正月三日に八坂神社でかるた始めがあった。この新年行事のはじまりは昭和四十六年(1971)で、八坂神社の祭神素戔嗚尊スサノオノミコト)が和歌の神であるからであるという。八坂神社の成り立ちには諸説あるといわれるが、『寺院神社大事典 京都・山城』(平凡社1997年刊)には、「近代以前は祇園感神院、または祇園社と称し、明治維新に伴う神仏分離後、現社名となる。祭神は素戔嗚尊(旧牛頭天王)。」とあり、「祭神は素戔嗚尊(旧牛頭天王)」の表現はこのままでは分からない。『岩波仏教辞典』(岩波書店1989年刊)に「牛頭天王(ごずてんのう)」はこう記されている。「もとは、インド舎衛城の祇園精舎の守護神。牛頭天王は、東方浄瑠璃世界の薬師如来垂迹(すいじゃく、仏や菩薩が具体的な姿を示現し、行為や言葉などを通じて衆生を教化・救済すること)といわれ、武荅王(ぶとうおう)の太子で娑竭羅竜王(しゃからりゅうおう)の女を后として、八王子を生む。頭に牛の角をもち、夜叉の如く、形は人間に似る。猛威ある御霊的神格だったことから素戔嗚尊に習合(しゅうごう、幾つかの教義などを取り合わせ折衷すること)され、京都祇園の八坂神社に祀られて除疫神として尊崇される。」八坂神社は、切り離された薬師如来垂迹といわれる牛頭天王素戔嗚尊と「同じ」存在とみなし、あるいは素戔嗚尊を切り離された牛頭天王とみなし祭神としているということである。その素戔嗚尊建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)として『古事記』にこう描かれている。━━天が定まって、国之常立之神(クニノトコタチノカミ)から七代下る伊邪那岐命(イザナキノミコト)、伊邪那美命イザナミノミコト)の男女二柱の神は先の神々から「どろどろに漂う下の国に赴きこれをととのえよ」との命を受け、天ノ沼矛を授かり、天ノ浮橋からその矛をさし下ろし、かき回して垂らしたどろどろの海の塩から淤能碁呂嶋(オノゴロシマ)が出来、「成り成りて成り合はざる処」がある伊邪那美命と「成り成りて成り余れる処」がある伊邪那岐命が嶋に立てた天ノ御柱の回りを巡ると大八嶋国が成り、それから二神は次々に様々な神を生み、火の神を生んだ伊邪那美命は命を落として黄泉国(ヨモツクニ)に行き、伊邪那岐命伊邪那美命に会いたさに黄泉国へ降り、殿の内から聞こえてきた伊邪那美命の声に伊邪那岐命は境界の一線を踏み越え、蛆まみれの伊邪那美命の姿を見てしまう。伊邪那美命は恥をかかされた伊邪那岐命黄泉醜女(ヨモツシコメ)を遣わして後を追わせ、軍兵に追わせ、最後は自ら追い、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)に辿り着いた伊邪那岐命が千引の岩で塞ぐことで二神はあい別れる。伊邪那岐命は穢き国へ行った「御身(みみ)の禊(みそぎ)せん」と筑紫の日向の橘の小門(をど)の阿波岐原で禊をし、左目を洗うと天照大御神アマテラスオオミカミ)が、右目からは月読命ツクヨミノミコト)が、鼻からは建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)が生まれ、それぞれ高天原(タカアマノハラ)、夜の食(ヲ)す国、海原を治めよと命ずる。が、須佐之男命だけは、「命(よ)さしし国を治めず」八拳須(やつかひげ)を生やし、青山を枯らし海を干上がらせるほど泣けば、伊邪那岐命に問われ、「あは妣(はは)が国根の堅州国(黄泉国)に罷らむとおもふゆゑに哭く」と応えると、伊邪那岐命須佐之男命を追放したところで自らの命が尽きる。須佐之男命は黄泉国へ行く前に姉の天照大御神に別れを告ぐべく高天原へ行くが、天照大御神須佐之男命が国を奪いに来たと疑い、須佐之男命は疑いを晴らすため、ウケイ(あらかじめ誓約した結果が出るかどうか神意を占う)して子(神)を生みましょうと申しで、結果は須佐之男命の勝ちと出ると、その「勝ちさびに(勝ちに乗じて)」天照大御神の田の畔を壊し水路を埋め「殿に屎まり散ら」すと天照大御神は懼れ憤り天石屋戸(あめのいわやと)に隠れ籠ってしまう。すると高天原も葦原の中つ国も闇夜に覆われ「万の神の声(おとなひ)は狭蝿(さばえ)なす満ち、万の妖(わざはい)ことごと発(おこ)り」、八百よろずの神々は天安河原(あめのやすのかわら)に集って策を練る。常世(とこよ)の長鳴鳥を集めて鳴かせ、鏡を作らせ、石屋戸の前で天宇受売(アメノウズメ)が乳房も露わに踊れば、八百よろずの神々は大笑いし、その馬鹿騒ぎに天照大御神が石屋戸を少し開け何事かと問うと、八百よろずの神々は「あなたより高貴な神がここにおられ、それが嬉しくて皆踊っているのだ」と応え鏡を差し出すと、天照大御神は思わず身を乗り出したところを天力男(アメノタヂカラヲ)の神がその手を取って引き出し、戸に尻くめ縄(注連縄)を引き渡すと、高天原と葦原の中つ国に光が戻り、事の発端となった須佐之男命は鬚と手足の爪を切られ高天原から追放され、落ちた出雲国で足名椎(アシナヅチ)と手名椎(テナヅチ)とその娘の櫛名田比売クシナダヒメ)に出会う。その老人の話によれば八人いた娘の内七人が高志(こし)の八俣大蛇(ヤマタノヲロチ)に喰われ、まもなく最後の娘を喰いにやって来ると云い、須佐之男命は酒と巡らした垣に八つの門と桟敷を作らせれば、予告通りにやって来た八俣大蛇は酒に酔い潰れ、須佐之男命にその八つの首を斬り落とされる。「かれここをもちて(事の次第はこうで)」須佐之男命は櫛名田比売を娶り、出雲の須佐に宮を作り、歌った歌がこれである。「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(次々に湧く雲は出雲の国の名のとおり幾重にも垣を巡らすようで、新妻を迎える新居にも八重垣を回そう、この湧き立つ雲のような八重垣を)」荒ぶる神素戔嗚尊が詠んだこの歌が和歌の初めであるという。八坂神社のかるた始めは、人垣の出来た能舞台で神主が台に載せた歌留多を祓い、大垂髪(おすべらかし)のかつらに十二単まがいの衣裳を身につけた若い女八人がゆっくり板の間の舞台を巡って二人づつ対面の座を作り、札を並べ、読み手の声に耳を澄ませ、探し当てた札に素早く手を置く━━。司会の者がその優雅な手合わせに終わりを告げると、八名の女は立って奥に控え、床に四畳半ぶんの畳が敷かれ、袴履きの二人の女有段者が入場し、競技かるたの対戦となる。そのはじまりには、小倉百人一首にない「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」の歌が読み上げられ、有段者の戦いであれば下の句の読み上げるやいなや女の手は札を畳みの外に弾き飛ばす。が、かるた始めが奉納行事であれば、その三十分の定めの時間が来れば互いに数枚を当てたのみで戦いは打ち止めされ、厳かに行事は終わりを告げ、人は去り、風が軒にぶら下がる提灯を揺らし、冷え冷えとした舞台の床が目の前に残る。そのかみの恋のはじめの歌留多かな 細川加賀。歌留多撥ね白粉の香にほはせつ 正林白牛。

 「「神」は。それが生み出すものによって生み出される。それが必要とするものによって、自らが必要なものとなる。私たちには理解できないことであるが。」(『アリストス』ジョン・ファウルズ 小笠原豊樹訳 パピルス1992年)

 「東電社長、今春処理水放出方針変わらず 設備設置工事に万全」(令和5年1月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)