東大路通の今熊野商店街から泉涌寺通の緩やかな坂を上ると、泉涌寺総門に出る。総門を潜った参道は両側に石垣を備えた車がすれ違うことの出来る今熊野山裾の緩い坂で、これを上った泉涌寺大門の手前泉山幼稚園の先を左に折れ下ると、今熊野観音寺の朱塗りの鳥居橋が見えて来る。橋の下の細い流れは、今熊野川である。頭上には盛りを過ぎたモミジの彩りがある。南無観世音菩薩と染め抜いた幟がはためく参道に沿い二度、三度セメントの階段を上ると今熊野観音寺の本堂に着く。この日の境内は賑わっていた。その参拝の半分は携帯電話のレンズをモミジの枝に向け、もう半分は真っ直ぐ本堂に上って手を合わせ、その半分の半分が隣りの御詠歌のような音曲を流している御守授与所で枕宝布(カバー)を求める。この男によって世に藤原信西平清盛平重盛源義朝源頼朝源義仲源義経らの名が敵味方に入り乱れる後白河法皇は頭痛持ちだった。ある夜、後白河法皇の夢枕に今熊野観音が現れ、その手のひらから出た一筋の光明が法皇の頭を射し貫き、翌朝法皇は清々しい気分で目を醒ましたのだという。今熊野観音寺の枕宝布は頭痛ぼけ封じに御利益があるのである。芍薬(しゃくやく)や枕の下の銭減りゆく 石田波郷。枕元の花瓶に挿した芍薬は波郷の妻が置いたものだろう。それにしても気懸りなのは、病室で臥せる手持ちの現金が収入のあてもなく減っていくことなのだ。きりぎりす白湯の冷えたつ枕上 室生犀星。犀星がどこで横になっているのかは分からない。が、折角枕元に置いてもらった白湯が、いざ飲もうとするとまったくもって冷え切っている。私はぼんやりきりぎりすの鳴き声を聞いていたのか。いやぼんやりではなかったかもしれぬ。が、その自覚もないまま白湯が冷めるだけの時間が過ぎてしまっていたのだ。芭蕉に、白髪抜く枕の下やきりぎりす、の句がある。句姿がよく似ている。が、芭蕉の句は黒髪が白髪になった時間の経過を嘆いている。木枕のあかや伊吹に残る雪 内藤丈草。芭蕉の弟子の丈草が芭蕉の眠る滋賀膳所の義仲寺のそばの庵に移り住み、元禄八年(1695)一月の百箇日法要に出た同じ弟子の廣瀬惟然をその庵に泊めた折りの句である。丈草は薄汚れた木枕を差し出して恥じ入り、この垢は私のようなものであるが、ここから見える伊吹山に降り積もった雪こそが芭蕉である、と芭蕉の弟子の矜持を示したのだ。枯山を見るに枕を高くせり 橋 閒石。枕を高くして眠ることが出来るのは、不安や心配事のない状態である。枯山は窓の外に見える景色であるが、その枯山はやがて来る自身の姿かもしれない。己(おの)れの死を、枕を高くして迎えたいものだと作者は詠うのだ。泉涌寺の参道を折れ、今熊野観音寺の鳥居橋を渡る手前で、参道は二つに分かれている。そのもう一方に沿って行くと、来迎院に出る。門を潜り、小さな客殿の縁に座って眺めた庭の面は落ち始めたモミジで埋まっていた。雁の夜の枕の上の頭かな 柿本多映。

 「気がつくと、いつものように、彼はくすんだ泥色の山とくすんだ泥色の空の風景に、入りこんでいた。そして同時に、彼はもう老人の登坂の傍観者ではなくなっていた。いまや、彼自身の足が見なれた小石まじりの土を踏みしめ、足がかりを求めているのだった。彼はいつに変わらぬごつごつした石の痛さを靴底に感じ、そして、その空を覆ったいがらっぽい靄をふたたび嗅ぎとっていた━━それは地球の空ではなく、遠い見知らぬ世界の空、だが共感(エンパシー)ボックスのおかげで瞬時に手に入る空であった。」(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?フィリップ・K・ディック 浅倉久志訳 ハヤカワ文庫1979年)

 「線量と疾患「関連なし」 福島医大、県民健康調査論文に」(令和4年12月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)