「私は初めて日本を訪ねる前に、次のようなことを読んだ覚えがあった。足利義政は戦闘が行なわれている間もなお自分の御殿に住み続け、そこはおそらく戦闘の現場からほんの百メートルしか離れていないところだった。義政はそこで、のどかに茶の湯を楽しみ、庭園を愛で、蒐集した中国の山水画を眺めて楽しんでいた、というのである。」(ドナルド・キーン 角地幸男訳『足利義政銀閣寺』中公文庫2008年)足利義政は、二つ上の兄義勝の後を嗣ぎ、十三歳で第八代足利将軍になった。兄義勝が将軍の職に就いたのは九歳である。義勝・義政の父六代将軍義教は、籤引きで将軍となり、守護赤松一族の内紛に口を挟んだことで、招かれた祝宴の席で赤松満祐に殺された。五代将軍義量の在位は二年だった。義量の父四代将軍義持は、義教の腹違いの次兄である。義持・義教の父は、三代将軍義満である。管領家畠山が義就、政長の間で家督を争い、斯波家で義敏と義兼で家督を争い、将軍義政の弟義視と息子義尚の家督相続争いに、細川勝元山名持豊が加わり、応仁・文明の乱と呼ばれる争い事が始まり、戦いは東軍西軍に分かれ、十年余の間続くのであるが、将軍義政は、この争い事の間中おのれの隠居のことを考えていた。隠居する場所は決まっていた。東山浄土寺である。なりたくてなった将軍の位ではない。たまたま御鉢が回って来たのである。政治権力の使い方は身につけていなかった。が、我が儘を通すことが出来る地位であることには違いなかった。我が儘の大部分は金で叶う程度のことだった。最後の我が儘は、隠居所を造ることである。応仁・文明の乱が尻すぼみに終結して暫くの後、東山に隠居所が出来た。隠居場所には山が迫り、義政はその山裾を使った庭を作った。隠居所の棟の一つに小さな間を仕切り、四枚半の畳を敷き、花瓶を置く棚と書物を片づける奥行を設け、障子戸を立てた。それは、それまでにない室の作りだった。その四畳半の室は、乱のさ中に義政の頭の中でこしらえた座敷である。妻の富子とも息子の義尚とも上手くいかなかった義政は剃髪し、頭の中から取り出したその四畳半の室の中に、好きなものを持って入り、後ろ手で障子の戸を閉めた。東山慈照寺銀閣寺と呼ばれている。義政が建てた時は、東山殿と呼ばれていた。苔生した庭の径を巡り上ると、意外なほどの高みに至る。寺を一望出来る展望所である。時折棲む鳥の声がする。鳥の鳴き声に混じり、戸の閉じる音が聞こえたならば、それは義政が障子戸を閉めた音である。

 「戦史家たちは、敵が退却をはじめたなら、追撃するのが本筋で、寝床につくなどはもってのほかだと常識に照らした見方をした。」(バーバラ・W・タックマン 山室まりや訳『八月の砲声』筑摩書房1965年)

 「春に濃度が上昇 阿武隈川・川底の放射性セシウム」(平成27年6月21日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)