蕪村忌の心遊ぶや京丹後 青木月斗。与謝蕪村の本姓は谷口で、与謝と名乗るようになったのは、母親の出身地である丹後与謝で四十過ぎに幾年かを過ごした後である。丹後国は「太邇波乃美知乃之利(たにはのみちのしり)」という呼び方をするという。「和銅六年(713)夏四月乙未(三日)、丹波国の五郡(加佐、与謝、丹波、竹野、熊野)を割きて、始めて丹後国を置く」(『続日本紀』)都からより遠くなった丹波国から分かれた尻の方を丹後国(たにはのみちのしり)としたのである。この丹後国の「風土記」の「逸文」に「羽衣伝説」が記されている。「丹後の國の風土記に曰(い)はく、丹後の國丹波(たには)の郡(こほり)。郡家(こほりのみやけ)の西北(いぬゐ)の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。其の名を眞奈井(まなゐ)と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女(あまつをとめ)八人降り來て水浴みき。時に老夫婦(おきなとおみなと)あり。其の名を和奈佐(わなさ)の老夫(おきな)・和奈佐(わなさ)の老婦(おみな)と曰(い)ふ。この老等(おきなら)、此の井に至りて、竊(ひそ)かに天女(あまつをとめ)一人の衣裳(きもの)を取り藏(かく)しき。卽(やが)て衣裳ある者は皆天に上りき。但(ただ)、衣裳なき女娘(をとめ)一人留まりて、卽(すなは)ち身は水に隠して、獨(ひとり)懷愧(は)ぢ居りき。爰(ここ)に、老夫(おきな)、天女(あまつをとめ)に謂(い)ひけらく、「吾(あ)に兒(こ)なし。請(こ)ふらくは、天女娘(あまつをとめ)、汝(いまし)、兒(こ)と爲(な)りませ」といひき。(天女(あまつをとめ)答へけらく、「妾(あれ)獨(ひとり)人間(ひとのよ)に留まりつ。何ぞ敢(あ)へて従はざらむ。請(こ)ふらくは衣裳(きもの)を許したまへ」といひき。老夫(おきな)、「天女娘(あまつをとめ)、何ぞ欺(あざむ)かむと存(おも)ふや」と曰(い)へば、天女(あまつをとめ)の云ひけらく、「凡(すべ)て天人(あめひと)の志(こころばへ)は、信(まこと)を以(も)ちて本(もと)と爲(な)す。何ぞ疑心(うたがひ)多くして、衣裳(きもの)を許さざる」といひき。老夫(おきな)答へけらく、「疑(うたがひ)多く信(まこと)なきは率土(ひとのよ)の常なり。故(かれ)、此の心を以(も)ちて、許さじと爲(おも)ひしのみ」といひて、遂(つひ)に許して、)卽(すなは)ち相副(あひたぐ)へて宅(いへ)に往(い)き、卽(すなは)ち相住むこと十餘歳(ととせあまり)なりき。爰(ここ)に、天女(あまつをとめ)、善(よ)く酒を醸(か)み爲(つく)りき。一坏(ひとつき)飮めば、吉(よ)く万(よろづ)の病除(い)ゆ。其の一坏(ひとつき)の直(あたひ)の財(たから)は車に積みて送りき。時に、其の家豐かに、土形(ひぢかた)富めりき。故(かれ)、土形(ひぢかた)の里と云ひき。此(こ)を中間(なかつよ)より今時(いま)に至りて、便(すなは)ち比治の里と云ふ。後、老夫婦(おきなおみら)等、天女(あまつをとめ)に謂(い)ひけらく、「汝(いまし)は吾(あ)が兒(こ)にあらず。蹔(しまら)く借(かり)に住めるのみ。早く出で去(ゆ)きね」といひき。ここに、天女(あまつをとめ)、天を仰ぎて哭慟(なげ)き、地に俯(うつぶ)して哀吟(かな)しみ、卽(やが)て老夫等(おきなら)に謂(い)ひけらく、「妾(あ)は私意(わがこころ)から來つるにあらず。是(こ)は老夫等(おきなら)が願へるなり。何ぞ猒惡(いと)ふ心を發(おこ)して、忽(たちまち)に、出(いだ)し去(す)つる痛きことを存(おも)ふや」といひき。老夫(おきな)、增(ますます)發瞋(いか)りて去(ゆ)かむことを願(もと)む。天女(あまつをとめ)、涙を流して、微(すこ)しく門の外に退(しりぞ)き、鄕人(さとびと)に謂(い)ひけらく、「久しく人間(ひとのよ)に沈みて天に還ることを得ず。復(また)、親故(したしきもの)もなく、居らむ由(すべ)を知らず。吾(あれ)、何(いか)にせむ、何(いか)にせむ」といひて、涙を拭(のご)ひて嗟歎(なげ)き、天を仰ぎて哥(うた)ひしく、天の原 ふり放(さ)け見れば 霞立ち 家路まどひて 行方しらずも。遂に退き去(ゆ)きて荒鹽(あらしほ)の村に至り、卽(すなは)ち村人等に謂(い)ひけらく、「老父老婦(おきなおみな)の意(こころ)を思へば、我が心、荒鹽(あらしほ)に異なることなし」といへり。仍(よ)りて比治(ひぢ)の里の荒鹽(あらしほ)の村と云ふ。亦(また)、丹波の里の哭木(なきき)の村に至り、槻(つき)の木に據(よ)りて哭(な)きき。故(かれ)、哭木(なきき)の村と云ふ。復(また)竹野の郡(こほり)船木の里の奈具(なぐ)の村に至り、卽(すなは)ち村人等に謂(い)ひけらく、「此處(ここ)にして、我が心なぐしく成りぬ。古事に平善(たひらけ)きをば奈具志(なぐし)と云ふ。」といひて、乃(すなは)ち此の村に留まり居りき。斯(こ)は、謂(い)はゆる竹野の郡(こほり)の奈具(なぐ)の社(やしろ)に坐(いま)す豐宇賀能賣命(とようかのめのみこと)なり。」丹後の国の風土記によると、丹後国丹波郡の役所の西北の外れに比治(ひぢ)という村があり、この村の比治山(鱒留の菱山)の頂上に泉が湧き出ていて、真奈井と呼ばれていたが、今は沼のようになっている。ある時この泉に八人の天女が空から降り、着ていて着物を脱いで水を浴びていた。ちょうどその時、この麓に住んでいた和奈佐(わなさ)の老夫(おきな)、老婦(おみな)という老夫婦が登って来てこの天女らを目にすると、密かにその一人が着ていたものを盗み取って隠した。それから暫くすると天女らは着ていたものを身につけ天に飛び去って行ったのであるが、着物を盗まれた天女だけは飛んで行くことが出来ず、一人恥ずかしい思いで水の中に身を隠していた。そこに着物を盗んだ老夫がやって来て天女にこう話しかけたという。「私ども夫婦には子どもがございません。それでお願いがございます。あなた様が私どもの子どもになってくださいませ」(それを聞いた天女はこう応えたという。「私一人がこうして人の住む世に留まりましたのです。私は従わないわけにゆきません。ですからお願いです。着物をお返しください」それを聞いて老夫はこう応えた、「天女よ、どうせそんなことをしたら約束を破って帰ってしまうだろう」天女はこう返した、「天に住む者の考えは皆、信じることにあります。何をそこまでお疑いになって私が着物を着ることをお許しにならないのです?」「人を疑って信じないのは人の世の常なのだ。だからそう考えればやすやすと許すことは出来ない」と応えた老夫だったが、ついには折れて着物を天女に返し)、一緒に老夫婦の家に連れ帰り、それから十年を越えて一緒に暮らしたのである。この天女は酒を造るのがとても上手だった。何とその酒は一杯飲んだだけでどんな病いも治すことが出来たのである。そうであったからその一杯の酒は車一台分の金の値打ちにまで高まり、老夫婦の家は富み、麓の田畑に水を引いて豊かになった。そういうわけでこ辺りを土形(ひぢかた、埿潟)の里と云われるようになり、その途中の幾つかの時代を経て今に至るまでそのまま比治の村というのである。大金持ちになった老夫婦はある時、天女にこう云った、「お前は私らの本当の子どもではない。いままではここに仮住まいをさせていたようなものだから、もうここから出て行ってくれ」これを聞いた天女は天を仰いで嘆き、地に伏して涙を流し、それから顔つきを変えて向き直り、老夫婦にこう云ったという。「私は自分からここに来たのではありません。あなたがたがお願いしたからではないですか。それなのになぜそこまで私を嫌っていますぐここから出ていけなどという酷いことをお思いになるのですか」老夫はそれを聞くとますます怒って、とっとと出ていけと天女に云い放った。天女は泣きながらその場から門を飛び出し、村人にこう云ったという。「ずっと人の世に身を落してしまい天に帰るあてがありません。ここには一人の身寄りもなく、私はもはやここにいる理由もないのです。私はどうしたらいいのでしょう、どうしたら」こう云うと天女は涙を拭ってため息をつくと、天を仰いで歌を唄った。天の方を遥かに眺めやれば、霞がたちこめていて、我が家へ帰る路も見えず、どうしていいやら迷うばかり。それから天女はここを去って荒塩という村に辿り着き、その村人らにこう云ったという。「老夫婦の仕打ちによっていまの私の心はまるで荒潮のようなのです」それで、ここを比治の里の荒塩の村というようになった。それから天女はまたこの地から去って丹波の里の哭木(なきき)の村に辿り着き、槻の木に寄りかかって哭(な)いたので、ここが哭木(なきき)の村といわれるようになった。そしてまた天女はここに留まることなく、竹野の郡船木の里の奈具(なぐ)の村に辿り着き、村人にこう云った、「この地に到ってようやく私の心は穏やかになることが出来ました(古い云い方で、平善(たひらけ)を奈具という)」それから天女はこの村に住み暮らし、いま竹野の郡の奈具(なぐ)の社に祀られている豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)がこの天女である。「丹後国風土記」の「逸文」には「浦嶼子(うらしまこ、浦島太郎)」の話も記されている。「さんせう太夫」は、母親から引き離された安寿と厨子王が丹後由良の長者さんせう太夫に買われ、そこで虐待を受けた安寿が死に、厨子王がさんせう太夫に復讐する話である。『宇治拾遺物語』にある「尼、地蔵見奉る事」の舞台も丹後国である。「今は昔、丹後の国に、老尼ありけり。地蔵菩薩は、暁ごとにありき給ふといふことを、ほのかに聞きて、暁ごとに、地蔵見奉らんとて、ひと世界を惑ひありくに、博打のうちほうけてゐたるが見て、「尼君は、寒きに、何わざし給ふぞ」と言へば、「地蔵菩薩の暁にありき給ふなるに、あひ参らせんとて、かくありくなり」と言へば、「地蔵のありかせ給ふ道は、われこそ知りたれ。いざ給へ、あはせ参らせん」と言へば、「あはれ、嬉しきことかな。地蔵のありかせ給はんところへ、われを率(ゐ)ておはせよ」と言へば、「われに物を得させ給へ、やがて率(ゐ)て奉らん」と言ひければ、「この着たる衣(きぬ)奉らん」と言へば、「さは、いざ給へ」とて、隣なるところへ率(ゐ)て行く。尼、悦びて急ぎ行くに、そこの子に、地蔵といふ童(わらは)ありけるを、それが親を知りたりけるによりて、「地蔵は」と問ひければ、親、「遊びに去(い)ぬ。今来なん」と言へば、「くは、ここなり。地蔵のおはしますところは」と言へば、尼、嬉しくて、紬(つむぎ)の衣を脱ぎて取らすれば、博打は、急ぎて取りて去(い)ぬ。尼は、地蔵見奉らせんとてゐたれば、親どもは、心得ず、などこの童を見んと思ふほどに、十ばかりの童の来たるを、「くは、地蔵よ」と言へば、尼、見るままに、是非も知らず、臥しまろびて、拝み入りて、土にうつ臥したり。童、楉(すはえ)を持て遊びけるままに、来たりけるが、その楉(すはえ)して、手すさみのやうに額をかけば、額より顔の上まで裂けぬ。裂けたる中より、えもいはずめでたき地蔵の御顔見え給ふ。尼、拝み入りて、うち見上げたれば、かくて立ち給へれば、涙を流して、拝み入り参らせて、やがて極楽へ参りにけり。されば、心にだにも深く念じつれば、仏も見え給ふなりけりと信ずべし。」昔、丹後の国に一人の年を取った尼がいた。その老尼が地蔵菩薩は暁の時刻を待ってお歩きになるということを小耳にはさみ、暁の時刻になると、地蔵を拝みたいと自分の足で歩いていけるところをどこまでもあてもなく彷徨(さまよ)っていた。そんなある日、博打うちが有り金をすって途方に暮れていたところに老尼がやって来たのが目に入り、「尼様、こんな寒いこんな時刻に何をしていらっしゃるのです?」と訊く。と老尼は、「地蔵菩薩は暁にお歩きなさるので、お目にかかって手を合わせたいと思い、このように探し歩いているところです」と応える。すると博打うちが、「地蔵がお歩きになる道ならこの私が知っています。さあいらっしゃい。会わせて差し上げましょう」と云うと、「本当か。こんな嬉しいことはない。地蔵がお歩きになるところへぜひ私を連れて行ってくだされ」と老尼が云うと、博打うちは、「約束するかわりに、私に何か頂けませんか。もし頂ければいますぐにでも連れて差し上げます」と云う。それを聞いた老尼は、「いま着ている衣を差し上げましょう」と応えた。その言葉を聞いた博打うちは、「それでは、どうぞこちらです」と近くの家まで連れ立つと、老尼は悦びを隠しきれないように早足になる。実は博打うちは、その家に地蔵というあだ名の子どもがいて、その親のことも顔見知りだったので、「地蔵はどこだ」とその親に訊くと、親は、「遊びに行ってるけど、もう帰って来るころだ」と応え、「ごらんの通り、こちらですよ、地蔵のおいでになるところは」と博打うちが老尼に云うと、老尼は感激して着ていた紬の着物を脱いで手渡すと、博打うちはひったくるようにして出て行った。老尼は一刻も早く地蔵を拝みたくて落ち着かなかったが、その家の親たちは何のことかさっぱり分からず、どうしてうちの子の顔を見たいなどと云っているのかと訝(いぶか)しく思っていると、十才ぐらいの子どもが帰って来たのを見て、「ほら、地蔵だよ」と老尼に云うと、老尼はひと目見るやいなや我を忘れ、まるで転がり込むようにひれ伏し、ひたすら手を合わせてはひれ伏した。その子どもといえば、手に持った真っ直ぐな若い木の枝でそこいらをいたずらしてきたような勢いで帰って来ると、その枝で自分の額を無雑作に掻いた。すると子どもの額から顔が裂けていくではないか。そして何とその裂け目から言葉に出来ないようなありがたい地蔵の顔を現しなさった。額ずいてひたすら手を合わせていた老尼がほんの少し顔を上げる。地蔵が目の前にお立ちになっている。老尼は感激の涙をこぼしながらひたすら拝んでおりましたが、ついにそのまま極楽往生を遂げたのです。だから心の中でだけでも深く念じれば、仏も姿をお見せになると信じるのです。この子どもの顔から出現した地蔵は、老尼の手を引き浄土に導いたのに違いない。であれば子どもの姿は親の目の前から消え失せ、親の足元には子どもが持っていた一本の枝だけが子どもがいたことの証しのように残されている。丹後には天橋立がある。が、丹後には行ったことはない。これから行く予定もいまのところない。丹後せつなし 頭たたいて 舌出す遊び 高柳重信

 「ただ今語り申す物語、国を申さば丹後の国、金焼(かなやき)地蔵の御本地(ごほんぢ)を、あらあら(ざっと)説きたて広め申すに、これも(この地蔵も)一度(ひとたび)は人間にておはします。人間にての御本地を尋ね申すに、国を申さば奥州日の本の将軍、岩城(いはき、磐城)の判官正氏殿にて、諸事の哀れをとどめたり(いろいろ哀れなことがあった)。この正氏殿と申すは、情のこはいによつて(強情なため)、筑紫安楽寺大宰府神社の神宮寺)へ流されたまひ、憂き思ひを召されておはします。あらいたはしや御台所(みだいどころ、正氏の奥方)は、姫と若(姫君と若君とともに、安寿と厨子王)、伊達の郡(こほり)信夫の荘へ御浪人(流浪の身)をなされ、御嘆きはことはりなり(もっともである)。ある日の内のことなるに、いづくとも知らずして、燕夫婦舞ひ下がり、御庭のちりを含み取り、長押(なげし)の上に巣をかけて、十二のかいご(卵)を暖めて、父鳥互ひに養育つかまつる。つし王丸は御覧じて、「なう、母御様。あの鳥、名を何と申す」とお問ひある。母御この由きこしめし、「あれは常磐(ときは)の国よりも来る鳥なれば、燕と申すなり。又は耆婆(ぎば)とも申すなり。なんぼう優しき鳥ぞかし。」(「さんせう太夫」『新潮日本古典集成 説経集』新潮社1977年)

 「「海底トンネル」海水の注入始まる 福島第1原発、処理水放出」(令和5年6月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)