西陣上立売通浄福寺東入ルの雨宝院の南門を入って左傍らに植わる御衣黄を今年は見ることが出来ない、ばかりでなく来年も目にすることが出来ない。門の内の柱に「御衣黄桜は残念ながら枯れてしまいました。」と書いた白い紙が貼ってある。塀越しにも見ることが出来たその木は、やや薄黒くなった裸の枝を中空に晒しているだけである。去年色が染まる前の葉を急に落しはじめたのだという。改めて枝を見上げれば胸を突かれる。原因は分からない。病気であるか、老いたのか。御衣黄は去年の猛暑をやり過ごし、地中に張った根が水を吸わなくなった。吸えなくなったのか、自ら吸うのを止めたのか。木が水を吸わなくなるというのはどういうことなのであろう。自ら感じていたはずの生命が、次第次第に感じなくなっていくのであろうか。一切の声も立てず、樹木の死は穏やかである、とたとえば書くと、樹木の悲鳴に気づかなかったのではないか、と口を挟む者があるかもしれない。この御衣黄は悲鳴を上げていたのかもしれない。が、そのような素振りを見せない樹木もあるのではないか。枯れた樹木は自ら倒れ、あるいは人の手で切り倒される。雨宝院の御衣黄は恐らく切り倒されるのであろう。「残念ながら枯れてしま」ったのであるから。雨宝院の枯れた御衣黄を「見た」足で、上立売通を西へ、千本通を越えて大報恩寺千本釈迦堂の南門を潜る。本堂前の枝垂れ桜が散った境内の目立たぬところに細枝を垂らし御衣黄が咲いている。雨宝院の御衣黄よりも幹はひと回り細く若い木であると分かる。御衣黄の萌黄色は「公家の着る衣」の色であるという。芯から花びらに一筋づつ桜色のすじが入り、やがてその桜色が滲むように広がって御衣黄は散るのである。雨宝院の御衣黄も去年はそのように花を咲かせて散ったのであるが。この日、もう一本の桜を見に南に下がり、壬生通八条角の六孫王神社まで足を伸ばした。六孫王神社の境内には御衣黄の「兄弟」ともいうべき鬱金桜が御衣黄と同じ頃に咲く。六孫王神社鬱金桜は薄く水を張った池に架かるセメントの太鼓橋の袂に咲いている。着いて鳥居を潜った丁度その時、右手に植わるソメイヨシノがサアッと目の前が霞むほど花吹雪を散らせ、思わず足を止める。風が止み、後ろからタクシーが一台鳥居を潜った先で止まる。と、真新しい制服姿の子どもが二人とその親であろう「よそ行き姿」の若い夫婦が降りてきて、拝殿の方には向かわず、丈の低い八重桜の前に子どもを立たせ、携帯電話で半分逆光で陰る二人を撮る。入園入学式の帰りに六孫王神社の桜を目にし、あるいはあらかじめまだ咲いていることを知っていて立ち寄ったのに違いない。またも吹き散る花吹雪の中で、そして止むのを待って父親と母親が自分の携帯電話で子どもだけの写真を何枚か撮ると、待たせてあったタクシーに乗り込み砂利音を立て境内から出て行く。花吹雪の止んだ境内は暫く静まり返る、いま目にした親子の姿などなかったかのように。鬱金桜も御衣黄ソメイヨシノなどと比べれば目にすることの少ない桜である。人目につかないところ、野山で自らひっそり咲いているという桜でもない。そして、人に植えられなければ、人知れず枯れるということもない。

 「「豆まきして豆が残ると、にんじんのしっぽとか入れて、みそ豆、作っていましたね」鬼は外、福は内。福を呼び寄せたあとで作るみそ豆は、あったかご飯に似合う甘辛味。ますの底に残った豆にも、まめまめしく福を見出した。『今でも私は客が小皿に残した醤油を捨てるとき、胸の奥で少し痛むものがある』(夜中の薔薇『残った醤油』)」(『向田邦子の手料理』向田和子監修 講談社1989年)

 「処理水5回目放出、19日から 福島第1原発」(令和6年4月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 雨宝院。

 千本釈迦堂御衣黄と普賢象。

 六孫王神社鬱金桜とソメイヨシノ

 寺町通今出川上ル本満寺の枝垂れ桜。

 帷子ノ辻踏切りのソメイヨシノ

 過日新宿御苑鬱金桜。