瑞龍山南禅寺の境内のモミジはようやく緑から黄に変わりはじめているが、山門に隣る塔頭天授庵の塀を越えて枝を伸ばすモミジだけは際立って赤く、その色に誘われ内に入ると、白砂を敷いた方丈の庭の奥まって植えられた何本かのモミジは確かに赤々と色づいていて暫くは目を奪われる。が、この庭にはもう一つ目を見張らせるものが足元にあった。それは色紙のような正方の石を、辺を合わせるのではなくその角と角を突き合わせ連ねた庭を渡る二筋ある小径のような飛び石の「渡り」で、その色紙の連なりは両側をあるいは片方を細長い長方の石の連なりに守られ、その隙間を緑色の苔が埋めていて、後ろに山が控える方丈の濡縁の傍らを走るこの幾何学模様の「帯」は些(いささ)か奇異なものとして見る目をざわつかせる。三島由紀夫は『金閣寺』の中で、この天授庵の方丈の座敷に敷いた緋毛氈の上に「人形」のような長振袖を着た女を座らせ、「異様」な光景を主人公の目に見せている。「(五月のある休日、南禅寺の山門に主人公とその友人が上り)われわれの眼下には、道を隔てて天授庵があった。━━そのとき奥から、軍服の若い陸軍士官があらわれた。彼は礼儀正しく女の一二尺前に正座して、女に対した。しばらく二人はじっと対座していた。女が立上った。物静かに廊下の闇に消えた。ややあって、女が茶碗を捧げて、微風にその長い袂をゆらめかせて、還って来た。男の前に茶をすすめる。作法どおりに薄茶をすすめてから、もとのところに坐った。男が何か言っている。男はなかなか茶を喫しない。その時間が異様に長くて、異様に緊張しているのが感じられる。女は深くうなだれている。……信じがたいことが起ったのはそのあとである。女は姿勢を正したまま、俄(にわ)かに襟元をくつろげた。私の耳には固い帯裏から引き抜かれる絹の音がほとんどきこえた。白い胸があらわれた。私は息を呑んだ。女は白い豊かな乳房の片方を、あらわに自分の手で引き出した。士官は深い暗い色の茶碗を捧げ持って、女の前へ膝行(しつこう)した。女は乳房を両手で揉むようにした。私はそれを見たとは云わないが、暗い茶碗の内側に泡立っている鶯いろの茶の中へ、白いあたたかい乳がほとばしり、滴たりを残して納まるさま、静寂な茶のおもてがこの白い乳に濁って泡立つさまを、眼前に見るようにありありと感じたのである。男は茶碗をかかげ、そのふしぎな茶を飲み干した。女の白い胸もとは隠された。私たち二人は、背筋を強ばらせてこれに見入った。あとから順を追って考えると、それは士官の子を孕んだ女と、出陣する士官との、別れの儀式であったかと思われる。」(『金閣寺三島由紀夫 新潮文庫1956年刊)昭和十九年(1944)鹿苑寺に預けられたこの中学生の主人公は、その六年後の昭和二十五年(1950)金閣に火をつけることになる。『金閣寺』は実際に起きた放火事件をモデルにしている。ゆえに話の「筋」も主人公の「破滅」も当然その放火に向かって突き進む。金閣の「美」に憑(と)りつかれた吃(ども)りの僧が、それを燃やすに至るまでの意識のうねり、三島由紀夫の「美意識」の行き着く先が日本文学史上燦然と輝く『金閣寺』であるという。が、この三島由紀夫の『金閣寺』から最も遠く糞くらえとばかりに水上勉が書いたのが『金閣炎上』である。水上勉はこの放火事件の犯人林養賢と在所が近く、ある時水上勉の知人と連れ立って歩いていた中学四年の林養賢と水上勉は在所の茅っ原で一度言葉を交わしたことがあったという。水上勉の書きたかったこともまたこの徒弟による放火の理由である。水上勉はひたすら事実を踏み固めようとした。が、「本当のことはいまもわからない」とあとがきで述べている。三島由紀夫は、たとえば天授庵での女と士官のやりとりのように明らかに不自然な場面設定をその「美意識」のために挿入し、このような強引さは、いま読み返せばその硬直華麗で「異様」な「文体」にも現れている。放火事件から五年で三島由紀夫は『金閣寺』を書いた。水上勉が『金閣炎上』を書いたのは昭和五十四年(1979)である。米国からの真の「独立」を叫び、自衛隊に決起を促し切腹した三島由紀夫の「文体」の熱が鎮まるのを水上勉は二十余年の間待ったのである。「林養賢の生誕は昭和四年三月十九日である。志満子が二十八歳の春。この日ごろは六地蔵のよこの紅梅も散りつくし、裏山の細木の山桜がうす桃いろにつぼみはじめていた。山の雪もとけ、小石の出た道に日がな陽気がたった。子がうまれる季節にいい時候だ。西徳寺の出産に立会った人は存命していなかったので、村人の記憶を総合してみると、志満子は、初産を成生の慣習に従ってすませている。」(『金閣炎上』水上勉 新潮社1979年刊)「私は昨夜午前何時頃か判りませんが深夜に書類と布団や蚊帳などを以て行つて金閣の北側の板を外し屋内にはいり私が持つて行つた書類や蚊帳等を西側の外を開けて中に入れ、マッチで点火して金閣を焼いたのであります。金閣が燃へるのを見ましたが放火した原因については無意味にやりました。其後私も死ぬつもりで前に買ふてあつたカルモチン百錠を大文字山の山中で飲んだのでありますが、今は苦しいですから寝かせ呉れ何もかも申します。私が放火した犯人に相違ありません。私の主観では悪い事をしたとは思ひません。林養賢(第一回供述調書といわれるもの)」(同)天授庵の入口受付の前の庭に、白い秋明菊が数本咲いていた。秋明菊は菊と違って茎が細く、貴船菊の別名があり、京都貴船に多く咲くのを見かけたからだという。

 「いもぼう。こいもとぼうだらをたいたいもぼうは、十五日のお番菜である。にしんにしろ、ぼうだらにしろ、昔はほかす(捨てる)ほどある安いもんで、それをじょうずに、日にちのおかずに取り入れた。それも先人の暮しの知恵というもんやろう。ぼうだらは、堅子を、早うから水にもどして、用意したけれど、いまはもどしたものを売っているので、好きなだけ買える。おいもは、つねはふつうのこいもにして、お月見のころには、もうだいぶん大きいなっている。そして、お正月のいもぼうにだけ、えびいもをはりこむ。十五日もやっぱりあすのご飯をたいて、おなますもつける。すると、気分も改まって、お仕事に精が出たものである。それに、にしんがきらいなおうちでは、お朔日(ついたち)にも、いもぼうをたいてはった。にしんこぶでも、いもぼうでも、めおとだきにするからおいしいので、別々にたいて、つけ合わせしたら、それはこいもとぼうだらのたき合わせで、いもぼうでもなんでもない。そして、これからこいもがもっと大きいなると、いもぼうもだんだんたきごたえがある。」(『京のお番菜』(中公ミニムックス12)大村しげ 中央公論社1983年)

 「風評対策の有識者会議、一転公開 復興相「記者の関心が高い」(令和4年11月2日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)