川沿いの桜が散った天神川に架かる三条通の橋の名は猿田彦橋である。その名の由来は橋の袂にある猿田彦神社から来ている。猿田彦神社の祭神は猿田彦神で、猿田彦神は、「天孫降臨に際し、八衢(やちまた)に立って天孫を迎え、日向の高千穂の槵触之峰(くしふるのみね)に導いた故事により、道祖神として信仰された」(『京都大事典』淡交社1984年刊)神である。この故事は『古事記』にこう記されている。「爾(しか)に天照大御神、高木神の命以ちて、太子(ヒツギノミコ)正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツワレカツカチハヤビアメノオシホノミミノミコト)に詔(みことの)りたまひしく、「今、葦原の中つ國を平け訖(を)へぬと白せり。故、言依(ことよ)さし賜ひし隨(まにま)に、降り坐(ま)して知らしめせ。」とのりたまひき。爾(しか)に其の太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、答へ白したまひしく、「僕(あ)は降らむ装束(よそひ)しつる間に、子生れ出でつ。名は天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命(アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギノミコト)ぞ。此の子を降すべし。」とまをしたまひき。此の御子は、高木神の女(むすめ)、萬幡豐秋津師比賣命(ヨロヅハタトヨアキヅシヒメノミコト)に御合(みあひ)して、生みませる子、天火明命アメノホアカリノミコト)。次に日子番能邇邇藝命(ヒコホノニニギノミコト)なり。是(ここ)を以つて白したまひし隨(まにま)に、日子能邇邇藝命詔(みこと)科(おほ)せて、「此の豐葦原の水穂の國は、汝(いまし)知らさむ國ぞと言依(ことよ)さし賜ふ。故、命の隨(まにま)に天降(あも)るべし。」とのりたまひき。爾(しか)に日子番能邇邇藝命、天降(あも)りまさむとする時に、天の八衢(やちまた)に居て、上(かみ)は高天が原を光(てら)し、下(しも)は葦原の中つ國を光(てら)す神、是(ここ)に有り。故爾(しか)に天照大御神、高木神の命以ちて、天宇受賣神(アメノウズメノカミ)に詔(みことの)りたまひしく、「汝(いまし)は手弱女人(たわやめ)にはあれども、伊牟迦布神(イムカフカミ)と面勝(おもか)つ神なり。故、専(もは)ら汝(いまし)往きて問はむは、『吾が御子の天降(あも)り爲(す)る道を、誰ぞ如此(かく)て居る。』ととへ。」とのりたまひき。故、問ひ賜ふ時に、答へ白ししく、「僕(あ)は國つ神、名は猨田毘古神(サルタビコノカミ)ぞ。出で居る所以(ゆゑ)は、天つ神の御子天降(あも)り坐(ま)すと聞きつる故に、御前に仕へ奉らむとして、參向(まゐむか)へ侍(さもら)ふぞ。」とまをしき。」天照大御神が高木神を通じて太子(ヒツギノミコ)、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツワレカツカチハヤビアメノオシホノミミノミコト)にこう云った。「今、葦原の中つ國は命令に従って鎮まった。前々から云っていた通り、降って治めよ。」すると太子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命はこう応えた。「仰せの通り支度をしておりました間に私に子が出来ました。その子の名は天邇岐志國邇岐志天津日髙日子番能邇邇藝命(アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギノミコト)といいます。この子を降ろしてはどうかと。」この子は高木神の娘萬幡豐秋津師比賣命(ヨロヅハタトヨアキヅシヒメノミコト)と契って生まれた天火明命アメノホアカリノミコト)の次に生まれた子である。天照大御神はこの申し出を受け入れ、天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命に「豐葦原の水穂の國はお前が治めよ。すなわち天より降れ」かくて天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命がいましも降ろうとする時、その途中の八衢(やちまた)の辻で、高天が原と葦原の中つ國を同時に照らしている神があった。そこで天照大御神は高木神を通じて天宇受賣神(アメノウズメノカミ)にこう申しつけた。「お前はか弱き女ながらどんな神に相対しても臆することがない神だ。一人で行ってこう問い質せ。「わが御子が天降(あも)る道で立ちはだかるお前は何者だ。」天宇受賣命は仰せの通り問い質すと、その神はこう応えた。「私は國つ神で、猨田毘古という者です。どうしてここに立っているのかというと、天つ神の御子がお降りになられるとお聞きし、道案内のお迎えにあがった次第です。」この猿田彦の風貌は『日本書紀』によれば、「其の鼻の長さ七咫(一咫(し)約十八センチ)、背の高さ七尺余り、口尻明く耀(て)れり。眼は八咫鏡の如くして、赩然(てりかがやき)赤酸醬(かがち、ほおずき)に似」ていたという。そして猿田彦らに導かれた天孫、天津日子番能邇邇藝命は、「天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐弖(いつのちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理(うきじまり)、蘇理多多斯弖(そりたたして)、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降(あも)りまさしめき。」役目を終えた猿田彦は、「其の猨田毘古神、阿邪詞(あざか)に坐(ま)す時、漁爲(いざりし)て、比良夫貝(ひらぶがひ)に其の手を咋(く)ひ合(あは)さえて、海鹽(うしほ、海水)に沈み溺れたまひき。」伊勢辺りの海で貝に手を挟まれ溺れ死んだという。世にプロデューサー・ディレクターなる職があり、その従兄のディレクターは「驚きももの木20世紀」などの演出を手掛けた後、さる芸能事務所に所属を移した。映画を撮らせてくれるという約束だったという。その従兄から二つの映画の企画を聞いたことがある。一つは別れ離れとなった母を探す子の話である。母親はドサ回りのストリッパーであるという。もう一つは「百円シンガー」なるドサ回りの演歌歌手の話である。母を探す子には興味が湧かない。が、会いたくない母に会わざるを得なくなった子であれば面白いかもしれない、火事で煙を吸って声を失ってしまう歌手はどうかと考えたが、その従兄からの返事がないまま時は移り、ついぞ映画を撮ったという話も聞かないまま、先日その従兄が世を去った。猿田彦とその従兄との間に何の関係もない。たまたま猿田彦神社に立ち寄った日にその訃報を耳にしたということである。猿田彦が海の底に沈んだ時の名は「底度久御魂(そこどくみたま)」といい、その海水のつぶ立った名を「都夫多都御魂(つぶたつみたま)」といい、その泡が裂けた時の名を「阿和佐久御魂(あわさくみたま)」というという。合掌。

 「将軍は庭にいた。彼は秋の息吹に葉の落ちつくしたりんごの木を見まわりながら、庭番の老人を相手に暖かなわらでていねいに幹を巻いてやっていた。その顔には平安と健康と、人の好さとがうかんでいた。私の姿を見ると大いに喜んで、私の目撃して来た恐ろしい出来事をいろいろと尋ねはじめた。私はそのときの模様をのこらず話した。老人はじっときき入りながら、枝にはさみを入れていた。」(『大尉の娘』プーシキン 神西清訳 岩波文庫1959年)

 「耐震性再評価に数カ月 1号機格納容器、土台内側が全周損傷か」(令和5年4月5日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)