞龍寺墓所」と書かれた板が下がっている。石段を上りつめて構える本堂よりなお数段の高所を塀で囲んだ墓所が、豊臣秀次、母日秀、父三好吉房、弟秀勝らの五輪塔が並ぶ墓地である。慶長三年(1598)、日秀は第百七代後陽成天皇から堀川今出川の村雲の地と岡崎に寺領一千石を下賜される。後陽成天皇は秀次を関白に任じた天皇であり、慶長三年は日秀の弟秀吉が亡くなった年である。秀吉の死によって姉の日秀に対しこのような力が働いたのである。日秀が嵯峨二尊院北に構えた庵は秀次の墓と共に瑞龍寺として慶長三年村雲に移り、恐らくは後陽成天皇の命により伏見宮家、九條、二條の摂関家からの子女を受け入れる尼寺として豊臣秀次の墓は差し障り、慶長五年(1600)秀次の墓の行く先として建てられたのが善正寺であり、門柱の「豊臣秀次公、村雲門跡瑞龍寺墓所」の意味である。尼門跡に相応しからざる豊臣秀次の墓を訪れる者がこの世にどれほどいるか分からない。善正寺の本堂の手前、草ぼうぼうで剥き出しの崖の上に車十台余のスペースをもった貸駐車場を設けているのは金のためであろうが、その見晴らしのきく駐車場に立って思いを馳せるべきは善正寺の懐具合ではなく、秀吉の死後なお二十七年生き、九十二歳で亡くなる日秀尼のことであろう。秀吉が弟であったがためにその命で己(おの)れの子秀次とその妻子眷属三十余人を殺された姉はその二十七年の間何を思えばいいのか、あるいは何を思わずにいたのか。石段の傍らに車用の坂道があり、下る時微かに甘い匂いが漂っていた。坂道に沿って建っているのは京都市立白河総合支援学校で、自立のための授業でパンやケーキやクッキーを作るという。そうであれば甘い匂いは生徒の希望の匂いに違いない。

 「なべて縞ものは無難である。模様ものにはあれ程良し悪しの別があるのに、縞ものにはそれが無い。押しなべて美しい。縦横の線で凡てが定まり、人の工風が入る余地がない。ここでは人間のいたずらや、棘や角が凡て消されて了う。どんな人間も此縞ものの世界に来ると平等にされる。誰が織ろうとさしたる違いはない。凡てが縦横の律(おきて)の許に支配される。それは数の世界である。秩序に入るのである。それ故縞ものに誤謬(ごびゅう)は少ない。丹波布は安全な道を歩いている。工藝に於ても無事は悦ばれていい。私達は醜い丹波布に廻り逢う心配がない。」(「丹波布の美」柳宗悦柳宗悦コレクション2』ちくま学芸文庫2011年)

 「デブリ取り出しに新会社 東京電力とIHI、システム構築推進」(令和4年10月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)